参照:『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』
l 実証的な自然科学が学問一般のモデルとなることで、学問から生の意味・価値の問題が抜け落ちてしまい、単なる技術になってしまう。
l もともとの啓蒙の理念 … 「理性に従うこと=自由」
(理性 … 伝統や権威に依らず、判断の根拠をみずから洞察することで納得すること)
l では、「私はこう考える」⇒「だれもがこう考える」の移行は可能か?
つまり、人々がともに考え確かめあうことによって、さまざまな問題に対処していくことが可能である、という考えは、単なる思い込みか、根拠があるのか?
報告者補足:人間は言葉(スピーチ)によって、(広い意味で)政治的な活動を営む。しかし、近代科学は抽象的な数学を用いるために、意味に翻訳することが意味をなさず、問題が非政治的なものになる。(参考:アーレント『人間の条件』)
l 近代の学問の理念は、もともとは、価値や規範に関する問いも理性的に扱い、共通の探求の地盤に載せようとしていた。
⇒ 価値や規範が脱落した残余としての実証科学
報告者補足:「解放の近代性」と「技術の近代性」(ウォーラースティン『アフター・リベラリズム』)。両者は、啓蒙思想においては教会という共通の敵を前に一致しており、発展期には国家権力によって解放の近代性が馴化されることで技術の近代性に同一化されていたが、現代では対立・矛盾している。
l 価値や規範の問題を理性的に追究しようとしたロック、ヒューム、カント等の努力
… 主観のはたらきを解明し、知識がいかに生成するかを論じる。それによって、さまざまな知識が共通了解を獲得しえたりしえなかったりする理由を追究する。
but…「意識体験の反省記述」という方法をじゅうぶんにとっていなかった
and… 没価値的な自然科学の圧倒的成功の前に、影が薄くなってしまった
l 物理学主義的な合理主義:<あらかじめ数学的な法則にもとづいた自然が存在し、その法則を発見していくことによって、人は全知に近づいていく>
⇒ [学問があつかう物理法則的な客観世界] &
[主観的で非学問的な意味や価値の世界] の二元論。
⇒ 「心はいかにして外的世界と一致しうるのか?」「物理学的な決定論的世界において善悪や自由の根拠はどこにあるのか?」等、<意味・価値の領域>と<物的因果的領域>の関係が問えなくなる。
l そもそも「客観的真理」とは何か?わたしたちに普段まず与えられている生活世界から、物理学的な世界がいかにして成り立ってくるのか。
現象学は、客観的世界の確実性は、いかにして理解可能となるのかを、意識体験の反省記述という方法によって、問う。