ホームページ論

--批評的見地からホームページを読む--

(このページの最終更新日:2001年12月4日)

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[近い将来、英語によるホームページ作成をめざした授業を開講したいと思っています。もちろん、授業のタイトルとして見ると、「ホームページ論」というのはいささか「緩い」感を否めないので、「ウェブサイト構造論」ないしは「テクストからハイパーテクストへ」とでも銘打ったほうがよいかもしれません。ともあれ、その機会に話そうと思っていることがらのいくつかを簡単に祖述しておくこととします。]

1. ホームページは「家」ではないということ

"Welcome to my homepage!" あるいは「ようこそ私のホームページへ」という決まり文句は、個人か企業か公共機関かを問わず、きわめて多くのホームページで眼にすることのできるものです。「ホーム」という呼称自体がそうした錯覚の一因となっているのかもしれません。が、じつのところ、ホームページとは「家」のようなものではないと断じられるべきでしょう。いろいろな動機、いろいろな目的でそのサイトを訪れたひとは、いかなる場合にあっても等しい条件で迎え入れられて当然なのであり、すべてのひとが情報を共有する共同体の成員であることが暗黙の了解事項とされるべきであって、わざわざ、しらじらしくも発せられた「ようこそ」という呼びかけは、たんなる無自覚からきた冗句にすぎないのです。

逆にいうならば、いかにも一軒の「家」であるかのような佇まいをもって、部外者と部内者とを区別するような種類のホームページは、ウェブサイトの公共性という倫理的観点からすれば、容認しがたいものといえるでしょう。家族の近況報告のみに限定されたページでは、それ以上のなにかを望むべくもありませんが、大学の研究室、ゼミなどのホームページなどまでもが、家族的親密性の表現(飲み会の記録、集合写真、楽屋落ち、内輪話など)で埋めつくされてよい理由があるとは申せません。プライヴェートな空間を広く公開することにいかなる意味があるかは慎重に検討されてしかるべき問題であり、一部のひとのみに居心地のよさを振りまくという目的により、対社会的な意義が片隅に追いやられるようなことがあってはならないのです。


2. 大学教授のホームページはどのようなものであるべきかということ

通常の場合、大学教授のホームページは大学内のサーヴァーにアップロードされていて、大学のホームページからリンクが張られています。これら個人運営のサイトと称されるもののうち、最良のものにかんしては、学外者、入学希望者が、その大学でなされている教育と研究の実態を把握するうえで、まことに有益な情報源となっていると見なすことができます。そのいっぽうで、全体的に見まわすならば、大学教授のホームページはまことに多くの問題点を秘めたものでもあります。

問題点その1:個人のホームページとしてもあまりにも内容に乏しいものが多いということ。「内容に乏しい」というのがどのような程度までをさしているのか厳密に規定することはむずかしいのですが、某国立大学文学部文学科英語英文学コースで、数人のスタッフのホームページが表紙しか存在しないまま、4年数箇月経過している例があります。そうしたページであっても、これまでに数百件を超えるアクセスがあるらしいので、それだけの数の人びとがなんらかの情報を得られるかもしれないという期待を完全に裏切られ、失望を味わったことになります。

問題点その2:授業にかんする連絡事項が大部分を占めていること。もちろん、大学教授のホームページのすべてがそうだというわけではありません。しかし、レポーターの順番決定、発表にかんする講評などを主要目的としたサイトが存在していることは事実です。このような用途のためにはむしろメーリング・リストを活用するほうが望ましいと思えます。また、教授一個人の近況報告、日々の感慨、近著の宣伝などと同様、あまりにも突出しているという印象を与えないよう、サイトの全体構成のうちでバランスに心を砕く必要があります。

問題点その3:ペットや趣味の話は必要なのかということ。デジカメの普及により、写真をデザインの根幹に据えたいという誘惑には歯止めがきかなくなっているかのようでもあります。愛犬、愛猫の愛くるしいポートレイトが来訪者を迎えてくれるページのなんと多いことでしょうか。大学教授の場合も例外ではなく、まめなひとにいたっては、愛犬、愛猫の観察日記まで継続的に更新しているほどです。趣味のページというか、学問以外の領域にかんし、長く育んできた蘊蓄を傾けるコーナーに情熱を注ぐひとも見られます。

おおざっぱに遊びの世界とでも称すべき分野に時間と労力を割くことのできる心の余裕には、たしかに見習うべきところがあり、硬と軟、ハレとケという対極的側面をひとつのサイトに導入するという選択は(皮肉ではなく)正しいものかもしれません。ただし、なにごとにも限度があるということもまた揺るがしがたい事実であって、病膏肓に入っているという印象を与えることは避けておいたほうが無難でしょう。とくに大学教授のホームページの定期的ヴューアーは、感受性豊かであるとともに批判精神旺盛な年少者が多いと想定されるのですから。

問題点その4:大学教授のホームページは歴然として変なほうがよいのかということ。前項とも関係する点でありますが、雑誌類における特集記事の形で大学教授のホームページが紹介される場合、眼目とされる要素のひとつは、そこはかとなくページ全体に漂っていることを察知し得る、なんとはなしに風変わりな雰囲気であるように思われます。一般的にいうなら、人気サイトと見なされているテクスト中心のページにあっても、とぼけたおかしみ、よくいえば洒脱さのようなものがなんらかの媒体において評価され、その評価が波及的効果を生じさせ、「人気」なるものの実体が形成されるという傾向が見られるようです。

これは、わが国におけるインターネット文化がいまもって過渡的段階にあることを端的に例示するある種典型的とも呼べる現象かもしれません。個人が主体的に発信する情報が、ほほえましいヒューマーなどというような単一の価値のみに縛られるものでないことはここで改めて指摘するまでもないことです。情報の正確性、多様性、網羅性、更新の頻繁さなどがまず第一に重んじられるべきであり、デザイン上の洗練ということも今後ますます求められてゆかなければならない点でしょう。信頼し得る有益な情報発信源であるとともに、美的、藝術的独創性によって利用者を喜ばせるようなページがふえてゆくこが必要であり、その点では大学教授のホームページもまたけっして例外ではないのです。


3. それなりの勉強をしなくてもホームページはできるのかということ

もちろん「できる」には相違ありません。しかし、ここでもまた大学教授のホームページを槍玉にあげるようで心苦しいのですが、それらを筆頭として、あまりにも変なページが世に蔓延していることはまずまちがいのない事実です。どのように変かと問われたら、動かない、重すぎる、横に広がりすぎている、へたをするとPCがフリーズして再起動させざるを得なくなる--といった致命的欠陥を指摘するだけでじゅうぶんでしょう(このサイトにおいても、さまざまな試行錯誤の途上でその種の障碍が生じる可能性はあります。デザインの問題はべつの機会に論じることとしましょう)。支障の多いページのソースを調べてみると、いちおうエディタと呼ばれるものを使っていることが多いので、それらのソフトに固有の難点が生じているのかもしれませんが、いちばんいけないのはおそらく、作成者がHTMLその他についてほとんど研究してみることもなく、「とりあえずやってみるか」という気持ちで運用を開始し、そのまま多年にわたって惰性的に更新を繰り返していることなのではないでしょうか。

すべてのひとがThe World Wide Web Consortium (W3C)の勧告書のような膨大な文書(幾多の奇特なかたがたによる日本語訳の試みもありますが、それらの助けを得たからといって、かなりの難物であることには変わりはありません)にくまなく眼をとおす必要があるとはいえません。しかし、相当量のファイルを管理する立場にあるひとならだれしも、自分が提供しているページが、複数のOS、複数のブラウザで正常に機能しているかどうかを点検するとともに、テクストの整形にかんする知識を深め、多少なりとも各ページの改善に努めてゆかなければならないでしょう。(未完:本稿は今後も徐々に書きたしてゆく予定でおります。)


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