精神分析的主体のオートポイエーシス

 

大光寺耕平

 

東京工業大学大学院社会理工学研究科価値システム専攻博士課程

 

e-mail: daikouji@valdes.titech.ac.jp

 

 


本稿は,人間の心理的なものの理論の内で,ジャック・ラカンの精神分析学理論をどのように位置づけるべきかを考察したものである.そのために,言説に関するラカンの理論を,ニクラス・ルーマンのオートポイエーシス的システム理論の立場から検討する.ラカン派の立場は,人間がことばを持っていることによって,精神的に動物とまったく異なる働きをすることを前提としている.本稿ではそれに対して,人間の精神が動物と共通する面をも持っていることを重視し,<語る主体>と<動物的存在>の二重性を仮定すべきことを,そのような二重性を理論的に扱うことの難しさとともに指摘した.それからルーマンのシステム理論と比較することによって,ラカンにおける「構造」の概念が,システムの内在的な関係ではなく環境との関係に指向していること,及びシステムが環境の刺激を利用するさいに「脱トートロジー化」の機構によっていること,という2点でルーマンのシステム理論と共通していることを明らかにした.またその結果,<語る主体>と<動物的存在>の関係が構造的カップリングの概念によって適切に理論化されうるという可能性を示した.

キーワード:精神分析,オートポイエーシス,構造

 

1  はじめに

フランスの精神分析学者ジャック・ラカンの理論は,現代思想の文脈で以前からかなり論じられているが,近年では社会学においても注目を集めるようになってきている.本稿でわれわれは,ラカンの精神分析学理論を,ニクラス・ルーマンのオートポイエーシス的システム理論と比較する.具体的には,両者の<構造>概念を比較することで,ラカンにおける主体の概念を,オートポイエーシス的システムとして記述する可能性を探る.本稿の目的は,そうした比較を通じて,人間の心的な現象の理論における精神分析学の位置づけを,システム論的なシステム/環境関係の概念によってとらえることにある.

ラカンの理論は,正常な状態(ラカン理論では神経症)から分裂病まで射程に収めており,心的な現象に関するひとつの総合的な観点をあたえている.とりわけ特徴的なのが,人間の存在の前提として,言語が決定的な役割を担っているとする点である.そのことは同時に,自然と文化の根源的な区別を強調し,人間が自然的な存在であることから徹底的に切りはなされた,独自の存在の仕方をしているという見方につながる.

しかし一方で,人間も動物の一種である以上,人間の心的な活動のメカニズムは,ことばをもたない動物と何らかの基盤を共有していると考えるのは自然だろう.たとえば学習に関する行動主義的な研究は,基本的にはそうした共通の基盤を前提にしており,社会的行為の説明にも一定のリアリティを持っている(Homans 1974=1978: 16).しかし,精神の活動のそのような動物的な側面に関して,ラカン派の精神分析学は,ほとんど何も言うべきことをもたない.そのような人間の“内なる自然”は,すくなくともラカン派にとっては,精神分析学がとりあつかえない外部の領域というしかない.精神分析的な人間と動物としての人間の関係は,理論的にはどのように取り扱われるべきなのか,そのことが問われねばならない.

こうした考察は同時に,ルーマンの社会システム理論において,社会システムのもっとも重要な環境である心的システムの理論に精神分析学の知見を生かしていくための予備作業としても有益であろう.

ルーマンが記述する心的システムは,意識を要素とするオートポイエーシス・システムであり,そこにおいて表象から表象が再生産される.しかし,こうした記述の妥当性には,疑問を投げかけることができる.日常的な行為は,ハイデガーが示したように,滑らかに進むときには不可視であり,それが阻害されたときにはじめて表象が意識に昇るのではないか(Suchman 1987=1999: 52).だとすれば,意識が自律的・再帰的な作動をするシステムとして考えられるかどうかは,疑う余地がある.またルーマンの記述する心的システムにおいては,言語は付随的な役割しか果たしていない.この点も,精神分析の知見からすれば,素朴にすぎる.

このように,ルーマンの心的システムの理論がいくつかの点で素朴なものに留まっていることを考えれば,心的システムの理論に精神分析の知見を導入するという方向で,ラカンとルーマンを噛み合わせることも意義があるように思われる.そのためには,精神分析学の位置づけをシステム/環境関係において捉えることが必要である.

本稿の構成は次の通りである.2では,精神分析学理論のあつかう対象領域を,特にその境界となる<原抑圧>の概念を中心に検討する.3.1-3.3で,ラカンにおける構造の概念が,ルーマンのオートポイエーシス理論における構造の概念と親近的なものであることを検証する.それによって,精神分析的な主体をオートポイエーシス的システムとして記述する道筋をつける.その結果として,3.4では,<語る主体>としての人間と,<動物的存在>としての人間という2つの側面の関係が,構造的カップリングとして捉えられる可能性を示す.

 

2  <語る主体>とその外部

  2.1  <語る動物>としての人間

ラカン派の精神分析学は,みずからを精神の<科学>であると標榜している(藤田 1993).このとき<科学>ということでなにが意味されているか,まず見ておこう.ラカン派の精神分析学は,2種類の知の形式,<部分知>と<全体知>を区別する.これらは,それぞれ科学的な知とイデオロギー的な知に対応しているとみなせる1).精神の科学は,形式的な構造からなる仮説(=象徴的なものの操作)をもちいて,人間の心的な事象を再構成しようとする知のありかたである.この方法による以上は,心的な事象を全体的に把握することは求められず,ある仮説の立場から関係づけられる側面だけが情報として取り出され,知のかたちにつくりあげられる.もしわれわれが,心的な事象を全体的につかむ直観的な洞察をめざしたりするならば,それは実感(=想像的なもの)に訴えることはありえても,もはや科学ではなく,イデオロギー的な知であるということになる.

とくに無意識を対象とした場合には,この区別の有効性がわかる.ラカンにおいて,無意識という概念は,心的な事象が知のなかに汲みつくしえないものであるという<非知>の効果と結びついている.心的な事象といえども,この点においては外界の対象とおなじように,ひとつのアスペクトから観察されることしかできない.こうした認識の限界に自覚的であろうとすれば,精神の科学は,心的な事象を知のうちに全体的に所有したいという欲望には禁欲的であらざるをえない.できるのは,象徴的な構造によって仮説を構成することだが,そこにはつねに理論的にはすくいきれない空所(=現実的なもの)が残ることになる.

精神分析学の対象は,次節で論じるように,原抑圧をへて言語を獲得したあとの人間である.上述の見地からすれば,ことばを超えた,あるいはことば以前の心的ななにかというようなものは,語りえない欠如としてネガティブなしかたで扱われるか,さもなければ想像的なものであって精神の科学の対象ではないということになる.

たしかに,人間の心的な事象のすべてにシニフィアンの効果が浸透しうることは否定しがたい.分裂病などに見られるように,視覚や聴覚のように一見,純粋に生理的なメカニズムで働くと思われることですら大きく変質されることがあり,それらのうちのあるものはシニフィアンの効果として考えることが可能である.また,かつては言語以前の自然に根ざしたものとして扱われるのが普通であった感情や性のようなものも,今日の社会学では周知のように,一般に言語によって構築されている面が強調されてきている.

それでは精神分析学は,人間の心的な領域全体をカバーするものと考えられるだろうか.その答えは,イエスともノーともいえる.上で述べたように,知覚にすらシニフィアンの論理が浸透しうるのだから,人間のあらゆる心的な事象が精神分析的な考察の対象になりうるという意味ではイエスである.しかし一方で,たとえばことばをもたない動物も,人間の心的な活動と類縁性のある活動をする2).そして人間の活動が,そうした動物の活動と関係をもつと考えることは,当然であろう.その意味ではノーと答えたくなる3)

後者の立場は,行為の行動主義的なアプローチに典型的に見られる.そこでは,刺激に対する反応としての行為が,より適応的であるために取りうる迂回路の大きさ(主観的には,思考プロセスの長さ・複雑さ)によって,知性という一種の心的な機能の水準を見て取ることができる.そして人間と動物の知性は,同質のものの程度上の違いとして捉えられることになる.しかしラカンによれば,こうした連続性こそ,精神分析が否定するものであり,人間という主体は,動物的な個体に対して「中心を外れている」のである(Lacan [1954-55]1978=1998: 12).

こうした人間の互いに還元不可能な二重性は,より広い文脈では,<生きること>と<考えること>の対立と言い換えることもできるし,さらには理性的動物としての人間の<理性的>と<動物>という二つの側面の対立として,古くから哲学で論じられてきた問題でもある(中村 1975).この対立を前提にするとき,語る主体の論理をあつかう精神分析学は,片方だけにかかわるものといえる.精神分析学は,言語以前の心的なはたらきに関する理論によって補われることを必要としているのではないか.

ところで動物の活動は,実験や観察などを通じて,科学的な仮説構成の方法にひらかれており,それ自身はなんらイデオロギー的な全体知ではない.精神分析学が科学として方法的に禁止しているのは,ことばをもたない動物に関する知見を,なにか一種の<実感>によって解釈することである.具体的には,人間の社会的・心理的なカテゴリーをメタファーとして動物に転用することである.そうしてわれわれは,野生の動物に親子愛の本能を見出したりする.しかしそうしたメタファーの選択は結局,すでに<語る主体>であるわれわれの欲望によるものと言えるだろう.

そうしてみると,精神分析学を<動物的存在>に関する理論で補おうとしたとき,両者の関連のしかたが気になってくる.単純に,人間には動物的層と言語的層という2つの側面が併存すると実体的にイメージすることには問題がありそうである.なぜならその場合,<動物的存在>と思われるものにすでに<語る主体>の欲望が読み込まれており,2つと思われたものが,1つの<語る主体>が鏡をのぞき込んでいるだけということになりかねないからである.つまり,問われなければならないのは,心的なものを理論的に描きだすにあたって,<語る主体>としての人間と,いわば<動物的存在>としての人間とが交錯している,その仕方であるといえる.

 

  2.2  主体の境界としての原抑圧

精神分析学は,語る主体としての主体をとりあつかう.それはラカンによれば,原抑圧によってなまの現実から切断された象徴の領域に参入し,シニフィアンの論理によって作動しはじめたあとの主体である.そして精神分析学は,あくまで原抑圧の後,語る主体のがわに留まる.そこに,固有の対象領域を持った科学としての精神分析学の限界がひかれているといえる.

すると,前節で述べた人間の両面性,つまり<語る主体>と<動物的存在>の関連を精神分析学のがわから考察しようとすると,原抑圧について検討することが有意義であろうと思われる.そこで,原抑圧という概念を導入したジークムント・フロイトの記述をふりかえりながら,この限界について論じてみよう.フロイトは原抑圧を2通りの仕方で導入している.

第1に,原抑圧は,精神的なものと身体的なものの両者にまたがる境界的な概念である「欲動」との関連で導入されている(Freud 1915a=1996).欲動は心的システムの外部(=身体)の刺激として発生するが,心的システムの内部に「代表」を送るものであると考えられている.欲動の目標は,刺激の低減による満足であり,これは心的なものとして認識される.しかし一方,欲動の源泉に関する研究は,「心理学の領域を超えたもの」,身体的な本能とされる.抑圧の第一段階としての原抑圧は,この欲動という概念にもとづいて,「欲動の心的な代表を意識に取り込むことを拒む」ことであるとされる.つまり原抑圧は,身体に由来するものを,精神分析的な主体のシステムからしめ出すのである.

第2に,原抑圧は,神経症の症候のメカニズムを記述する上で導入される「抑圧」という概念の,一種の遡及的な極限操作において想定されるものとして捉えられている(Freud 1915b=1996).神経症の症候は,欲動が不快な葛藤をひき起こす場合に,意識からの反発力のようなものによって,意識との結びつきを妨げられることによるものとされ,これは二次的な抑圧とよばれる.ところでフロイトによれば,抑圧が起こるには,それ以前にすでに抑圧を受けていたものからの牽引力が働き,それが意識から反発されたものを受け入れる用意をしておく必要がある.そして抑圧からそれ以前に抑圧されたものへというこの系列を溯っていくと,系列の最初に,それ以前に抑圧されたものから引き寄せられることなしに起きた,特異な抑圧を想定しなくてはならなくなる.こうして原抑圧の導入が論理的に不可避となる.つまり原抑圧は,神経症の症候に関わる抑圧のメカニズムを説明する際に推論の手続き上要請される,一種の極限的な理念として想定されることになる.

このようにフロイトが原抑圧という概念を導入する仕方をみると,その両義性がはっきりする.はじめから心理的な領域の外部である生理的なものを導入してしまうか,心理的な領域に内在して,経験的には出会われない極限理念として要請するか.このように原抑圧は,一方で精神分析的には語りえない外部の領域とかかわりながら,他方で精神分析の対象を構成するのにかかせないカテゴリーであるという,まさに境界的な性質をもっているといえよう.

原抑圧の境界的性質は,自然と文化の中間に立つ概念の両義性の現れと考えることができる.その意味で,原抑圧はレヴィ・ストロースにおける近親婚の禁止とおなじ位置にある.レヴィ・ストロースによれば「近親婚の禁止は,純粋に文化的な起源によるものでもなければ,純粋に自然的起源によるものでもない.……それは,基礎的な手続,そのおかげで,それによって,またとりわけそこにおいて,自然から文化への移行が遂行される基礎的な手続なのである」(Lévi-Strauss 1949=1978: 89).ラカンに目を向ければ,原抑圧は,近親相姦を禁ずる象徴的な父の介入として説明されており,レヴィ・ストロースとの類縁性はさらに明らかである.要するに原抑圧とは,自然の秩序から文化の秩序が立ち現れてくるところに位置する概念であり,精神分析学はこの概念を想定することで,自然の秩序に接しつつ,そこから区別された文化の秩序のがわに自らを位置づけているわけである.

 

2.3      語る主体の作動

ラカンにおける「構造」は,これから見ていくように,要素間の静的な関係ではなく,

動的な関係づけである.この節では,ラカンにおける構造のダイナミクスについて検討する.

前節で述べたように,主体は原抑圧を経て象徴界を獲得するのだが,象徴界は,それだ

け取り出せば,諸項の差異と結合の規則のたんなる集積にすぎず,いわば死せる構造,「アウトマトン(自動機械)」である.象徴界は,主体において,シニフィアンの運動性を切り捨てた静的な契機だけを取り上げたものにすぎない.象徴界に参入することで設立された主体が作動するのは,象徴界から逃れていくもの=現実的なものとの出会い,「テュケー(偶然性)」の次元があるからである(Lacan 1973=19984).ここで象徴的なものを文化,現実的なものを自然と言い換えれば,文化の秩序はそれをはみ出した自然の秩序に接することで活動し続けている,ということができるかもしれない.

そうすると,現実的なものは,原抑圧の過程をくぐりぬけた残滓と言うことができる.この残滓はラカンが「対象a」と名づけたものを通じて現れ,象徴的なものを通して,それを超えたリアリティの手応えに主体を結びつけていく.象徴的なものは,このリアリティに出会うことで構造化していく動性を持ち,主体の語る生きたことばへと編成されていくと考えられる.直感的にいえば,この現実的なものとは,われわれの心をひくもの,謎や問いかけ,それについてもっと知りたいと思わせるもの,である.この問いあるいは誘惑に促されてこそ,われわれはさまざまな象徴的なものを素材として動員し,主体の特性が負荷された,生きたことばへと組織化していくと考えられる.逆にその次元がなければ,死んだ象徴の体系がよこたわっているだけであり,文化の秩序は,読者のいないテキストの集積のようなものにすぎない.

以下では,図1(佐々木 1984: 295)で示されるディスクールに関するラカンの議論をとりあげることで,この構造の動性について述べる.われわれはこの議論を,問いと答えの形式をもちいることで,できるだけフォローしやすいプログラム的な説明になるように構成した.例として,<美的体験>によって引き起こされたディスクールの編成を取り上げる5)

 

 

 

 

【図1  挿入】

 

 

 

 

 

 (1) 現実的なものは象徴的なものに還元できない.あることを<美的>であると言うことは,言説の中に――しかもおそらくは言説の重心をなして――どのように規定しても規定しきれない謎が存在することを示している.主体がかかわる象徴界は,たんなる機械的な秩序だけでなく,このような過剰な負荷をかけられた項をふくんでいる.それが主体にとって興味をひくものとして働きかけ,主体の作動を統制すると考えられる.この議論において,<美>というような実質的な内容を捨象して,形式的に象徴界における過剰を指し示す概念が,精神分析学における「対象a」である.

 (2) 美的な体験は象徴的な言説に還元できないにもかかわらず,その当の体験が,<美>という言葉で積極的に呼ばれているのである.つまり<美>とは,名づけがたい体験に与

えられた名だといえる.それは,象徴的な解を与えることが不可能な問いとしての美的な体験に出会ったとき,問いそのものに名前をつけるということである.この名前は,ラカンの用語では,1番目のシニフィアンを意味するS1で表される6)

 (3) 過剰な項に名前を与えることは,その本質の規定を保留にしたままで,実効的に取り扱うことを可能にする.はじめはその体験をするたびごとに,せいぜい“あ,また,あの体験だ!”と言うぐらいしかできなかったのが,その体験に名前をあたえることで,ほかの言葉との結びつきを作り出すことができる.名前をつけることによって,“美とは〜である”などと語り,論証を展開する可能性がひらけてくる.S1をこのように言説に結びつけることは,S1S2という記号で表される7).こうして,名づけることは,謎に直面した思考を座礁から救い出し,“美は美である”というようなトートロジーをこえて思考をつづけることを可能にする.

 (4) われわれは,もともと説明しつくせない謎から出発したのだから,謎を名づけること,そしてそれに引き続く論証的な言葉は,最終的な解答=全体知ではなく,あくまで部分知でしかない.そうすると,はじめに問いの方向づけをおこなった美的体験と,解答として得られた“美とは〜である”という言葉にふくまれる<美>とのあいだには,ズレがあることになる.おなじ美という言葉でよばれていても,たとえば初めの体験は美1,解答では美2,と区別することもできるはずである.主体はこのズレを担わなければならない.図で主体を表すSに斜線が引かれているのが,それを表している.

 (5) このようにズレが不可避であるにもかかわらず,部分知としての解答はけっして無意味ではない.この解答のあとも,美1は問いとして残りつづけるが,こんどはその問いに素手で取り組むのではなく,S2をふまえて,べつの仕方で探求をすすめることができる.結局,問いは解かれることはないが,新しく産み出された言説によって転位され,認識にとって新しい可能性が産み出されていることになる.

以上が,主体が現実的なものによって活力をあたえられ,象徴界が再編されていく過程である.象徴界が現実的なものに接して再編されつづけていくかぎり,言説は問いかけに対してつぎつぎに異なった角度からアプローチして,そのつど新しい項が美1→美2という結合をしていくことになる.つまり,それまでの履歴を踏まえたうえで,問題構制が転換されていくのである8)

象徴界は,この運動の前提であり,かつ媒介となるものである.象徴界の構造は,主体が美1→美2という結合を選択するまさにそのときに,その結合の意味を作りあげる地平として現れるわけである.こうした動的な過程が作動していなければ,そもそも象徴界が現れるということも考えられないだろう.

 

3  ラカンとルーマンの構造概念

ラカンの精神分析学は,「構造主義」の潮流のなかで語られることが多い.ラカン自身,理論構築のひとつの要としてソシュールやレヴィ・ストロースの構造概念を取り上げ,「無意識は言語(ランガージュ)のように構造化されている」というテーゼを提出している.

しかし,もし構造という言葉で静的な共時的体系を思い描くならば,それはラカンの理論を構成するものとしてはきわめて不十分である.われわれは,その不十分な点を検討することによって,ラカンの精神分析学理論が,レヴィ・ストロースなどの構造主義よりも,ルーマンのオートポイエーシス的システム理論に親近的なものと見なせることを論証したい.そのためにまず,ルーマンが構造という概念をどのように解しているか,確認する必要がある.

 

3.  ルーマンの構造概念

周知のように,80年代にルーマンは,神経生理学者ウンベルト・マトゥラーナとフランシスコ・ヴァレーラが提唱したオートポイエーシス的システム理論の考え方を導入して,社会システム理論の体系化をはかった.それにともなってルーマンは,大著『社会システム理論』のなかで,構造主義における構造の概念を批判し,オートポイエーシス的システム理論にそったかたちで,独自の構造概念を定式化している9)

ルーマンによれば,構造主義における構造概念は,「経験的なリアリティそのものにかかわるのではなく,リアリティについてのモデルという意味での抽象に関係している」(Luhmann 1984=1995: 521).しかし,こうした抽象的なモデルについての考え方では,リアリティそれ自体が自己描写によって作り出した表層的な構造,つまり社会科学以前に存在する自生的な自己理解と,科学者の見出した構造との関係については何もわからないのである10)

こうした構造概念に対してルーマンは,まったく違った立場から構造という概念を提示する.ルーマンによれば,構造主義は,外部の観察者が対象を認識する仕方についての省察(科学システムによる観察)であると考えることができるのに対して,自己準拠的システム理論は,対象システム自身の自己観察というオペレーションを出発点にしているため,認識論は一次的な問題とはならない.

ルーマンは構造概念を,静的な共時的体系としてではなく,「選択」という出来事との関連で規定している(Luhmann 1984=1995: 529-531).システムは,ある時点で可能な要素の諸関係から,1つを選択して現実化する.そして構造は,その選択肢の限定として機能するものである.ありうるすべての選択が視野に入るのではなくて――そんなことは不可能である――,構造によって限定された選択だけが有効にはたらく.この限定によって,諸関係からの選択は,システムにとって処理可能な範囲内に収まり,システムは要素の接続可能性を確保できるのである.したがって構造は,システムがある要素を選択し顕在化するときに,その選択の潜在的地平(ありそうな他の選択肢のバリエーション)としてそのつど現れるものである.つまり構造は,選択された図に対する地の役目を果たしているのであり,ある意味で経験の表層をリアルタイムで構成している裏方であるということができる.

結局のところ,ルーマンの構造概念と,彼が批判するところの構造主義との違いは,“システム理論の対象とはなにか”という存在論的な問題に対する態度の違いに帰着する.ルーマンによれば,古典的なシステム理論におけるシステムとは,対象を認識するために観察者が持ちこむ手段である.一方,自己準拠的システム理論のシステム観は,「システムが実在する」(Luhmann 1984=1993: 3)という言葉で端的に表される.そもそもシステムがシステムであるのは,そのシステム自身が行う観察が自己と環境とを区別しているからである,と考えるのである.そして構造という概念も,システム自身がもちいているものとして規定されることになる.

 

3.  ラカンの構造概念

つぎに,ラカンの構造概念を見ていこう.ラカンは,すでに見たとおり,構造の動的な面を強調しており,構造とリアリティの関係について,ルーマンが整理した構造主義のように静的な分析概念としてはとらえていない.

まず,ルーマンが批判した分析概念としての構造は,経験的な表層の構造の背後に,直接には観察されない深層構造があるという2層モデルを前提としていると考えられる11).だがラカンは構造に関して,そうした2層モデルを批判している(Evans 1996: 192-195).そして経験されるリアリティと構造の関係は,以下のように考えられている.一方では,経験的に観察されるものといえども,すでになんらかの観点が択びとられていなければならないという意味で,理論を含んでいるということ12).他方では,無意識は深層に潜んでいるのではなく,主体の発話において表れるものであり,したがって表層的なものであるということである.つまり構造は,背後にひそむ実体としてではなく,具体的な発話が行われるさいの地平として考えられている.

では主体において,ルーマンのシステム理論でいうところの<要素>は何であろうか.要素という言葉を構造主義的にとり,隠喩的・換喩的な結びつきからなる構造の要素としてとれば,主体の要素はシニフィアンであるということになる.しかし,「要素」をオートポイエーシス理論の用語としてもちいるならば,再産出される要素は,シニフィアンではなく,<症候>であるといえる13)14).症候は,シニフィアン同士の結びつきによって生じる<意味作用 signification>である(Lacan[1954-55]1978=1998: 252).あるシニフィアン同士の結びつきが,つぎのシニフィアン同士の結びつきに接続されることによって,オートポイエーシス的システムとしての主体の要素=症候が再産出される.そして症候の接続可能性は,無意識の構造によって限定されている.

それでは,症候がつぎつぎに再産出されていく原動力は何であろうか.これは2.3で述べたように,原抑圧をくぐりぬけた残滓,対象aである.抑圧されたものは回帰して,症候を形成する.したがって,症候のオートポイエーシス的再産出は,原抑圧のむこうがわ,精神分析的主体にとっての環境に促されたものであるといえる.

 

3.3  環境と脱トートロジー化

ここで最初の問題に戻り,ラカン理論における主体をオートポイエーシス的システムとしてとらえたとき,<語る主体>が,その外部である<動物的存在>とどのようにかかわっているかを考察しよう.これはシステム論的には,主体システムに準拠したときのシステム/環境関係のあり方を問うということになる.ルーマンとラカンをむすぶ鍵概念は,<脱トートロジー化>である.[橋爪研1] 

まず,オートポイエーシス的システム理論におけるシステム/環境関係について,ルーマンの考え方を簡潔にまとめれば,次の2点になる.

@システムのオートポイエーシス的システムは<作動的閉域>をなしている.すなわち,オートポイエーシス的システムは,自己の要素をすべてみずから産み出す.またその要素は,システムの再産出のはたらきのなかにあることで,要素たりえている.したがって,オートポイエーシス的システムにはインプットもアウトプットもありえず,閉じたシステムをなしている.

Aそうした閉鎖性にもかかわらず,システムは環境とかかわりを持っている.ただし,環境からの影響のされ方は,システムによって自己決定される15).「環境に関してシステムにとって可能なのは,システムのなかで……差異をしつらえ,その差異によって環境における差異に反応し,そのことをとおしてシステムにとっての情報を生み出すということにとどまっている」(Luhmann 1984=1995: 810).

さらにルーマンによれば,「システムと環境の関係は,システムの形成にとって構成的であり,システムの不可欠の前提となっている」のである(Luhmann 1984=1993: 280).自己準拠は,“自己と区別されるものを介しての自己の同定”であって,環境への参照によって自明でない選択を強制されることによって,システムは価値ある情報をつくりだす.しかし環境への参照がなければ,自己準拠は「AはAである」という不毛なトートロジーとなるほかない.こうした点から見ると,オートポイエーシス的システムが環境に適応して進化する過程は,システムが自己準拠の制約条件として環境をもちいることで,自己準拠が脱トートロジー化した形態になることによって可能になるといえる(Luhmann 1984=1995: 810).

ラカンの場合,システムがその外部のリアリティを取り扱う形式は,2.3で述べたように,対象aとして主題化されていた.そしてそれが象徴界に取り込まれる形式S1S2は,やはり脱トートロジー化と考えることができた.ただし,ここでつけ加えておけば,この脱トートロジー化が成功するのは,隠喩的な結合がなされる場合であり,換喩作用によってはトートロジーは乗り越えられない.たとえば「美」とは「われわれを感動させるもの」であると置き換えたとする.そのて「感動」とはなにか,と問われて「われわれが美しいものに対して抱く感情」であると答えたとしたら,結局トートロジーはそのままである.脱トートロジー化のためには,S1S2で表される命題が,根拠づけられない断言として,与えられなければならない.

こうしてみると,<換喩=トートロジー><隠喩=脱トートロジー化>という対応があることになる.さらに隠喩こそが有効な意味作用を生み出すものであることを考えれば,<精神分析的主体の要素=症候=意味作用=隠喩=脱トートロジー化>となり,オートポイエーシス的システムとしての主体において,自己準拠の脱トートロジー化が,症候の再産出に結びつくことになる.

以下手短に,ラカンの精神分析学において,隠喩/換喩の対立軸が主体の外部のリアリティとどのようにかかわっているかということについて述べよう.まず,主体は対象とかかわるにあたって,<幻想>という図式によって経験を構成し,対象を幻想のなかの役割にあてはめて処理する.幻想は現実的なものの偶然性を隠蔽して,主体にとってなじみの型に還元するはたらきをもつ.そのとき,幻想のなかにあらわれる対象は,すでに周知の役割の置き換え=換喩として出会われることになる.

ところが,対象がその幻想の図式では処理しきれなくなることがある.これは他者がテュケー(偶然性)として現れてくる場合である.そのとき,主体はなじみの型をあきらめて,幻想を解体・再構築せざるをえなくなる.そして主体は,みしらぬ対象に,隠喩作用によって名前S1を与える.それがS1S2と新たな結合を生み出すことによって,象徴界の回路も組み替えられることになる.システム論的にいえば,環境がさしだす偶然性――ルーマンの機能分析の用語をもちいて<複雑性>と呼んでもよい――をシステムが情報として利用することによって,システムの自己準拠が脱トートロジー化するということである.

 

  3.4  二重の主体と構造的カップリング

以上のように,ラカンの理論における主体をオートポイエーシス的システムとしてとらえると,人間の<語る主体>と<動物的存在>という2つの面のかかわり方が,<語る主体>のがわに準拠した場合どのようなものであるか見えてくる.<動物的存在>が,<語る主体>にとって処理しきれない偶然性をさしだし,<語る主体>のがわは,それを手持ちの図式にしたがって換喩的に取り扱ったり,隠喩作用によって象徴界の組み替えをおこなったりする.

いっぽう,人間の個体において<語る主体>にとって重要な環境をなしているもの,われわれがあいまいに<動物的存在>と呼んできたものに関しては,どうだろうか.それに相当しそうなものとして,マトゥラーナとヴァレーラ(Maturana and Varela 1984=1987)は神経システムを,チオンピ(Chiompi 1988=1993)は感情システムを,また斎藤(1998)は学習のシステムを,それぞれオートポイエーシス的システムとして論じている.筆者は,マイケル・ポラニーの「暗黙知」(Polanyi 1966=1980)が大きなヒントになると考えているが,この点に関しては稿を改めて論じたい.

それらを動物と共通する心的システムであると考えるならば,<語る主体>と<動物的存在>という2つの側面の関係は,構造的カップリングの概念でとらえられそうである.構造的にカップリングしている複数のシステムは,互いに相手から処理しきれない偶然性をさしだされ,それを選択的に情報として利用することで,自らの構造を進化させていく.このような相互依存が継続されることによって,<語る主体>も<動物的存在>も,固有の履歴を刻まれた独特な進化をしていくと考えられる.そしてあるシステムの履歴は,そのシステム自身のうちにあるだけでなく,相方のシステムがこちらから受けた影響のなかにも刻印されている.つまり,一方のシステムがおこなった選択が他方のシステムに未知の影響を与え,それがめぐりめぐって元のシステムに予期せぬ偶然性をもたらすことが起きる.そうした意味で,構造的カップリングの関係にあるシステムの履歴は,どこかに情報として記載されているようなものではなくて,相互システム的な状況として存在していると考えられる.より正確に言えば,「複合性を受け入れるシステムは,複合性を提供して浸透するシステムに対して,外部からと内部から二重に影響をおよぼしている」(Luhmann 1984=1993: 336-337).

構造的カップリングの概念を導入すると,2.1で述べた,2種の理論の併存という方法の難点をシステム論的に言いなおすことができる.そのような方法は,システム自体を環境と切り離されたものとして取り扱うことができるというシステム観にもとづいている.しかし,この手法の妥当性は,それぞれの対象のいわば境界条件をコントロールすることができる場合にしか成り立たない.言い換えると,そうした理論の対象が,環境の偶然性にさらされておらず,履歴をもたない装置のような対象とみなせる場合にしか成り立たない.ところが構造的にカップリングしたシステムにおいては,複数のシステムが共同で進化して,相互システム的な状況がシステムを条件づけるようになっていることが,そのシステムの作動にとって本質的なのである.

 

4  結論

われわれは,ラカンの精神分析学における主体をオートポイエーシス的システムとしてとらえることで,人間の2つの側面である<語る主体>と<動物的存在>との絡みあいがシステム理論的に構造的カップリングとして考えられる可能性を示した.

ラカンの精神分析学理論は,<語る主体>の外部については,欠如としてネガティブにしか語らない.ところで,ラカンにおける構造という概念は,分析概念ではなく,主体のシステム自身がもちいているものであった.これは,システムを実在概念とするルーマンのシステム観と合致している.ならば,それ固有の作動によってシステムをなす<動物的存在>にあたるシステムをポジティブに取り扱ってもよいのではないだろうか.

ただし実在概念としてのシステムは,そのシステム自体がシステム/環境差異を基盤にして作動しており,環境から孤立したものとして取り出すことは無意味である.したがって,<動物的存在>を主体の外部のシステムとして語るさいには,両者の関係を構造的カップリングというシステム間の相互依存として取り扱わなければならない.そのため,たとえば動物の心的な現象をそのまま類比的に人間にあてはめるようなことはひかえて,システムの作動原理という水準にまで抽象化された理論をもちいることが必要になるだろう.

われわれの立場は,<語る主体>にとどまるラカン派的な立場をこえて,人間における<動物的存在>についてのポジティブな理論を精神分析学に接合するための方向を示すものである.われわれの立場からは,ラカンの理論は,精神分析的主体という,人間を構成するシステムのうちの1つに準拠した理論という位置づけになる.また人間の外に目を転じれば,ラカンの理論をオートポイエーシス的に読み直すことは,ルーマンの社会システム理論においてもっとも重要な環境をなす心的システムの理論に,精神分析学の知見を取り入れるための足掛かりになるだろう.

 

[注]

  1)  この二種類の知は,ラカンがそれぞれ“savoir”, “connaissance”という語をもちいて

区別したものである.

  2)  動物における「心」の存在に関しては,行動主義による伝統的な批判と,それに対

するドナルド・グリフィンやマリアン・ドーキンズ(Dawkins 1993=1995)らの逆批

判がなされてきている.グリフィン(Griffin 1992=1995: 55)によれば,動物の意識

に関する証拠となりそうなものとして,(1)新しい課題に対する行動の多能な適応,(2)

意識的思考と関連するかもしれない脳からの生理的信号,(3)動物が思考の一部分を伝

えることがあるように思われるコミュニケーション行動,がある.

  3)  言語以前の生命的現実に精神分析学がどのようにかかわるべきかについては,木村

1990, 1992),藤田(1993)の議論がある.木村は現象学的精神分析の立場から言

語以前の生命的現実を重視する.いっぽう藤田はラカン派の立場から,そのような態

度は“自我の確認検査”であって,科学ではないと批判している.

  4)  象徴界と主体のダイナミクスについて詳くは,樫村(1998)を参照.

  5)  この例は,イーザー(Izer 1976=1982: 35-37)よりヒントを得て,筆者がラカンの

議論に沿うように構成したものである.

6)        S1は美的体験を表示するシニフィアンであり,対象aは記号学的な領域の限界を示す.

7)        S1S2の結合は,それを前提とすることで論証的な言説が構築されていく元になる

ものだから,それ自体は根拠づけられたものではなく,ある意味で偶然的な選択であ

らざるをえない.ここにおいて,象徴界に偶然性(テュケー)が取り込まれるわけで

ある.ルーマンにおいても,結合は「それを擁護するための事後的なゼマンティーク

によって事後的に描写されることもあるが……きわめて偶然的に発生している」とさ

れる(Luhmann 1984=1993: 352).

8)        ナシオ(Nasio 1992=1995)によれば,この流動性を支え保証することこそ,精神

  分析学の目標である.

9)          ルーマンの理論において構造という概念は中心的な役割をになっているわけではないが,ここで構造についてとくに取り上げるのは,ラカンとの比較がしやすいためである.

 10) しかし一方でルーマンは,そうした構造主義的な分析がカオスではなく簡潔な構造

    を見出す場合,その構造がなんらかの意味において対象のリアリティとの関係づけを

    もっているとみなされうることも指摘している.

 11) さきにレヴィ・ストロースにおいては構造が分析概念であるとしたが,一方で彼の構

    造概念は,普遍性を高めることで対象の深層にひそむ実在する構造でもあると考えら

    れているという両義性がある(上野 1985: 191-194).

 12) ルーマン流に言えば,観察における指し示しは何らかの区別にもとづいているという

    ことである.

 13) 斎藤(1998)も,症候を要素としている.ただし斎藤が援用しているオートポイエ

    ーシス理論はマトゥラーナおよび河本英夫によるものであるため,われわれの議論と

    は異同がある.

 14) シニフィアンの役割に関してルーマンとの対比でいえば,社会システムが“意味をも

    ちいるシステム”であるのと同じように,精神分析的主体は“シニフィアンをもちい

    るシステム”であるといえる.一方でルーマンの意味概念にとって本質的なことは,

    指し示されている意味が,それ以外の潜在的な意味をも暗に指示するという過剰性で

    ある(Kneer and Nassehi 1993=1995: 88).他方ラカンにおいては,シニフィアン

    は他のシニフィアンとの差異によってのみ存在する.それゆえ,あるシニフィアンが

    顕在化することは,やはり顕在化の地平をなす潜在的な他のシニフィアンをも指示せ

    ざるをえない.つまり,この形式的な水準においては,“ルーマンの用語法における

    意味”≒“ラカンの用語法におけるシニフィアン”であるといえる.

 15) 閉鎖性とシステム/環境関係がどう折り合うのかについては,解釈が分かれるところ

    である(河本 1995: 150-175).

 

[文献]

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上野千鶴子,1985,『構造主義の冒険』勁草書房.

 

Autopoiesis of Psychoanalytic Subject

 

Kouhei DAIKOUJI

Tokyo Institute of Technology

daikouji@valdes.titech.ac.jp

 

This article represents an attempt to define the proper position of Jacques Lacan's psychoanalytic theory in mind theory. To this end, Lacan's theory of discourse is reviewed and examined in relation to Niklas Luhmann's theory of autopoietic systems. Lacan assumes the psyche of human beings operates in a completely different way from the mind of animals. However we emphasize that there may be common aspects between human and other animals. So I adopt an alternative approach presuming the duality of human beings, that is, their "subject-of-speech" and "being-as-animal" qualities. At the same time, I demonstrate some theoretical difficulties posed by that duality.

Two characteristics, extracted from Lacan's writings, are shown to have something in common with Luhmann's theory. The first one is the concept of "structure". It is oriented to the relationship between system and its environment. The second is the mechanism of "detautologization" through which the system utilizes disturbances of its environment. As a result, I present the possibility that the relation between "subject-of-speech" and "being-as-animal" qualities can be theorized properly as structural coupling.

Key words: psychoanalysis, autopoiesis, structure