自分の気持ちを語れる場所が無いと感じること


私が、自分の気持ちを語ることが難しく感じるのはどうしてか。その原因を考察することを通じて、せめて「気持ちを語ることの難しさ」についてメタ的に語ろう。という、ややこしい動機から下の文章を書いてみました。

語りと、その語りを可能にする場との関係についての考察に辿りついたので、M.フーコーに関心のある人には多少の興味をもっていただけるかもしれません。


先日、友人の「偽」さんが指摘してくれたのだが、小谷野敦『もてない男』(ちくま新書)の中に、小谷野氏が「知的な才能のある美人」を好きだ、と書いている箇所がある。そこには、次のような文が書かれている。

「そこが男というもののあさましさで、自分より学歴の高い女性と結婚するのはさすがにツライものがある。」

私には、この感覚は共有できない。しかし、世の中の男性の何割ぐらいがこういう感覚を持っているものか、そしてその感覚を支えている価値観がどんなものであるか、興味が無いこともない。

今、取り上げたいのは、この「男というものは××である」という語りの形式について、である。小谷野氏の文は、たまたま目に留まったそのサンプルにすぎない。


私は「男というものは××である」という形式の語りを、基本的にはしない(基本的には、というのは、意識的にシャレとして使う場合があるからである)。これは少し特異なことだろうと思う。私が観察する限り、「男というものは××である」という語りは、強い自覚や意図をともなって語り出されるのではなく、言葉の流れのなかで自然と使われるもののようだからだ。

今、「自然」という言葉を使ったが、これは話し手も聞き手もそこに特にこだわることはなく、言葉の流れがそこで滞ったり、話題の向きが変わったりすることが無い、というほどの意味である。

ところが、私は「男というものは…」という言い方には敏感に反応してしまう。そして引っかかりを感じて、使うことができない。


 私は、世の中で言われるような男らしさには違和感を抱きつづけてきた。ジャンプとかスピリットとか、男性向けの雑誌は読んだことがない。後で述べるが、オンナノコの水着のグラビアが載っているだけで抵抗があり手に取る気になれない。男性向け漫画雑誌の劇画タッチも苦手だ。野球やサッカーにも興味がないし、ビジネスや政治にも無関心だ。

 わたしの感じ方を示すために、『もてない男』からいくつか例を挙げてみよう。


第一回に関して:

童貞であることの不安や焦りを感じたこともないし、そもそも童貞という概念が人のアイデンティティになぜそれほど影響力を持ちうるか理解できない。

第三回に関して:

「女は押しの一手」という説がまかり通っていることは知っている。私は、すべての人は尊重しなければならないと思っているので、恋人をつくるために自分の意志を強引に押し通すことが必要だとしたら、死ぬまで恋人ができないままで結構だと、かなり前から決めてしまっている。これは、私の中で数少ない既定のポリシーの一つである。

(私は、自分がどのような性質を抱え込んでおり、これからどのような未知の時間にさらされることになるのか知らない。だから、きわめて狭い現在の思い込みに基づいてポリシーを決めることは原則として止めることにしている。しかし、上述したことは、この原則の数少ない例外である。)

そうした生き方の選択がどれほど愚かだと評価されようが、そのように生きて死んだ人間がいたという事実は取り消され得ない。あるテーマについて態度を決めてしまっているということは、そのテーマについてそれ以上、議論する必要は無いということである。俺はこう生きる。おまえがどう思おうと知らん、というだけである。

第四回に関して:

ここで小谷野氏が書いているように、世間では、もてない男は、カップルを見ると腹が立つものらしい。しかし私は、いまだその感覚が分からない。多分どこかの配線がぶち切れているのだろう。

世間の価値観が特に典型的に表れるのが、クリスマスであろう。世の中的には、カノジョと過ごさないクリスマスというのは、たいへん虚しく悲惨である、ということに決まっているらしい。さらに、そんなクリスマスなど無ければよい、とクリスマスを呪ったりすることもある。

これも私にはよく分からない。ある時期までは「へえー、俺ってヒサンなのかな」と漠然と思い、そのヒサンぶりをネタにして吹聴した事もある。しかし、どうしても、それは自分の気持ちとは違う。

私はそもそも、カノジョと過ごすどころか、大人になってからクリスマスを友だちと過ごしたこともなく、いつも一人だった。しかし(執拗低音としての「生きることの無意味さ」を別として)、特にクリスマスだからといって虚しさ、ヒサンさを感じたことは無い。正直な気持ちを言えば、クリスマスには街も人も華やいで、特に何が起きるわけではなくても気持ちが浮き立つクリスマスは大好きだ。

しかし、カノジョもおらず、特別なイベントもないのに、誰かに「クリスマスは楽しい、大好きだ」などと言おうものなら、「自分の気持ちに嘘をついている」と言われたり、異常者呼ばわりされてしまう(どちらも実体験である)(※)。


 要するに私は、世間で言う「男」らしい感覚とはズレいるのだ。だから、自分の性質や感じ方を「男だから」であるというところに帰することができない。


 実は、ここからが本題である。

要するに私は、「男というものは××である」という形式の語りができない。

 このことは、コミュニケーションにおける意外に大きな障害となるのである。なぜか。

 「男というものは××である」という形式で語る者は、実はその形式のおかげで、語られている主題の普遍性を担保されているのである。「私はこう感じる」という語りにはない普遍性を保証されているのである。

 「男というものは…」という命題は、人類のおおむね半数を占める男一般について述べている。それとともに、人類の残りの半分を「女」一般として、男に対照される存在として、ひとくくりにしている。したがって、「男というものは…」という命題は、すべての人に共通する主題について述べていることになる。これが「普遍性」と言ったことの意味だ。

 さて、語りの普遍性は強い効力を発揮する。それは、コミュニケーションの文脈に比較的束縛されずに語り出せるという効力だ。公共的な話題、無難な話題であると言ってもよい。

 自分の感覚を「男というものは…」という形式に託して語れる者は、いつでも好きなときに自分の感覚を語ることができるのである。

 それに対して、私が『もてない男』をネタに上述したようなことは、かなり親しい間柄の者でなければ語ることができない。羞恥心などの感情のために語ることができないのではない。制度的に、語ることができないのである。

制度的に、語ることができない、とは次のような意味である。私が、それほど親しくない者との間で、あるいは他の話題をしていたときに、『もてない男』について上述したようなことを語り出したとする。それは、唐突な告白という様相を呈するだろう。すると聞き手には、語りの内容を真に受けないかもしれない。真に受けたとしたら、どうだろう。私が文脈に関係なくあえてその話題を持ち出したからには、その話題が普遍性をもつことを主張していると解釈するのではなかろうか。

たとえば私は、「恋人をつくるために自分の意志を強引に押し通すことはしない」と書いた。これを文脈に関係なく突然言い出したら、「だから皆もそうすべきだ」という規範性を帯びることになるのではないか。そうでなければ、「どうか私のことを理解してくれ」という強い懇願という意味を帯びるのではないか。

文脈に関係のない事柄を語り出すことは、その事柄が「あえて言う」という過剰を抱え込むという効果を伴わざるをえない。この過剰が、「すべき」という規範化や、理解して欲しいという懇願という意味合いを招くのだ。

なにかの話のついでに、「僕はそういう強引なのは嫌だけどね」と言う事には、何の問題も生じない。他の人はどうか知らないが私はそう思う、というだけの感想でありうる。しかし、唐突に「恋人をつくるために自分の意志を強引に押し通すことはしない。自分はそう決めている」と語り出して、そこで終わることはできない。必ずや、聞き手と語り手の内には、それを発言したことの意味を定めるためのコミュニケーションが継続されることが期待されることになる。これは発話のルールである。

これが、「制度的に語ることができない」という意味である。「あえて言う」ことは可能だが、語られる内容そのものが、「あえて言う」ことの過剰によって意味合いを変化させられてしまうわけだ。

言い換えれば、普遍性を担保する形式は、語りの流れのなかに、みずから文脈をつくりだすことができる、公認された文脈の貯蔵庫である。そのような文脈の貯蔵庫は、たとえば同年齢層の日本人に共有されている、文化の一部分をなしている。そして、その貯蔵庫にない語りは、与えられた文脈に応答して、たまたま語りうるだけである。

結局、「男というものは××である」という形式がもつ普遍性を担保する機能を享有できない私は、自分が感じていることを自然に語ることはできないことになる。私が臆病なためではなく、人々が不寛容であるためでもなく、語りの構造によって不可能なのだ(※※)(※※※)。


たとえば私は、水着のグラビアが載っている雑誌に抵抗感がある、と書いた。どうして抵抗感を感じるのか、自分でもよく分からない。

強いて考えるなら、私には男女が異性として接するより前のレベルで、誰もが一人で死んでいかなくてはならないはかない者として、互いを大切に思わなければならない、という思いが強い。その「誰もが…」という運命の共通性を、私は大切な事に思う。だから、欲望する側とされる側と、同じ人間が性によって分断されることに抵抗を感じる。生きることのはかなさを、しばらくのあいだ忘れていられる人たちだけが、こういうグラビアを抵抗なく見られるのではないか、と思う。

けれども、まあ、こんな自己解釈は、自分でも疑わしいと思う。やはり、たんに趣味的な感覚として嫌だ、と言うのに留めておくのがよさそうだ。

さて私は、しばしば日常のおしゃべりの中で、他の人が「男は××だから、」と言うのに違和感を覚え、その「男」のなかに私を含めないでくれ、と感じる。たとえば、自分が暗黙のうちに、「水着のグラビアを見るのが当然、好き」な「男」というグループに一くくりにされてしまうことに違和感を覚える。しかし、私はその違和感と、上述したような私自身の感じ方を「自然に」語ることができない。

これはストレスがたまる。自分が誤解されているという思いが徐々に積もっていく。精神衛生的に、かなり良くない。結局、こうした構造的な問題を解消するためには、自分が理解されていると感じられるプライベートなつながりを形成していくように努めていくしかないのだろう。



(※)一人で過ごすクリスマスが楽しくて、どうしていけないのか。一人で過ごすクリスマスは、どうしてヒサンでなければならないのか。恐らく、クリスマスを一人で過ごさねばならなかったとしても、そのようなクリスマスに「悲惨である」という意味づけを与える文化のメンバーであるという資格は保持したいのだろう。

(※※)ようするに、人が、感じたことを語る、という事は、相当に複雑な事態なのだ。そのためには、語ることができる場面がなければならない。学校か、家庭か、会社か、社会運動の組織か。語りうる場面と、そこで許容されるテーマ(裏面から言えば、どの一線を越えたらスキャンダルとなるのか?)とは限定されている。その中で、私たちが語りたい事が語れる保証は無い。

逆に問うこともできる。私たちの生活を形成する場面は限定されている。なのに、私はそれらの場面で語ることができないことを感覚してしまう。私はその感覚をどこから得たのか。

(※※※)この不可能性を、制度への「疎外」として論じることは間違いである。この語りの構造は、私たちが住んでいるこの社会が、全人格的ではない限定されたコミュニケーションを発達させてきたことに関係して発生しているのだろう。限定されたコミュニケーションは、私たちが見知らぬ他人と一緒にやっていける能力を増大させる。ある種の語りの不可能性は、ある種のコミュニケーションを可能ならしめた制度の能力に伴う派生的問題と見ることができる。疎外論では、こうした語りの可能性と不可能性の関連を捉えることができないのではないだろうか。

(自分用メモ:⇒フーコー『性の歴史T』、ルーマン『公式組織の機能とその派生的問題』、三浦つとむ『日本語はどういう言語か』)


2003/6/29