こんにちは。
ひさしぶりの更新です。
だれにも何も話したくない気分がつづいているのですが、そこを無理してこじ開けるように書いてみました。私、まだ生きてます。
■「ことばなし」
何も語ることが無くなってしまった。
何か語らなければならない、と思う。
「何か語らなければならない」、と思う。
「何かを語りたい」、とは違う。
もう何も語りたくない、墓場まで沈黙していたいのだが、それにもかかわらず。
いや、もう黙りこんでしまいたいからこそ、それに抗して。
「何かを語らなければならない」という命法は、私にとってカントの道徳法則のように、尊敬の念を起こさせる。
だれにも、なにも、語りたい事がなにも無くなってしまった。
この「ことばなし」の荒野で、なにを語ればよいか。
■ 田村隆一
ことばなし、といえば。
田村隆一「言葉のない世界」という詩があった。10年以上前に買った詩集を取り出してみる。
冒頭
言葉のない世界は真昼の球体だ
おれは垂直的人間
この詩では、一人称として「おれ」が使われている。「わたし」や「われわれ」ではなく。この一人称の選択は、田村隆一のことだから、意図的に違いない。
田村隆一といえば、抽象的なことばによって構築された自立した反世界という印象を抱いていたのだが、「おれ」という一人称は、現実から自立しようとする紙面に「垂直的」に孔を穿っているようだ。
残念ながら、心弱っている今の私には、「言葉のない世界」はエネルギーに満ちすぎている。
鳥の目は邪悪そのもの
彼は観察し批評しない
この熱気と緊張感に満ちた世界からは、私は追放されている。
私が田村隆一の典型として印象していたのは、次のような詩句であった。
「幻を見る人」冒頭:
空から小鳥が墜ちてくる
だれもいない所で射殺された一羽の小鳥のために
野はある
「四千の日と夜」第2節:
見よ、
四千の日と夜の空から
一羽の小鳥のふるえる舌がほしいばかりに、
四千の夜の沈黙と四千の日の逆光線を
われわれは射殺した
いずれも、対句を主とする堅固な定型構造、モノクロームに血の赤を垂らしたような劇的なコントラスト、垂直方向への視線の誘導、静寂を背景にして起きる射殺のビジョン、ときわめて類似する。
(垂直方向へ視線を誘導する詩は稀少であろう。俯瞰的な視線とは違う、垂直方向の運動性が促されるのだ。)
そして、ここには「死」が何かを創設する、死の反転、という主題もある。
何かかけがえのないものの死が、別の何かの創始に転換すること。
この主題は、神話創設的である。
「四千の日と夜」最終節:
一篇の詩を生むためには、
われわれはいとしいものを殺さなければならない
これは死者を甦らせるただひとつの道であり、
われわれはその道を行かなければならない
なにかの死がなにかの生に転化されること、つまり「贖い」の主題がここにあることは一見して明らかだ。
■発生における贖い
しかし「贖い」の主題は、きわめて通俗的なものでありうる。だれかの死と、別のだれかの生は、原則的には関係がない。つまり贖いとは嘘にほかならない。
もちろん人が嘘によって生きるものである以上、贖いという思想が発生することは仕方ない。
しかし、だれかの死によってだれかの生が贖われるというフィクションは、そのドラマに関係しない未知のものへの開かれを閉ざす。わたしはそれを好まない。非倫理的だと思う。
だから、わたしは沈黙してはならない、「見たこともないキミ」(平沢進)に、会う準備ができていなければならない、新しいことばと共に。そして新しいキミに会うためには、わたし自身が未知のなにかに変容することができなければならない。
上に引用した「四千の日と夜」の最終節のことばは、その前の詩句、さらには『四千の日と夜』という詩集ぜんたいのことばによって生かされている。つまり、贖いという思想をその発生において定着させている。この最終節の思想だけを他の詩句から抽き抜いてしまえば、贖いという思想の政治的なマニフェストにすぎなくなってしまうだろう。
発生における贖いを、いつでも取り出し可能であるように定着すること。
一般に「発生における(……)を、いつでも取り出し可能であるように定着すること」が、祈りのことばの、詩の本質的な機能であるとすれば、この課題に応えようとする田村隆一の初期の仕事は、「贖い」の思想化に抗する正しく詩的な仕事であったと言えるだろう。
■喪の変容
エチカ、「あなたのおかげで生かされているわたし」という思いを思想化せず、喪の体験を保ちながら、「あなたとは無縁なわたし」へと徐々に変容を遂げよう。長い時間をかけて。未知のあなたに出会うことへと開かれることが、不可能なあなたとの出会いへと心を振り向ける統制原理でありますように。