第一章 “学問の基礎づけ”とは何か

参照:デカルト『省察』,フッサール『デカルト的省察』

 

1. <普遍学>の構想

 

l         諸学問の正しさは、絶対的な、それ以上溯り得ない洞察によって基礎付けを与えられる必要がある。

← 現象学は、それ自身が絶対的に基礎付けられ、他の諸学問を基礎付ける役割を果たすことを目指す。

 

l         二つの基礎づけ

1. 諸学の真理性に堅固な保証を与え、それらが正しく確実な知識であることにお墨付きを与える。

2. 学問の営みの意味を深く洞察する。ある学問の正当性はどの範囲で有効なのか、当の学問的主張の有効性の批判的吟味を遂行する。

← 現象学はこっち

 

2. “学問の理念”と基礎づけ

 

l         学問は、「基礎づけられた判断を求める努力」である。

基礎づけ … ある判断の根拠を示すことによってその判断の正当性・真理性を証明すること。一度行われた証明には、いつでも再び立ち返ることができる。

 

l         基礎づけは、最終的には明証Evidenzによって行われる。明証によって「空虚な判断」は「充実した判断」(正さがありありと分かるような判断)になる。

1. 経験的直観にもとづく明証。

「たしか隣の家には柿の木があったなあ」→ 見て確かめる。

2. 本質直観にもとづく明証。

「三角形の内角の和は二直角である」→ 証明をたどり直す

 

こうして学問は、「究極の基礎づけ」と「万人にとっての妥当」を求める。

…だが、なぜそれが必要なのか?

「万人にとっての妥当」→ 3節,「究極の基礎づけ」→ 4節

 

3. 学問は“洞察にもとづく共有”をめざす

 

(フッサールから離れ、西研さん自身の議論)

万人にとって妥当する真理とは、どのようなものか?

l         学問は、「根拠を示すことによって同意を獲得しようとする営み(言語ゲーム)」。

権威や権力によって確保される同意が通用しなくなったときに登場する営みであり、一人一人の洞察にもとづいて了解を共有することを目指す。

 

l         古代ギリシャと近代ヨーロッパでは、特異なことだが、こうした思索が活発になった。

条件(1)異なる世界観の衝突による自文化の相対化

    (2)討論が行われる公共空間の成立

 

l         学問の“初発の感覚”

<一人一人がみずから洞察し、おかしいと思えばいつでも異議申し立てができる。そうした議論のプロセスを通じて、共有しうる判断を形づくっていく>

⇒ 「万人に対する妥当」:批判を拒む抑圧的なものではなく、だれもが参加してみずから洞察することができるという意味。

 

4. デカルトはなぜ「第一哲学」を必要としたか

 

「方法的懐疑」の動機は何か?

       “さまざまな世界像が存在しており、しかもそれぞれの持ち主は自分の世界像こそただしいと信じている”という事実

       「われわれに確信を与えているものは、確かな認識であるよりもむしろはるかにより多く習慣であり先例である」。

       では習慣でない確実な認識はあるのか?

⇒ 私の世界像のすべてを(世界と事物の存在などきわめて自明なことも含めて)いったん、習慣的に信じ込んでいる事にすぎない、としてみる。それでもなお確実なものが残るならば、それは万人にとって妥当する確実な基礎。

・これによって目指すもの

(1)当時、発達しつつあった自然科学の確実性の裏づけ

(2)自然科学と信仰の関係の考察。(客観的・科学的真理と、人が生きる上での意味・価値の関係)

 

5. 二つの方法

 

(1)意識体験の反省にもとづく方法

例:「三角形の観念は不変で永遠であり、私によって描き出されたものではなく、私の精神に依存するものでもない」

これを聞いた人は、自分自身の意識体験に向かって問う。「なるほど、黒板に描かれた三角形は、線が曲がっていたり太かったりして、完全ではない。完全な三角形は頭の中にしか存在しない。しかし想像の産物とちがって定理が成立するのも確かだなあ…」。

各人が各人の意識のありようを自ら確かめては報告しあうことによって、“意識一般に共通する記述”をつくりあげようとする言語ゲーム

= <意識の同型性を尋ね合うゲーム>

 

(2)意識の場を、あたかも幾何学における公理のような出発点として、その外部を演繹的に推論していくという方法(デカルトの方法的自覚はこちらに近い)

例:事物。意識のなかには事物の観念があるが、これはおそらく意識の外側からやって来たに違いない。

 

デカルトの立場(2)では、<意識の内部と外部の一致はいかに保証されるか>という難問が生じる。

フッサールの立場(1)では、「意識の外部」は意識による信憑のはたらきから捉えられる。<「意識を超越した現実がある」という確信は、どのようにして各自の意識のなかで信じられ、また不断に再生産されているのか>

 

6. “学問の基礎づけ”とは何を意味するか

上述の「二つの方法」が学問の基礎づけにおいてどのような違いになるかが論じられる。

 

l         デカルト&フッサールが求めた確実性

普遍洞察性(普遍妥当性):誰もがみずから反省によって洞察できる

必当然性:疑う余地がない特別な明証がともなう。

(2)の方法によったデカルトは、神の存在証明や心身二元論など、普遍洞察性と必当然性を備えているとはいえない結論を導いてしまった。

 

l         二つの方法による学問の基礎づけ

(1)幾何学の証明のようなものであり、学問の正当性にお墨付きを与える。

(2)それぞれの学問が備えている真理性の意味を理解し、その方法や領域の有効範囲を吟味する。→ 学問が人間の生の全体性にとっていかなる意味をもつかを考える可能性を与える。

 

第二章 <生>にとって学問とは何か

参照:『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』

 

1. 人間の全生存に意味はあるか

l         実証的な自然科学が学問一般のモデルとなることで、学問から生の意味・価値の問題が抜け落ちてしまう。