序章 現代思想の<真理>批判をめぐって

1. はじめに――“考えあうこと”の希望

 

なぜフッサールなのか?

l         思想が作り出すもの 社会や人間に拘わる問題についてより強く深い考え方がありうるし、また、そうしたものを目指して考えていくことによって、困難な事柄に共に対処していくことがでかる、という希望。

 ⇔ 現代思想は、相対主義・懐疑主義に陥ってしまっている。

 ⇒ フッサールは、私たちが考えを洞察しつつ共有する可能性を明確に提示している。

 

2. 現代思想の<真理>批判

 

現代思想はなぜ、そして如何に、客観的真理を批判するのか。

l         19世紀までのヨーロッパ近代の「大きな物語」:

<理性的営みである学問を通じて、人間性と社会は、唯一の真理と正義とに向かって限りなく進歩していくことができる>

進歩の先にあったもの:二度の世界戦争、ファシズム及びスターリニズム

⇒ 理性と科学に対する深刻な懐疑・真理と正義の絶対化への批判

 

l         現代思想による客観的真理の批判(p10-19)

「客観的真理」の観念とは?

1. 言語や認識関心以前に、客観的な事態=客観的真理があらかじめ存在している。

2. この客観的真理は、言語でもって写し取ることができる。

(報告者補足:こうした観念は、真理への漸進的接近としての<進化>の思想と表裏をなすことに注意。したがって批判は、進化という考え方への批判ともなる)

 

批判:

われわれは言語や認識関心をはぎ取った<客観的現実>なるものに出会うことはできない。

真理は、それぞれの時代や文化に内属する相対的なものである。

どんな論証も究極的には、自明で問われることのない一群の信念(世界観)によって支えられる。真理は、社会的な基準に依拠している。(ウィトゲンシュタイン,ローティ)

 

3. <真理>批判の問題点

 

l         自然科学的説明には、他の世界説明と異なり、文化の違いを越えて広く人々に共有されていく力(普遍妥当性の確信をもたらす力)がある。客観的真理という観念はそれに支えられて成り立っている。このメカニズムを解明することが大切。

l         真理批判をする言説じたいの真理性はどうやって確かめればよいのか、という問題 ⇒ 自分の言語体験を想起・反省して、それをよく「見る」ことしかない。

⇒ 現象学という方法。

 

4. 現象学という方法

 

l         現象学の方法(本質観取) …自らの体験を反省しつつその「本質」を記述すること

事物知覚の例。事物を眺めるとき、直接に見えるのは一側面にすぎない。しかし事物それ自体は、この一側面を越えた、裏側もあるものとして把握されている。だから事物知覚は必ず、暗々裏に予想された部分を含んでいる。これは、数を計算する場合や想像体験の場合にはありえない。また知覚は、想像とは違って、対象それ自身がじかに与えられているという感触が伴う。

 

l          現象学という言語ゲーム

「いまテーブルの足は2本しか見えていないが、見えない所にあと2本、足があると思っているなあ」「なるほど想像と知覚の違いはフッサールのようにいえる」等々、だれかが為した「本質」の記述は、一人一人が自らの体験自身に照らし合わせながら、それに賛同したり訂正を試みたりすることができる

⇒ どんな人にも共通する体験の構造を確定すること。

主観の同型性を確かめ合うゲーム としての現象学.

 

l          厳密学としての哲学

  上述のような、「一人一人がみずからその根拠を洞察しつつ認識を共有していく」ための方法的原理は、学問の真理性だけでなく、善や美の意味についても広げうるものになるべき。フッサールは、こうした方法を徹底して求めた。

 

5. 現象学への批判

 

1. 意識は、そこから厳密学が可能になるような盤石の基礎ではない。

フロイトの無意識、マルクスの社会関係に規定された意識。

2. 永遠にアプリオリな「本質」などというものはない。

例えば「女性性」「男性性」の本質などというものは時代的な通念にすぎない。

3. 「厳密な学」などというものは、絶対的で不変の真理を追い求めようとする神学的な情熱にすぎず、不可能である。

 

l         反批判:社会(科学)の現象学(上の批判すべてに応えているわけではない)

社会科学的な思考の普遍性も、結局は、社会を構成するどんな人々の意識にとっても受け入れうるものであるかどうか、によって妥当性を判定されなければならない。

また、「社会」や「歴史」といった概念がどのようなものかという問題も、本質看取によらなければならない。

⇒ 意識が歴史的・社会的であると主張することは、意識に定位する哲学を否定するものではない。その歴史性・社会性を吟味する、<社会と歴史の現象学><社会科学と歴史科学の現象学>といったものが可能である。