

今となっては、1つの夢を達成できたという充実感も得られ、「ノッティンガム大学で学位を取ろうと決めたことは、正しい選択だった」と断言できる。英語に関していうと、語学留学をしていただけでは得られなかったであろう、『喋れる』という自信ももてるようになった。『英語圏で勉強し、上級レベルの英語を取得したい』という意志をもって留学を決めた私。少なくとも、これを達成できた意義は大きいと思う。

JYA (Junior Year Abroad) コースという留学プログラムを終えた後、大学で学位を取ろうと決めた私。しかし、それは『どうしてもイギリスの大学での学位が欲しい』といった野望からではなく、単に『3年間大学で勉強したら、私の英語も伸びるはず』という思惑からだった。1年間のJYAコースが終了した時点では、残念ながら私が望んでいた結果が出せていなかった。
JYAコース生として実際に学部生と共に授業を受けていたので、自分がいかに身の程知らずかということはよくわかっていた。『学位が取れたらどんなにいいだろう・・・。』と思ってみたものの、学位を取ろうなんて考えるのは英語のできない私にとっては野望も甚だしく、それより『英語のできない私を、大学は3年間も置いてくれるだろうか・・・?』と考えるほうが現実的だった。
JYAコース生としてノッティンガム大学に在学していた際、私もイギリス人新入生が初めての大学生活を満喫するのと同様、イギリス大学生活を満喫していた。コンサートに行ったり、サークル活動やパーティーに参加、ナイトクラブ、パブ、バーに行くこともあった。JYAコース生という立場は、正規学生が直面するような『試験を落とすと追試』といったようなこともなく、自分自身が自分の為に勉強するという状況だった。JYAコース生は大学にとって『ゲスト・スチューデント』、つまりお客様のような存在といったほうがいいかもしれない。事実、JYAコース終了後にもらえるものは、『ノッティンガム大学でこのような単位を勉強し、こういう成績を取った』という証明書以外に何もなかった。ノッティンガム大学で取得した単位が、日本の大学でも認められるような交換留学生でない私にとって、イギリスにいるのがたった1年しかないと思うと、『何がなんでもいい成績を取ってやる!』といった意欲は湧いてこなかった。大学でイギリス人学生達に交じって講義、セミナー、チュートリアル等に参加し、英語のできない私がイギリス人学生をまねして、遊びも楽しみながら勉強もなんていうのは不可能だと知ったからでもあった。『勉強も大事かもしれない。でも、それよりイギリスの大学にいるからしか出来ないこと、サークル活動とかパーティーとか、そういうことに参加してコミュニケーションをとることも、よく考えたらここでしかできない勉強じゃない。きっとそこから得るものもあるはず。』そう考えていたのだった。

都市計画経営学部に正規入学すると状況は一変した。今までのように『お客様留学生』ではなく、留学生ではあるもののイギリス人学生と同様に扱われることになった。試験を落とすと追試、またその追試も落としたり、追試のない重要課目などを試験で落としたりしようものなら大学からの退学勧告が待っていた。また、1学生としての自己責任、自己管理、義務を満たすこと、これらすべてが一度に私の肩に重くのしかかってきた。
正規の学部生としての最初の1年間は、精神的に最もつらく厳しいものだった。学部入学を決めた直前の夏休み、私は付き合っていた彼氏と別れた。そのことが私の精神を更にもろくする原因にもなっていた。精神的に不安定で、ちょっとしたことでも涙が出て止まらなかったりするようなひどい状態だった。学部入学を前に、CELEで開かれていた夏季英語集中コースに短期間参加していた私は、CELEからその頃住んでいたレントンのブロック6までの帰り道である、大学内の広大な芝生の上をひとり歩いていた。

夏季休暇中のキャンパスということもあり、見渡す限り人1人として見当たらなかった。『英語もまだまだ理解できてないし、「学部で勉強する」なんて決めたけれど、本当にこんなことでついていけるのだろうか・・・。』学部入学への不安、彼氏と一緒に過ごした大学のキャンパスでの思い出・・・様々な思いが複雑に絡まりあい、込み上げてくる感情が抑えきれなくなった。気が付くと、自然と涙が溢れ出ていた。『あぁ・・・、涙が出てきてしまった・・・。誰かに会ったらどうしよう・・・。』下を向きながら歩いていた。誰にも会わないことを祈りつつ・・・。
「ハイ、純子!」
顔を上げると、向こうから歩いてくるのは、レントン・ホールのマネージャーの秘書、アンだった。
「一体、どうしたの・・・?!何かあったの?!大丈夫?よかったら私に話してみて・・・。」
心配そうに声を掛けてくれる彼女。私はどう答えていいのかわからなかった。泣いている理由はわかっていた。でも、どうして今泣いているのか、自分自身よく分からなかった。自分で自分の感情をコントロールすることができなかった。
『学部入学すれば、イギリス人学生達についていくために必死になって勉強しないといけない状況に置かれるはず。そうなれば、こういった精神的な問題も、その忙しさゆえにそれどころでなくなってしまうに違いない』そう考えていた。しかし、予想に反し状況は悪くなっていく一方だった。次々と降りかかる困難に、私はさらに精神的に追い詰められていった。
授業では、まず講師の話していることが理解できなかった。講師の何人かは特に喋るのが早く、話しているスピードと内容理解が伴わず、そのため気が付くと無意識のうちに気の沈むようなことばかり考えている自分がいた。なんとかこの問題を解決しようと、私は講義をカセットテープに録音し、後で少しずつ聞く計画を立てた。しかし、結果として一度も聞くことのなかったテープの山だけが残ったという有様だった。これは決して惰性から来ているわけではなく、他に製図を描いたり、エッセーを書いたり、プレゼンテーションの用意をしたりと山のようにしなければならないことがあったからだった。
聞き取りということに関していうと、喋るのが早いということを除けば、講師はある意味まだ分かりやすいほうだった。それに比べ、クラスメートが話しているのを聞きとるのは、口をあまり開かずつぶやくように喋ったり、スラングが使われたりすることでほとんど理解できず、更なる努力が必要だった。
次に、都市計画の単位の一環として、毎回自分の作品に対するプレゼンテーションの機会が与えられた。傍からみると、『イギリス人学生達を前に、ネイティヴ・スピーカーでない留学生が英語を使って発表するなんて、英語の勉強にはまたとない素晴らしい機会』だというふうに思われるかもしれない。しかし、英語のできなかった私にとって、このプレゼンテーションはまさに胃が痛くなるほどつらく、嫌なものだった。実際、プレゼンテーションの前夜にはよく眠れなかった。もちろん事前にプレゼンテーションの練習を自室でやってみたりするものの、実際にその場になると練習の成果なんてどこへやら、極度に神経が高まり、緊張してしまうのである。結果、頭の中は真っ白になり、練習したことすら忘れてしまうくらいだった。さらに私の緊張を煽り立てるがごとく、個々のプレゼンテーションは毎回、講師達によってビデオ撮影された。無関心で退屈そうな顔で私を見つめるクラスメートだけでなく、冷淡に私の様子を捉えているビデオカメラ。プレゼンテーションをビデオ撮影する目的は、単に『担当講師達が評価を決める際に再度チェックするため』、というなら私はまだ幸せだったかもしれない。私のひどいプレゼンテーションも講師達の目だけに触れるからだ。しかし、このプレゼンテーションの模様は後日、別の機会に上映され、それぞれのプレゼンテーションをクラスのみんなで講評をする目的で録画されているのだった。つまり、『どこが悪いか、またその悪い所はどう改善できるか』ということを、次回の自分のプレゼンテーションに反映させる目的で開かれていた。私のプレゼンテーションが、『二度と見たくもない。みんなで議論されるなんて恥ずかしくてとても耐えられない・・・』そう思った私は、自分の作品が講評される講義を一度さぼったことがあった。『プレゼンテーションそのものをさぼった訳はないから、さぼったとしても大した問題にはならないはず・・・』そうタカをくくっていた。数日後、学部に備え付けられているイニシャル別の連絡箱を見ると、私の苗字の頭文字である『K』のところに、私に宛てられた大学からの書簡が入っていた。封を開けてみると、それは学年担任であるマシューからの手紙だった。『純子、・・・ 君はこの間のプレゼンテーションの講評の授業を欠席した。この講評の機会は、生徒それぞれのためになると考えてやっていることだ。このようなことが更に2回以上起った場合、2回生への進級が保留されることもありうることを警告しておく。・・・』私はこの手紙を受け取ったことで初めて、イギリスの大学では単位を取るということは決して甘いものではないことを思い知らされたのだった。
生徒がそれぞれ計画するプロジェクトでは、例えばノッティンガム大学と道路を挟んで隣接する、ウォラトン・パークというゴルフ場を併設する広大な公園に大学の一部を移転させるというものがあった。

個人プロジェクトといってもまずはいくつかのグループに分かれ、実際の公園の図面を手に周辺地域の使用状況、周辺の交通量調査、公園とその周辺の環境調査、公園の使用状況、公園の特徴(この公園は、ノッティンガムの特徴でもある起伏のある土地で、実際に公園内にいくつもの丘がある)、公園内に大学を移転した場合に起りうる騒音(学生寮で起りかねない『どんちゃん騒ぎ』も考慮に入れられる)、景観問題(公園の中心となる丘の上にはウォラトン・キャッスルというお城が建っている)等の調査を各グループで実施し、調査結果をみんなの前で発表するのである。
その情報をもとに生徒それぞれが、どのくらいの規模でどういう施設をどこに建設するかという計画と、その判断となった根拠を設計図面数枚と模型等を使って説明するのである。実現可能で受け入れられるであろう作品を作るだけでなく、それをいかに相手に売り込み、またどのくらい上手く相手を納得させるプレゼンテーションをしたかということも成績として反映される。プロジェクトは個人的なもののほかに、グループでするものも多かった。

最初の頃のグループ・プロジェクトでは、実際の社会において必ずしも仲の良い者同士仕事ができるとは限らないし、クラスメート同士知り合うことも大切ということから、講師が独断と偏見でグループを決めたこともあった。そのため、イギリス人ばかりのグループに唯一の外国人である私ということも少なくなくなかった。好きで一緒になったメンバーでもないことから、イギリス人クラスメートにとって私は、『英語もよく喋れないし、どうせ内容も分かってないだろう』と思われ、『うちのグループは純子の分で、イギリス人が1人少ないからハンデだ』とでも言いたげなくらい、グループにとって私はお荷物状態であった。プロジェクトについてのグループ内での話し合いでも私の意見がまともに取り上げられることはなく、ただ参加させてもらっているだけといった感じで、作品製作の時点でも大した仕事はさせてもらえなかった。グループとしてのプレゼンテーションでも、他のメンバーと一緒に前で立っているだけだった。テイも私と全く同じ立場だった。エレイン、グレース、アンブローズは英語が流暢に喋れることもあり、私やテイに対するほどイギリス人クラスメートの対応は冷やかなものではなかったけれど、彼らがイギリス人ばかりのグループに入ることについては、好意的には見られていなかった。

春秋それぞれの学期の終了時に行われる筆記試験は、私にとってプレゼンテーションに続く、いやそれ以上に頭の痛くなる問題だった。JYAコース生としてノッティンガム大学で勉強していた頃、正規学科生のみ履修が認められているような課目もあるので、何でも好きな課目を選択するという訳にはいかなかったけれど、どういった課目を勉強するか自分で選択できた。それぞれの学部で開講される課目の指導内容や成績の評価判断は事前に公表されるので、成績の評価が筆記試験のみで100%決められるようなものは避けることができた。私がJYAコース生だった際、経験として筆記試験のみで成績評価される課目も履修したことがあった。試験結果は全くひどいものだったけれど、そのことはJYAコース生にとっては何の不利益も与えず、単なる経験で済んだいた。しかし、卒業という目的をもった正規留学生となった今、JYAコース生として経験したことからも試験はどういったものであるかよくわかっていた。
イギリスの大学では、自分の専攻分野の必修課目を落とした(100%のうちの40%以下だった)場合、次の学年への進級を目前に控えた夏休みに追試が行われる。仮にこの追試も落としたり、追試が行われない重要な必修科目を落としたりした場合、大学を辞めるか、もしくは『オーディナリー』学位の生徒として勉強を続けることになる。つまりこの『オーディナリー』という学位は、専門分野での必須課目を落としたということで自分の専攻した分野を修めたということにはならず、私の専攻を例にとると、卒業証書の表記が『都市計画経営学を修めて卒業した』ではなく、『社会科学系学部の課目を修めて卒業した』ということになるのだ。『オーディナリー』として大学を続ける場合、都市計画経営学を修めたということでなくなるので、より柔軟に課目を選択できるようになる。都市計画学科の必修科目や選択科目を選択する必要もなくなるので、学科生以外の履修も認められている社会科学系の課目なども含め、定められた最低限の単位数以上を履修すると卒業が認められる。ただ企業などに大学卒として就職する場合、どういった成績で卒業したか、つまりイギリスでは卒業時に『ファースト・オナーズ・ディグリー(通称ファースト)』という、学科で1、2名に授与される最優秀の学位から始まり、次に『アッパー・セカンド・オナーズ・ディグリー(2:1)』、『ロウワー・セカンド・オナーズ・ディグリー(2:2)』、『サード・オナーズ・ディグリー(3)』そして最後に『オーディナリー・ディグリー』というランク付けがされるので、履歴書などにはどういった学問を専攻したかというだけでなく、そこでどんな『ディグリー』を受けたかということが重要になる。イギリスの企業の間では『オーディナリー』学位は大学を卒業したと認めていない為、イギリス人学生が1回生の時点で『オーディナリー』となってしまうと、その時点で大学を辞めてしまうのである。
試験のプレッシャーは、プレゼンテーション以上に大きかった。正規の学部生として入学したはいいものの、最初の試験から筆記試験が3つもあり、更に悪いことには都市計画、ミクロ経済学、経営学と全く違った分野の試験だった。唯一、経営学の試験だけがエッセー1本と筆記試験が50%ずつの割合で評価され、ほかの2つに関しては筆記試験の成績のみで評価が下されるものだった。これら筆記試験を前に、何年もの間ごろ寝しながらテレビを見ているような状態の私の脳をフル回転させるのは容易なことではなかった。試験3つというと覚えることも多く、しかも全く共通しない内容のものである。かなり若くして第一線を退き、隠居生活を送り始めてはや数年、私の脳は強制労働にパンク状態で絶えず悲鳴を上げているような状態だった。
私にとっての試験のプレッシャーとは、まちがっても『試験でいい点数をとってやろう』という野望からではなく、『試験で最低の合格ラインである40%がとれなかったらどうしよう』とか、『試験の制限時間内に、『序論・本文・結論』のきちんとした論文形式の答えが書けるだろうか』という不安から来るものだった。40%というと比較的簡単そうだが、70%を超える評価をもらうと優秀とみなされ、実際には80%あたりが最高評価になっていた。また制限時間内に書けるかというのも、私は英作文が苦手だっただけでなく、たとえ日本語で解答できたとしても、私は書く事自体とても遅かった。学科によって若干違うものの、都市計画経営学科の場合、90分で2つの問題に対する小論文が与えられている試験の場合、最低でも1つの論文に対し、800字以上書いていることが必要だった。2時間で2、3題の問題を解くような試験についてはもちろんそれ以上の字数が必要だった。
試験日が近づくにつれ、私の脳は暗記したりしていないときでもリラックスすることができなくなった。そのためなかなか眠れず、ベッドにただ横になっているだけという状態だった。試験の際、隣の席に座ったクラスメートが速いスピードで文章を書き、解答用紙であるノート状の冊子を次から次へとめくっているのを感じると、『ああ・・・、なんだかいっぱい書いている・・・』と神経過敏になり、そんなことで緊張して自分の解答に集中できなくなった。試験の採点は、偏見なくかつ公平に行われるのを目的として、自分の受験者番号と名前を解答用紙の表紙の角の部分に記入するようになっており、解答が回収される際には角を折って、その部分を各自で糊付けするようになっていた。解答の採点を終えて初めて、誰の答案であったか明らかにするという訳である。「この答案は純子のか・・・。まぁ、彼女は毎回休まず講義に出ていたし、英語ができないにしてはがんばったから、よし合格点をあげよう!」なんて日本の大学では起こりえるかもしれないことが、イギリスの大学ではまず考えられない。まず、日本の大学のような授業の出欠は問題にされない。自分の為に授業に出席するのだから、授業に出たか出なかったかなどは関係なかった。また、試験で出される問題は授業で取り上げられたことを更に深く追求したのもので、試験は『教わったことをどれだけ覚えているか』ということではなく、『自分がどれだけ勉強したか』ということを示すものだった。大学内の書店では学部別の過去3年間の試験問題集が売られており、図書館にも10年ぐらい前までの全課目の試験問題が閲覧できるようになっていた。私は、『解答用紙の最後に自分の名前を書こうかな・・・』という誘惑に駆られたこともなきにしもあらずだった。というのも運がよければ、たとえ私を知らない講師が採点をしていたとしても、『何だ、ここに名前があるぞ。名前から察するに留学生か・・・?それにしてもひどい英語で書かれているなぁ・・・。上級レベルの英語力に達していないにもかかわらず、頑張って勉強していることを考慮して及第点はあげるか。』と同情心からの及第点が期待できるかもしれない。しかしその反対に、解答用紙の中に名前を記載したことでその試験自体が無効になると一生懸命勉強したことが元も子もなくなるので、結局一度も試したことはなかった。
試験も終わると、成績結果について担当学年講師との個別懇談が開かれた。試験に対する反省や、次回試験への抱負等を記入する用紙まで提出するように言われるので、『大学』といっても、まるで日本の高校生に戻ったような気分だった。1回生担当のマシューから、「次の試験では、さらにいい成績をとるべく努力するべき点は何か」「何か、私が助けてあがられることはないか」といったようなことを問われ、ダメもとで「英語を母国語としない留学生には、少しでいいから試験時間を余分にもらえたら・・・」と言ったことがあった。ノッティンガム大学では、英語を母国語としない学生対して試験中の辞書の使用は認められていたものの、試験時間に対する優遇措置などはなかった。そのため、いちいち辞書など開いて単語を調べていてはそれだけ時間もかかるので、試験期間中に辞書を引くことはほとんどなかった。他にも、『試験の際、隣に座ったクラスメートの書くスピードが早いと余計に緊張してしまう』という悩みも伝えてみた。試験時間が余分に欲しいという要望は即却下されたけれど、緊張するという悩みについては大学には試験の際に緊張するという学生が何人もいるらしく、小さな部屋でそういう学生達だけを集めて試験を行うこともできるから、そこを利用できるようにしてあげてもいいとの解決策を得た。大変有難い申し出ではあったが、良く考えると別室で試験をとっているだけなのにクラスメートから、「時間を余分にもらっているんじゃないか」とか、「何らかの特別待遇を受けている」と誤解されるのも嫌なので、結局在学中一度も利用しなかった。
相手の言っていることがよく聞き取れないことからくる理解力の欠如、加えて読解力が遅く、イギリス人クラスメート達が試験のために最低限はこなしている読書量までなかなか到達できないという問題をなんとか解決すべく、私は2週間ごとに提出しないといけない小論文に加え、製図、プロジェクト、プレゼンテーションといった学部での課題に追われていたものの、時間を見つけてCELEが『インセッショナル・コース』と名付けて大学の学期中に留学生に無料で開いていたいくつかの英語コースに参加した。『Seminar Skills (セミナー・スキル)』『Academic
Writing(アカデミック・ライティング)』『'Presentation
Skills(プレゼンテーション・スキル)』『''Conversation
Skills(会話)』・・・など様々なコースが、大学のお昼休み中か夕方に開かれていた。どのコースに参加するかは自分の弱点に合わせて選べ、登録をすれば定員数まで参加できるようになっていた。イギリス人学生がほとんどを占める、学部で少人数で開かれるセミナーやチュートリアルの刺々しい雰囲気に比べ、英語が母国語でない留学生が参加して英語で行われる授業は、本当に心休まる楽しいものだった。このCELEの『インセッショナル・コース』に参加する学生達は出身国もさることながら、在籍している学部も違っていたけれど、英語に問題があるという悩みは皆同じだった。またこのコースの講師達の中には、私がJYAコースの留学生としてまず、CELEで英語を勉強していた頃の私の英語の先生であったグラディスやマーサもいた。彼女達は私が置かれている状況をよく理解してくれ、何度となく落ち込んでいた私を力づけ、励まし、またエッセー等でいい成績をとった際には共に喜んでくれた。グラディスに関しては2回生になった際、私は相変わらず提出物に終われて忙しくしていたものの、授業にもなんとかついていけるようになり、英語力アップを目標に、CELEで夕方から有料で開かれていたケンブリッジ英語検定試験上級コースに参加した際、そのコースの講師にもなった。ケンブリッジ英語検定の試験日が近づく頃になると彼女は、会話や討論を最も苦手としていた私のために、自分の休憩時間を割いて私との口頭試験の模擬練習に充ててくれたりもした。
『インセッショナル・コース』に参加し、学部で勉強するのとは違った温かな雰囲気の中で英語を勉強し、気分転換にもなったけれど、抑鬱状態にいる自分を開放することまでできなかった。1人になりたい時、いつも向かったのがその頃住んでいたウォートレー・ハウスから15分も歩くとたどり着く、ウォラトン・パークの中でも一番高い丘にあるベンチだった。夕食も近い時間になるとそのベンチには誰もおらず、ベンチに座って見渡すと遠くのほうで犬の散歩をさせている人達を見かける程度で、目の前に広がるのは広大な芝生の緑と遠くに望む大きな池だけでだった。

その時間帯を好んで、寮の夕食を食べずによくそこに出かけた。学部生となると想像していた以上の数々の困難に直面し、そういった困難に打ち勝つのに必要な自分の力不足、無能さ、自分ではとても超えられない高い壁を感じ、わかっているのにどうして続けているのだろうと自問していた。自分の実力以上のことをしていると自覚しているのに、どうしてまだ自分は学部生として勉強を続けているのか・・・。自分の意地以外に理由は何もなかった。今ここで諦めたら、イギリスの大学に正規学生として入学したものの聴講生のようなもので終わってしまう・・・。結局、英語も語学留学したのと大して変わらないレベルのもの・・・。全く意図したわけでもなく、留学先で彼氏と出会って別れて・・・なんてよくあるパターンになって・・・。自分自身を成長させるために得たものって、何もなかった・・・。そんなことで終わってしまうイギリス留学。そう考えると、いつも涙が溢れて止まらなかった。そして、涙が乾くまでベンチに座りつづけた。
抑鬱状態もひどくなると、自分の気持ちに逆らって笑顔をつくるのに疲れ、以前のように寮で食事をしている友人達の輪に入ることもなく、ひとりで食事をとるようになった。『楽しくなるような話題も提供できない・・・』と思うと、『ひとりで食べるほうが気楽』と考えていた。友人達は、ひとりで食べている私を見つけるといつも、自分達と一緒に食べるように誘ってくれていたのだけれど、「ひとりのほうがいいから・・・」とひとりで食べていた。敬虔なクリスチャンのベッキーなど、ひとりで食べている私を気の毒に思い、私の隣に座って一緒に食べてくれたりもした。腐れ縁のケビンも、自分の友人達が誰も食堂にいない時、「1人で食べるのは嫌だから」と私の隣か向かいに座って食べてくれた。レントン・ホールのチューターで、またCELEのインセッショナル・コースでもたまたま同じコースを受けていたことのある、気心に知れたヨルダン人のアミンも、チューターはお昼ごはんだけは寮生と一緒に食べることになっていたので、私がひとりでいるのを見かけると私と一緒に食べてくれ、「どうだ?元気か?」と気に掛けてくれていた。また、お昼休みの時間に余裕があるときなど、「コーヒーでも飲むか?」とチューター専用のリビングルーム付きの彼のフラットでコーヒーをいただいたこともあった。ひどく落ち込んでいたとき、「何か悩んでるんだろう?言ってみてくれ。何か助けられるかもしれない。」ということで、私が直面していたクラスメートとの問題などについて話すと、アドバイスをくれたこともあった。学部生として直面していた問題や困難について、特に打ち明けること相手がまわりにいなかった。JYAコース生として特に何の悩みもなく、楽しく過ごしていた頃からの友人で、1年間の交換留学を終えフィンランドに帰国し、見習判事となったハッリに半ば愚痴のようなE-mailを連日のように送っていた。実際、こうしたことを書く相手がいるだけでもほんの少しだけは気分が軽くなった。今考えると、そんな気がめいるようなE-mailを送りつけられていい迷惑だったに違いないが、ハッリは毎回すぐに返事をくれ、そこにはいつも励ましの言葉が書かれていた。
2回生に進級できるかどうかさえわからず、抑鬱状態だった1年次。幸い追試を受けることもなく、どうにか無事に2回生に進級できた。2回生になると、今度は『必修単位を落として『オーディナリー』で卒業することになってもいいから、卒業だけはしたい』という憧れを抱き始めるようになった。それが2回生の後期試験結果が公表され、最終学年である3回生になる頃には、『もう少し頑張れば『オーディナリー』ではなく、イギリス社会で最低レベルで大学を卒業したと見なされる『サード(3)』で卒業できるかもしれない』と欲も出てくるようになった。私のこういった意気込みがプラスに働いたのか、イギリス人クラスメートの私に対する態度も変わってきた。グループ・プロジェクトでは、私にも他のメンバーと同じだけ責任感のある仕事が与えられ、プレゼンテーションでも横で立っているだけでなく、交代で発表するようになった。加えて私の英語の発音や文法間違いに対し、クスクス笑うようなクラスメートはもう誰もいなかった。それ以上に私自身を驚かせたのが、ある意味において『私のことが少しは見直されてきたかな・・・』とちょっと自負するようなことも多くなった。
アラン、ガビン、マイクという、一緒にグループ・プロジェクトに取り組んだことが一度もない男3人と、ノッティンガムシャーのある町の地方分権制度への取り組みに関する調査研究をすることになった。まず、自分のグループはどういった内容の調査研究をするかというプレゼンテーションのため、男3人が借りてきた関係書籍を各自で分担して読み、2・3日中に一つのレポートとしてまとめることになった。
「純子、この本を読んでくれ。」
そういって差し出された本は、3人がそれぞれ読むという本に比べると、最も分厚い本だった。
「ちょっと、これ一番分厚いじゃない。」
「本こそ分厚いけれど、書いてある内容は奥深いものじゃないから。それを読んでレポートを書いてくれ。そしたら俺らのものとまとめるから。それをプレゼンテーションの際に、資料として配ろう。」
いざ読み進めると、『奥深くない』どころか、自分達の調査研究に関連し、重要だと思われるところがいっぱいある。私にしても、とにかく「純子がいるから、この調査研究でいい点が取れなかったんだ。だから、この課目の成績もよくないんだ」なんてことだけは言わせたくないという思いから、読めと言われた本以外にも自分で関連する本等を探し、より詳細なレポートを作った。彼らのレポートも合わせてまとめたという、プレゼンテーションの際に配られた資料は、私が書いたレポートに文法チェックを加えた程度のものに過ぎなかった。『これって、あんたたち何にもしなかったってこと?!』と頭にきたものの、『それだけ私の仕事が高く評価されている、ってことかもしれない』という見方もでき、そう考えるとたまらなく嬉しかった。思い起こせば1回生の頃、私はグループ・メンバーとして見なされず、何でもイギリス人クラスメート達が中心になっていた。それが今、このグループでの地方分権制度への取り組み活動の調査研究において、プレゼンテーション用の資料作成から活動の中心となっている人達に対する質問のリスト、最後のレポート作成まで私の仕事が中心になった。
筆記試験においても、以前の私なら隣の席に座ったクラスメートが、早いスピードで解答を書いていようものなら緊張し、とても動揺したものだった。それが、私自身相変わらず書くスピードは遅いものの一定の速さで書きつづけ、傍らでペンを置いて考えているクラスメートを見ると、『結果はどうであれ、私のほうが解答を多く書いているかも!』と試験中に優越感を感じるような、心の余裕をもてるまでになった。
『どの学位が卒業時に授与されるか』という基準になるのが、学部によって若干異なるものの、都市計画経営学専攻の場合、1年次の成績は参考程度で、2年次の成績が40%、最終学年の3年次の成績が60%となっていた。つまり、最終学年である3年次の成績が、授与される学位に反映するといって過言ではなかった。そのため、授与される学位が就職活動に影響するイギリス人クラスメート達は、最終学年にもなると、今まで以上にプロジェクト、試験、卒論に力を入れていた。平均的なイギリス人クラスメートよりも成績のいい、エレイン、アンブローズ、グレースは、最優秀学位の『ファースト(1)』をとるべく一生懸命だった。『オーディナリー』を授与されることが決まったテイは、そのことで課目の選択も自由になり、最終学年にもなると都市計画経営学科の履修課目は全く選択しなくなった。『イギリスの大学では最低レベルの学位、『サード(3)』でももらえたら幸せ』程度にしか考えていなかった私も、『クラスの誰もが頑張っている』という波に飲み込まれたがごとく、苦しみながらも無我夢中でついていった。後に、学部でただ一人、『ファースト(1)』を授与されることになったポールを筆頭に、リチャード、エレイン、アンブローズ、グレースと私の6人で行った、イースト・ミッドランド地区の住宅開発計画プロジェクトでは、休日返上で集まることも少なくなかった。後でくいの残ることのないよう、出せる力を出しきって望んだ大学での最後の筆記試験。結果はどうであれ、この最後の試験で書いた解答は、自分自身の中で最も満足できるものとなった。幸い落第もせず、大学を辞めもせず、この最後の試験を受けるまでに至るとは、抑鬱状態だった1年次の私には全く想像もできなかった。それを思うとただ感無量になった。
「純子、おめでとう!2:1だ!よくやった!」
最後の試験の結果発表後、学部長であるターナーから呼ばれた私は、自分の耳を疑った。全く期待すらしていなかった『アッパー・セカンド(2:1)』という学位が、私に授与されることになったというのだ。しかも、私の下には『ロウワー・セカンド(2:2)』をとったイギリス人クラスメートが何人もいる。卒業式で、実際に『アッパー・セカンド(2:1)』ということが記載された卒業証書を手にするまで、私はこの奇跡を信じることができなかった。『You
could make a dream come true.』、『夢をかなえさせることができる』ということを感じずにはいられなかった。

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