こんにちは。
あいかわらず分かりにくい文章ですけれど、私が人と話しをするときに、いつも気をつけてることについて書いてみました。いつかもっと分かりやすく書きたいです。
簡単に言えば、人と話してるとき、つい、自分の意見のほうが正しくて、相手はなんで分からないんだろうってイライラする気持ちが元になってます。
そのイライラする自分の、どこがエライの?って反省してたら、以下のようなムツカシイ思いが凝固してきました。
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あなたの話し相手があなたに異論(どんなに些細であっても)を投げかけたら、あなたはその話し相手より以上にその異論を真剣に受けとめなさい。あなた自身の立場が揺るがされる地点に到達するまで。
とは言っても、自分の意見を疑い、相手の異論の妥当性を信じろという意味ではない。私が自分に要求するのは、次の要請だ。
「自分の意見――それはさし当っていつも誰かの意見の借り物であり、見えない仲間を味方につけている――の客観性と真理性を疑い得る地点まで、あなたの意見の根拠に向かって遡行すること。」
意見の根拠に向かって遡行すること。これは、次のような操作により、あなたの意見の性質をずらして見ることによって可能になる:あなた(と相手、以下同じ)はなぜ、その考えを持っているのか。あなたにその意見を言わしめている動機は何か。あなたは誰を念頭に置いて話しているのか。あなたの話は、違う社会的場面に移してみたら、どのように作用するだろうか(※)。
こうした自己認識の試みを、徹底的に真剣に遂行すること。そのとき、あなたは、あなたの意見から客観的妥当性の信憑が剥ぎ取られ、後ろ盾のいない単独者として話しうる可能性に気づくはずだ。上の命題を仮に「単独性の定言命法」と呼ぶことにしよう(*※)。
これを「定言命法」と呼んだのは、たぶん偶然ではない。対論の倫理であるこの命法は、この命法に従っている状態を経験的に示すことはできないけれども、この命法に導かれるとき、ある新しい可能性に気づかされる、そういう類の命法なのだ(※※※)。
その可能性とは、負い目なく、罪なく、ひとりの資格で言葉を発するという経験の可能性だ。
ひとりの資格で言葉を発するということは、実はあまり経験できることではない。ひとりの資格で言葉を発するということは、自分がとんでもなく的外れなことを言っているのではないか、という不安の只中で、それでも言葉を発するということだ。
けれども、この不安は人の意志を萎えさせるものではない。むしろ、「私は語る」ということの勇気を感じさせるものだ。
また、この単独性(=孤独)は、人の意志を萎えさせるものではない。むしろ、私は未知の時間に曝されているのであり、冒険へと差し向けられている、と気づかされるのである。
徹底して真剣であり抜くことによって、胸躍らせる冒険へと差し向けられ、未知の時へ曝される(※※※※)。
(※)こうした認識技法については、ルーマン『公式組織の機能とその派生的問題(上)』p19を参照。このような技法を徹底して遂行しうるためには、いかなる意見にも加担しないことへの熱情が要求される。この無関心については、カント『判断力批判』を参照。
(*※)昔の左翼青年は、自己の階級意識を意識の上で否定しようと苦闘したらしい(今でも同種の意識はいろんなところに見出せるだろう)が、その努力は、突きつめればこの単独性の定言命法に逢着せざるをえないのではないか。だから私はこの命法を、唯物論者の命法とも言い換えたい。しかし、この命法の意味はそれほど探求されているとは言えない。
(※※※)カントの定言命法とは異なり、かなり知的な作業を経ないと見いだし難いかもしれない。
(※※※※)リルケ『ドゥイノの悲歌』第4悲歌、天使の出現する場面を参照。さらに『時祷書』のなかの「主よ、あなたは私に、未知の時間を強いられる。」
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普遍性でもない、個別性でもない(こう書くとかつての柄谷さんみたいですけど、)、この単独性の命法は、会話に求めるもののジェンダー差について、何か言いうるかも知れません。これは私の次の数年の課題です。では、また。