大学の長い夏季休暇中、大学の授業についていけなかった私は一度、大学のCELE(Centre for English Learning Education )という教育機関が開いている夏季英語集中コースに申し込み、帰国しなったことがあった。
その期間中、私はレントン・ホールの地下1階、地上3階建て29室という小さな建物、ブロック6の1室に住むことになった。私の住んでいたこのブロック6は主に、海外からの研究者、大学の短期間で単位を習得するコースに通う成人学生、海外の大学院からの交換留学生用として使われていたので、学期中は平均年齢20代前半で騒がしかった寮も、平均年齢がグーンとアップし、寮の様相が一変した。若い学生のように、夜になると活動が活発化する人がほとんどいないため、夜も10時も過ぎると静まり返るかわり、朝は早い人でご来光を拝むことを日課とする人までいた。私は、ここで様々な国からやって来た人達と交流する機会に恵まれた。
このブロックに住んでいた日本人は私だけで、一時、私以外の住人は短期間の交換留学生として同じフランスの大学からやって来たという大学院生の女性達ばかりという時期もあった。パラディル、エスタ、フランス、シャーロット…と私には馴染みのない名前とそれぞれの顔を覚えるのに一苦労し、あちこちから聞こえてくるフランス語でのおしゃべりに、『なんか私、フランスに留学してるみたい』と錯覚を起こしたこともあった。しかし、そんな女性ばかりの華やかだった期間は短く、ほとんどが男性といっても『いい年のおじさん』所帯に占拠された『アパート』であることのほうが多かった。ただ残念だったのが、1−2週間滞在しただけで帰ってしまうような人達も少なくなく、そんな人達はブロック6には住んでいても、私のように長い大学の夏休みの間中住んでいた住人と違って、共同キッチンで料理を作ったりすることもなく、簡単な自己紹介と会った時にかわす挨拶程度で終わってしまうのだった。しかしその反面、住人の出入りが激しいので、『次はどこの国の人が入ってくるかなー』なんていう楽しみを持つようになった。もちろん、1ヶ月以上住む人達も何人もいたので、そういう人達は簡単な調理道具を購入し、各自で食事を作っていた。そんな人たちの間でいつしか家族のような温かい雰囲気が生まれていた。
『家族』を構成する主要メンバーは私を入れて5人。1人を除く3人は妻帯者で、年だけ考えると私にとって父親2人に兄1人、弟1人とまさに『男家庭』であった。『父親のうちの1人』なんて思っていることを本人が知ったら怒られそうだけれど、2人の子供いる本人の年を考えると、私は『早くして授かった子供』くらいの年の差ながら、私を『妹』と言って可愛がってくれる、マハデオ。南太平洋に浮かぶ諸島、モーリシャスから来た人で、見ただけでは南国でごく一般的に見かけるようなおじさんなのだが、モーリシャスでは英語教育担当の役職につき、英語はもちろんのこと、フランス人のクリストフとは流暢なフランス語で、インド人のドクター・バハティーヤとはヒンディー語で流暢にしゃべるインテリである。本人の弁によると、これらの言語の他にスワヒリ語もできるとのことである。
毎朝、ご来光を拝む事を日課としている彼は、ある日、私に聞いてきた。
「純子、たまには早起きしてみないか。明日なんてどうだ?」
彼の誘いに答えて、2人でご来光を拝む事に。ご来光といっても夏は日の出の時間がかなり早いので、6時ちょっと過ぎに大学のキャンパス内の見晴らしの良い丘の上に着いた頃には、もう朝日はすでに昇っていた。
「晴れた日は毎朝ここに来て、朝日を拝みながら、神に今日という1日を迎えられた幸せを感謝しているんだ。こうすることで、引き締まった気分になれるんだ。」
モーリシャスにいる時から、晴れた日はご来光を拝むという習慣を一日も欠かしたことがないというマハデオ。モーリシャスでは、海に沈んでいく夕日の美しさもさる事ながら、海から昇ってくる朝日は、昇りながら、その光が世界でも透明度の高いことで有名な海を少しずつ照らしていき、その光景はたとえようもないくらい美しく素晴らしいという。それを見ると、自分が生を受けている事を毎日、神に感謝せずにはいられないのだと話してしてくれた。
ノッティンガムで見た朝の太陽は、マハデオが普段モーリシャスで親しんでいる情景とはまるで比べものにならないけれど、それでも、大阪でも市街地に住んでいた私には見ることができなかった、建物や看板に視界が遮られることもなく遠くの街まで見渡せる素晴らしいものだった。『生きているという幸せ』を実感することもさることながら、私は『この地で勉強できる幸せな自分』を神に感謝せずにはいられなかった。不思議なもので、『早起きは三文の得』ではないけれど、その日はいつもより充実した1日を送れたような気がした。
マハデオは、私に「これから毎日、一緒に朝日を拝もう」などと無理強いするようなタイプではなく、私は夜遅くまでクラスで出された課題で忙しかったこともあり、残念ながら、これ以降一緒に朝日を拝む機会はなかった。かわりに、気分転換を兼ねて何度か一緒に夕日を見ながら広大なキャンパス内を散歩した。
「純子、きみのご両親は自分の生活を犠牲にして、きみがここで勉強できる機会を与えているという事を決して忘れてはいけない。私にもかわいい子供がいるからね。親というのは、本気で子供がしたいということがあれば、喜んで子供の犠牲になれるものなんだよ。その恩に報いるためにも、一生懸命勉強しなさい。神はいつも君を見守ってくださっているから、君の努力次第では首席卒業も可能なんだよ。」
敬虔なヒンドゥー教徒で、モーリシャスでヒンディー語を学び、インドの大学に留学、入学した時にはすでに学部のなかで最年長だったというマハデオ。最初は授業についていくのさえ大変だったけれど、寝る間も惜しんで学術書を読み漁り、最終的には優秀なインド人学生達を抑え、首席卒業した彼。私は、他人から説教を受けたがる若者ではないけれど、彼の言葉には自身の成功によって裏打ちされた、ずっしりとした重みがあった。穏やかな口調で私に語り掛けてくれる言葉は説教とは程遠く、心に響く慈愛に満ちたものだった。そういった意味では、マハデオは『父』というよりむしろ、『母』だったかもしれない。
もうひとりの『父』というのが、料理こそ作らないものの気がつくと共同キッチンで静かに座っている、インドのジャイプールから来た精神外科医のドクター・バハティーヤだった。
「人生はね、何でも取り替えられるんだ。車とかそういったものはもちろん、妻、君だったら夫になるけれど、まで取り変えられる世の中だ。でも、君が君の両親から生まれたという事実だけは替えられない事実なんだ。そのことをしっかり肝に銘じて、ご両親を大切にしなさい。」
日本人が失いつつある、親を中心とする彼の人生観はマハデオとよく似ていた。2人に共通するヒンドゥー教が影響しているのしれない。ただ、ドクターのほうはインド・アクセントが強いので、何を言っているのかよく聞き取れないこともよくあり、かといって分からない部分を、相手に何度も確認するのも失礼な気がして、微笑みと共にうなずくこともあった。『もしかしたら私、2人からは『親の大反対を押し切って留学した、どうしようもない娘』なんて勘違いされているのかも』と考えるとおかしかった。保守的なインドでは、私の年では既に結婚し、子供がいてもおかしくない。さしずめ、頑固な『父』ドクター・バハティーヤの説教にちゃんと耳を傾けないわがまま娘に、慈愛に満ちた『母』マハデオが、「お父さんがいいたいのはね・・・」と解りやすいように説明してくれているようなものだったかもしれない。
残りの私の『家族』は、『兄』である香港にある大学で教育学部英語教育教授をしているジョーと、あごひげが少し老けさせて見えるものの、実際は私より2つも年下のフランス人で、南仏トゥルーズの工科大学の大学院博士課程でITを専攻している『弟』、クリストフだった。
私の父と弟が、お盆休み期間を利用して北欧旅行をすることになり、ノートブック型パソコンを受け取るという目的で、大阪から最初に到着するヘルシンキで落ち合う事になった。せっかくの機会だからと、2人に会う前にフィンランドに10日間程滞在する計画を立て、そのことをブロック6の『家族』の面々にも伝えた。
「イギリスより涼しいだろうから、風邪などひかないように気を付けるんだよ。」
もう数日もすると愛妻グラディスが香港から会いに来ることから、いつにもまして顔がほころびがちの『兄』のジョー。『父』ドクター・バハティーヤは相変わらずである。
「ヘルシンキでは、お父さんと弟さんを手厚くもてなしてあげるんだよ。」
おどろいていたのは、『弟』のクリストフで、
「えっ、2階に住んでいるルクセンブルクから来たドクター、知ってるだろう?彼がもうすぐ帰るっていうから、お別れ会開こうって思って、それで純子も誘うつもりだっんだ…。ほら、タルト型があるから中身はまだ考えてなかったんだけど、タルトでも焼いてみようと思ってたんだ。ほら、「食べてみたい」って言ってただろう?」
料理上手なクリストフの作るタルトと聞いて、『あーあ、出発をもう少し先延ばしにできるんだったらなー。彼には、もうちょっと早く知らせといたらよかった』とかなり後悔。
マハデオはというと、やっぱり『母』である。
「当日は、何時にここを出るんだい?帰りは何日の何時頃、こっちに戻って来る予定だい?帰ったらまず、私の部屋に知らせに来るんだよ。」
出発当日、マハデオにはブロック6を出発する時間こそ伝えたものの、まさかその30分前に、彼が私の部屋をノックしに来てくれるとは夢にも思わなかった。私が既に起床しているのを確認すると、
「いや、朝早いから純子が寝過ごしてるんじゃないかって気になってね。起きているなら良かった。支度ができたら、私の部屋に来なさい。バス停まで荷物を運んであげるから。」
私を起こす事から始まり、がっちりとした体格で軽々と私のボストンバックをバス停まで運んでくれ、別れ際での心優しき『母』の一言に、バスの中の私は感謝の気持ちでいっぱいだった。
「お父さんと弟さんには、くれぐれもよろしく伝えておくれ。それから、旅行中はお金など取られないように充分気を付けるんだよ。帰る日の夕食は心配しなくていいから。私が作っておいてあげるから。」
南国に住む人達は、人柄は純朴だけれど約束をうっかりわすれたりするのが珠にきずというようなことを聞いた事があった。フィンランドから再びイギリスに戻り、ヒースロー空港からノッティンガムへと向かうバスの中で考えていた。『マハデオ、私が出発する数日前から大学に提出する論文作成に没頭していたし、出発してからもう10日も経ってるから、私が帰ってくることはもとより、私の夕食のことなんかすっかり忘れてるだろうな・・・』大きな期待を持ちすぎて、後でショックを受けないように自分に言い聞かせていた。
『論文の提出期限が迫っているマハデオ。そんな彼に、旅行に行って帰ってきた私の夕食を作らせるなんて、だいたい虫が好すぎる。作ってもらえなくて当然』
夕食云々というより、いつもよくしてくれているマハデオには真っ先にお土産を手渡したくて、彼の部屋を訪ねた。
「純子、よく帰ってきたなぁ・・・。どうだった?旅は良かったか?お父さんや弟さんと会うのも久しぶりだっただろうから、嬉しかっただろう。それよりご飯はちゃんと作ってあるからな。お腹空いたんじゃないか?今すぐ用意してやるぞ。」
他人の偏見に囚われ、彼の言葉をそのまま素直に信じられなかった自分を恥じ、差し出された料理を前にして、私は胸が一杯になった。ごはんと共に出されたおかずは見た目こそシンプルだけれど、鶏1羽と人参、玉葱、ジャガイモ等、たっぷりの野菜が使われ、時間をかけて煮込んだものだった。私のゆがんだ心に、彼の手料理が温かく染み渡っていった。
「すごく美味しい・・・。本当にありがとう。」
マハデオの部屋を後にし、ジョーと彼の奥様のグラディス、ドクター・バハティーヤとも再会し、お土産話に花を咲かせた。
「どうだった、フィンラン・・・」
私を見た、クリストフの質問を遮るように、私は彼に訊ねた。
「どうだった、お別れ会!?結局開いたの?」
クリストフがフラットに帰って来るのを、私は今か今かと首を長くして待っていた。『純子が参加しないと、僕と彼だけになるなぁ・・・』なんて言っていたので、気になっていた。
「僕と彼で開いたよ。2品程度で、あまりたいしたものは作らなかったんだけど。」
人当たりが良くて、料理上手なクリストフ。彼がお別れ会を開いたというルクセンブルクから来たドクターは、研修先であるノッティンガム大学病院で夕食を済ませていたようで、私はほとんど顔を合わせる機会がなかった。たまに、クリストフとキッチンで何かフランス語で会話しているのを見かけたくらいだった。滞在期間も正味2週間ぐらいだったはずで、そんな彼のためにお別れ会を開いたことに、私はとても驚いていた。献立を考え、買い物に行き、料理を作る、すべてを彼一人でこなさないといけないので、なかなか気の進む事ではない。しかも、その2週間程前にはノッティンガム大学を卒業したばかりのイスラエル人のヤエルと、彼氏でアイルランド人のニールのお別れ会をしたばかりである。
ヤエルとニールもフラットには2週間ほど住んでいた。その間、ニールは料理の作れないヤエルの為に食事を作っていたので、何度か話をすることがあったものの、ヤエルのほうはキッチンで見かける事がほとんどなかったので、会話らしい会話をしたことがなかった。クリストフも私と同じような感じだったはずで、そんなクリストフがニールから、「近々このフラットを出て、2人で自分の住むロンドンで生活する」と聞き、私にお別れ会を提案してきたのである。「料理等は僕一人で大丈夫だから、純子も参加してくれないか」とクリストフから頼まれたものの、本当に何もしないのはさすがに気がひけるので、料理用の買い物リストを折半し、彼の料理に手作りのメニューを作ることにした。メニューを作るという案が浮かんだのも、クリストフが、前菜、メイン、デザートと3コース・メニューを考え、クリストフの両親の家があるというフランスはニーム産のワインをパーティーの為に購入し、滞在中に何度使用するか分からないにもかかわらず、タルト型等の調理道具まで購入しているのを見たからだった。せっかくここまでしているのだから、お洒落なメニューをテーブルの各自の席に置いておくと、フランス料理店で食事しているような気分になるし、また記念にもなっていいと考えてのことだった。3コースのそれぞれの料理の名前は、『私が下手に英語でつけるよりは、フランス語の方が断然、雰囲気が出る』と考えると、フランス人であるクリストフなしにはできず、結果、彼が自分で自分の料理に名前をつけるはめに…。恥ずかしがって、なかなか命名出来なかった彼が、私のアイデアを取り入れて考えた料理の名前が次の通りである。
Entree Tarte Salee du Jardin
(お庭からの甘いタルト)
Principal Gnocchi accompagnees de Cotes d'aguneau Nimbee de Sauce Tomate aux Saveurs de Provence
(プロバンス地方風ラム肉のグノッチ添え)
Dessert Bananes Flambees au Rhum de Canne
(バナナのフランベ)
Vin Costiere de Nimes 1995
これらの料理はすべて彼一人で作ったもので、私はもとより、自分達のお別れ会を開いてくれるといってもさすがにここまでしてもらえるとは思っていなかったニールとヤエルは、とても感動していた。私の手作りのメニューも、彼らにとっていい記念になったようだった。シェフ・クリストフはというと、トゥルーズで作るのとは全く勝手が違うのと、満足のいく食材で料理が作れなかったから本来の味が出せなかったと少し悔やんでいるようだった。
「トマトのタルトあるだろう。あれは、本当はもっと果肉がぎっしり詰まったものじゃないとダメなんだ。フランスだったら、あんな水っぽいトマトは売り物にもならないよ。それから僕の住んでる所なら、ハーブも料理で使ったような乾燥したやつじゃなくて、生のものが安く手に入るからもっといい風味が出せるんだ。もちろんワインもそうだけど、フランスだったら手頃でいいのが手に入るのに。それにしても、どうしてこの国の野菜は高いのに、どれも野菜が持つ独特の風味っていうのがないんだ。」
近年、イギリスでもミシュランから3ツ星を受けるレストランまで現れるほど、レストラン等で出される料理の質はかなり向上している。しかし、今だ英国といえば『まずい料理』と定義づけられたりするお国である。実際、まだまだまずい料理を出すレストランは存在する。出される料理がまずいというのは、もとをたどれば質の悪い食材に端を発し、調理方法の悪さでますますそれを悪化させているような気がしてならない。私自身、茹ですぎた人参、ブロッコリー、カリフラワーを食べ、それらの味が全くないのに驚いた。風味は長時間の調理によって無くなってしまったのかもしれない。しかし、クリストフの言うように調理うんぬんに関係なく、野菜に本来あるべき『味』がうすいことについては同感だった。一般的なイギリス人が、『野菜は調理すると味がなくなるから、調味料で味を付ければいい』という考え方だとすると、『なにもわざわざ高いお金を払って、品種改良されて風味のある野菜を買う必要はない』という結論に達しているのかもしれない。しっかりと味のあるいい野菜を買っても、茹ですぎた際には味もなにもあったものではないだろう。そういう訳でか、スーパーでは『エコノミー』と書かれた大きな袋にいっぱい詰まった人参などが売られ、購入する人も多い。イギリス人は、日本の主婦がワイドショーを見て影響されるようには、野菜の栄養価などほとんど気にしていないように思う。だから、長時間の加熱によるビタミンCの喪失など関係ないようだ。素材そのものに持ち味がないのだから、『素材の持ち味を、最大限引き出すように料理する』なんていう、日本やフランス的な考えをイギリス人が持っていないとしても当然だろう。一部のレストラン等で料理に使われる野菜の品質が向上しているとしても、庶民レベルで『味がしっかりついている美味しい野菜』が簡単に手に入るまでの道のりはまだまだ遠そうだ。以前、体格が大きいこともあり、動くのがおっくうだというアメリカ人のリサが彼女の夕食として、何本かの人参の皮を剥き、その人参を特大サイズのピーナッツバターの瓶につけながら美味しそうにポリポリかじっていた。それを見た私は、『なんだか、人間並みの知能を持った馬が、食事に変化を出しているみたい…。人によっては、素材の持ち味や味付けなんか問題じゃない、とにかく自分が飽きずに幸せに食事ができればいいってことなのかもね。』と変に納得してしまった光景が、ふと脳裏に浮かんだ。
クリストフの料理に対する姿勢には、感心させられることが多かった。ノッティンガムにいた日本人男子留学生達の大半が自分で料理が作れないのに比べ、彼はたとえ忙しくも毎日、自分で何かしらの料理を作り、ピザなどの冷凍食品やインスタント・ヌードルなどで済ましているのを見たことがなかった。隣のブロック7に住んていだ日本人のノリヒロ君も、夏休みが始まった頃など、「今まで料理なんて作った事がないからどうしよう・・・」と困り果てていたのが、クリストフに触発されたかどうか定かでないけれど、ドイツで調理師をしているという友人に連絡を取ったりしながらいくつかの料理を習得し、ついには毎日、ご飯はお鍋で炊くようになっていた。また、気のいいクリストフは他人の分まで料理を作るといった事も苦にならないようで、自分では申し訳ないと思いながらも、私もしょっちゅう彼の夕食のご相伴に預かっていた。私も私で、クリストフが研究室から帰ってきて食事を作る時間には、ちょうど私自身の夕食を終えて洗い物をしている頃で、もう充分満腹になっているのに、
「今から、ご飯作るけど食べる?」
そう聞かれると、いつも今度はどんなものを作ってくれるのかと楽しみで、夜食代わりとして喜んで食べていた。そして、寝る前には食べ過ぎに苦しんでいる有り様だった。『それなら、自分で作る夕食の量を減らしたらいいじゃないか』と思われそうだけれど、私は何故かたとえ1人分とわかっていても、いつも多めに作ってしまうタイプなのである。しばらくするといいアイデアも浮かび、自分の夕食のうち一部を彼へのおすそわけとして残し、彼の料理のおすそわけを頂くことにした。こうして私は、気兼ねなく彼の料理が楽しめるようになったのである。
「純子だけに、特別に作ってあげる」なんていう、いやらしさがないのもクリストフのいい所で、料理の作れないドクター・バハティーヤがキッチンで座っていたりすると、彼にも私の時と同じように「料理を作るけれど、食べないか」と尋ね、一緒に食べているのを何回か見たことがあった。そんな2人を見かけると、私はいつもおかしくて吹き出しそうになった。それというのも私は、料理が作れないドクターを気の毒に思い、彼がキッチンで座っていた際に何度か、「料理を作るから、一緒に食べよう」と誘ったことがあった。しかし、保守的なところがあるドクターにとって、妻以外の女の人に料理を作ってもらうことに抵抗があるのか、「いいから、いいから」と照れくさそうに笑っているだけだった。そんなドクターなのに、若い男性の手料理のご相伴には預かっているのだ。また、そのいい年をした男であるドクターに手料理をご馳走しているのが、若い男性のクリストフである。2人してもくもくと食べていることもあって、なんとも言いようがない奇妙な珍景だった。ここまで世話を焼くのはクリストフぐらいだろう。
不幸にも、手がかかって頼りにならない私、『姉』を持ってしまった、世話好きで困った人を見放しておけない『弟』クリストフ。ある日、私がいつものように買い物に行こうと自転車を止めている駐車場にある電柱の所に行くと、極太チェーンのついた南京錠で頑丈に縛り付けていたはずの自転車が、鍵ごと消えてなくなっていた。
「あぁ、どうしよう…。盗まれた…。」
自転車は、3ヶ月ほど前までノッティンガム大学にて研究をされていたシマ教授が、私にと置いていってくださったもので、買い物に行くのに使ったり、大学の隣にある広大な公園、ウォラトン・パークの中をサイクリングしたりととても重宝していた。せっかくの教授がご厚意でくださったものをたった3ヶ月にして失ってしてしまった自分の情けなさと、『あれだけ頑丈にして止めていれば大丈夫』とたかをくくっていた、その自転車が盗まれたショックで呆然となった。脳裏には悲しみ、憎しみ、情けなさといった感情が入り交じり、フラフラとブロック6に向かって歩いていた。
「どうしたんだ、純子。何があったんだ?」
うつむいて歩いていた私の前方から声を掛けてきたのは、クリストフだった。訳をすべて彼に話した。
「買い物の事は心配しなくていい。ちょうど、『今から買い物に行ってもいいな』って思ってたんだ。買おうと思ってたもの全部書き出してくれたら、純子の買い物もしてきてあげるよ。」
彼の優しい言葉に、目頭がジーンと熱くなった。スーパーまで片道歩いて45分。しかも、ノッティンガムという土地は平地でなく上り下りの坂になっているので、『一週間に何度も買い物に行くのは大変だから』と、必然的に一回の買い物量が多くなりがちだった。誰もがきっと、『かわいそうに…』と同情はできても、『自分の買い物量を減らして、買い物をしてあげよう』という気持ちにはなれないのが本心だろう。私は買い物こそ彼に頼まなかったものの、本当にいい『弟』を持った幸せを感じずにはいられなかった。
「映画に行こう」というクリストフに賛成したのは、暇な私と比較的存在感の薄いドクターだけで、後の2人、マハデオとジョーはそれぞれ論文提出で忙してそれどころではなかった。映画館についた3人は、『父』であるドクターが、『子供たち』の映画代を出してくれるというので、『子供たち』はそれぞれ、『父』のためにポップコーンと飲み物を買うことにした。
「コーラでいい?」
売店の飲み物コーナーのカウンターの前に並んでいるクリストフが私に聞いてきたのは、てっきりドクターが飲みたい物のことだとばかり思った私はドクターに確認し、代わりに返事をした。
「コーラでいい!」
今度はクリストフはドクターに呼びかけていた。
「ドクターは?」
ポップコーンを買おうと別のカウンターに並んでいた私は、『おかしいなー。ドクターの飲み物はもう伝えたんだけど。』、そう思い、今度は私が飲みたいものを頼んだ。
「アップルジュース、買って!」
塩味と甘いのと2種類から選べるというポップコーンは、私自身ほとんど食べないので2人で分けてもらうつもりで、2人に向かってどちらがいいか訊ねた。
「ドクター!クリストフ!塩味と甘いの、2種類あるんだけどどっちがいい?」
「塩味!甘いの!」
まさか、2人が2つ異なるものを、しかも同時に主張するとは思っておらず3人で大笑い。塩味を主張したドクターと、甘いのを主張したクリストフ。あちらをたてれば、こちらがたたず。それで、半々にしてもらうことにした。しかし、一番大きな袋を頼んだのにもかかわらず、小袋2つにはできないからと店員が勝手に、下層半分まで塩味を、上層に甘いものを入れてしまったのだ。入れてしまったらもう仕方がないと、2人仲良く手を突っ込んで食べてもらうことにした。
クリストフが買ったコーラとアップルジュースを見てビックリ。アップルジュースは普通のサイズなのに、コーラは特大サイズで2人分のストローが突き刺してあるではないか。
『やだクリストフ、私がコーラを飲むと勘違いしたのかしら…』
コーラを頼んだドクターにアップルジュースは渡せないし、なにより私はコーラが嫌いなのである。申し訳ないと思いながらもクリストフからアップルジュースを受け取った。
「クリストフ、実はコーラ頼んだのはドクターなのよ…。大丈夫、2人が一緒に飲んでも、全然おかしくないから。」
唖然としているクリストフの横には、困惑しているドクターが…。
スクリーンを前に、クリストフを中央に3人並んで座った私達。ドクターとクリストフ、さすがに『男同士、2人同時に仲良くコーラをチューチュー吸う』という訳にはいかないようで、タイミングを気にしながら飲みつつ、またポップコーンを分け合っていた。やはり時折、同時にストローで吸いそうになったり、ポップコーンに同時に手を入れそうになっては、慌てる2人であった。
『何も気にしなくていいのに・・・。『父』と『息子』なんだから、もう』なんて考えている私を2人は知る由もなく、映画を見つつもこうして動揺している2人を見るのは最高におかしかった。
インスタント家族の宿命、それは『別れ』である。まず最初に、『父』ドクター・バハティーヤが、そしてその数日後には、『兄』ジョーがそれぞれ国に帰ることとなり、2人のお別れ会を開くことになった。この時、私は心に決めた。
『よし。ここはみんなに『大阪名物』お好み焼きを味わってもらわないと。』
それには少し困ったことがあった。参加者が私を入れて5人ともなると、最低でもお好み焼き5枚は焼かないといけない計算となる。がしかし、私はそんなにも焼いたことがないどころか、一枚も自分で焼いたことがなかった。なので、『お好み焼き以外にも料理を作って、出そう』なんていう心の余裕はなかった。
『せめて、おそばが手に入ったら、モダン焼きができるから、ちょっとは豪華になったのに…。』
クリストフが主催した3コース料理のお別れ会と違い、私が主催のお別れ会は、ミックス焼き(ドクターとマハデオは豚が食べられないので、シーフード焼き)だけとなんとも貧素なものになるはずだった。しかし、『ラム酒がたっぷり残っているから』とクリストフが再びバナナ・フランベをデザートとして作ってくれることになった。お好み焼きにバナナ・フランベ。なんとも言えない奇妙な組み合わせではあるが、ここはイギリス。『もう、何でもアリよ!』と、とにかく1品増えたことで、少しはパーティー料理らしくなりひと安心。あとは大阪の人間ならどの家庭でも受け継がれているに違いない、それぞれの『我が家秘伝のお好み焼き』作りに専念するだけである。しかし、だしを取る昆布がない、山芋がない、竹輪が手に入らない、天かすを用意してなかったという4つもの欠陥があるだけでなく、キャベツがソフトボールにでもできそうなくらいカチカチで、『ひよっとしてイギリスのは芯ばかりなのか?!』という最大の問題を抱え、『我が家の秘伝のお好み焼き』どころか、『夜店のお好み焼き』ぐらいの味がだせるかどうかすら危ぶまれた。とにかくキャベツがしんなりしないとお好み焼きにはならないので、出来る限り薄くスライスし、だしは仕方なく、かつお節だけでとることにした。「お別れディナーを作るからねー。」なんて公言しながら、キッチンではうずたかく積まれたキャベツの山を前にしながら、ただひたすらキャベツをスライスし続けている私。誰もが、『一体、純子は今からどんな料理を作ろうっていうんだ?!』という一種不安な表情は隠せないようだった。お好み焼きに適したフライパンが1枚しかなかったので、まず、シーフード焼きを作ってマハデオとドクターで分けてもらい、その次はミックス焼きで、ジョーとクリストフというふうにしていた。3枚目となるシーフード焼きを焼いている時のことだった。
「純子、君は作るばかりで食べてないじゃないか。僕たちは後でいいから、それは君が食べなさい。」
そうジョーが言うと、ほかのみんなも同じように言ってくれた。
「お好み焼きはね、一度座って食べだすともう次に焼くのが面倒になるのよ。だから、気力で一気に焼かないといけないのよ。」
実家にいた頃、母が焼いてくれるお好み焼きを食べるばかりで、自分で焼いたことがない私。3枚目を焼いている時点で疲れかけていたので、これを食べてしまうと4枚目を焼くのが面倒になるのは目に見えていた。お好み焼きソースと共に付けたマヨネーズには不評・好評はあるものの、お好み焼きという食べ物は大好評だった。そして、なんとか6枚程度を焼きあげた。私は、『生焼けだったらどうしよう・・・。うまくひっくりかえらなかったらどうしよう・・・。』という緊張感からもようやく開放され、その反動からか、その日の晩はいつもよりも増して疲れがどっと出た。
ドクターとジョーが帰国の途について数週間も経つと、今度はマハデオが国に帰る時が来た。その数日後には、クリストフもブロック6を出て、大学の外にある個人宅を間借りすることになっていた。これで、ついに『家族』のみんながバラバラになるかと思うととても淋しかった。特に、『母』マハデオと『弟』クリストフは私にとって一番身近にいた2人である。クリストフからは、何度か「(彼が間借りする予定の個人宅には)まだ空き部屋があるし、ブロック6に住むより安くなるから一緒に引っ越さないか?」と誘われたものの、ブロック6での生活にも慣れ、また他の住人達との交流もあったので残ることにした。クリストフについては、引越し後もまだ1ヶ月程度、ノッティンガム大学での滞在が残っているので、引っ越ししてからも時々、研究室からの帰りに私の所に遊びに来ることを約束してくれた。この2人のお別れ会をどうするか悩んでいた私に、3人での最後の記念になるのではないかとクリストフがバーベキューを提案してくれ、私は彼のこの計画に大賛成した。
イギリスの夏は日も長く、夜は10時近くまで明るい。また、緑の多いノッティンガム大学のキャンパスにおいて、バーベキューができるようなところを探すまでもなかった。そんな中でも、特に見晴らしのいい高台のような広大な芝生の丘が、都市計画・建築学部の建物の裏にあり、都会育ちの私にとってお気に入りの場所で、そこでバーベキューをするのが私の憧れだった。以前からクリストフにはよくここでのパーベキュー計画を持ち掛けていたものの、なかなか実行には至っていなかった。遂に計画が実現するということで、彼らのためというより実は私が一番ワクワクしていた。バーベキューコンロは、幸い汚いながらもブロック7にあり、それをきれいに洗って使うことにした。バーベキュー経験が豊富だというクリストフ指導の下、食材の串差し等の下準備はキッチンで済ませ、マハデオ、クリストフ、私の3人ですべての材料を手分けして、私のお気に入りの場所にある木の下へ運んだ。
クリストフ流のバーベキューは、焼いている時に、塩と乾燥させた様々なハーブをふりかけるという、初めて体験する『プロバンス・スタイル』であった。実のところ、『たれ』で食べたかった私だったが、こちらのほうは『たれ』と違ってとてもあっさりしていて、ハーブのいい香りが、鶏肉や赤や黄色のピーマンをはじめとする素材を控えめに引き立てていた。塩加減もちょうどよく、更に緑豊かな環境も手伝って、とても美味しいものだった。『あぁ、イギリスで、ワインを味わいながら南フランス流バーベキュー・・・。』と感動に浸っていた私。ただひとつだけ、目の前で高く昇っていく、炭から出てくるけむたい白煙さえなければ…。この白煙のため、大学のセキュリティーが駆けつけてくるハメになったのである。念のために用意しておいた水を見せると、「火の元には気を付けるように」との注意を受けただけで済み、一同ひと安心。芝生に上に足を伸ばしたり、座ったりと思い思いの格好で、楽しかった思い出話に花を咲かせながらバーベキューを楽しんだ。終わる頃には日も暮れ始め、最後には消えかけた炭の小さな明かりがだけを残して、辺りは真っ暗に。こうして、再会を誓い合ったつかの間の『家族』との時間は終わったのだった。
ブロック6では、他にも様々な人達との出会いがあった。
「友人のところでパーティーをするから、1日だけ炊飯器を貸してほしい。」そう言われて炊飯器を貸してあげると、そのパーティーに持参するという手作りの中国料理の数々を、お皿にきれいに盛りつけ、『私の夕食まに間に合うように』届けてくれた、マレーシア人のエン。薬学部を卒業したばかりで、帰国するまでのほんの数週間だけの住人だった彼。また、エンと同じように滞在期間こそ短かったものの意気投合し、以降、良き友人となった薬学部2回生のマレーシア人、オードリー。サウジアラビアでは看護士として働き、ノッティンガム大学医学部で看護学の修士を修めるためにやって来たシャオキ。後から来るという心理療法士の奥さん、子供達、働き者だというフィリピン人のお手伝いさんを心待ちにしていた彼。特に親しい友人もいなかったようで、しばらくは私が彼の話し相手になった。彼からは、カレー風味の炊き込みごはんのお相伴に預かったこともあった。家族と始めて離れて暮らし、ここは文化の違う異国の地。毎日寂しげな彼を見かねた私は、『ホームシックになっている彼には、やっぱりアラビア語が喋れる人がいないと』と、私の部屋の向かいに住んでいたイギリス人のポールを紹介する妙案を思いついた。ポールは、『ノッティンガム大学の大学院の夏季コースを履修している』とはいうものの、昼夜の生活が逆で、2ヶ月程度の短い滞在にもかかわらず、部屋には大きなステレオ、テレビをはじめ、冷蔵庫から電子レンジにいたるまで持ち込み、共同キッチンへは一度も顔を見せたことがない一風変わったタイプだった。しかし、「大学を卒業した後数年間、サウジアラビアに現地支社をもつ日系企業で働いていたことがある。」と言い、アラビア語が喋れることを自慢していたので、2人を引き合わせることにした。2人がアラビア語で話している間、『まぁ、ポールの性格は良くわからないけど、身近に母国語で話せる友人ができたら、シャオキもちょっとは気が紛れるはず。』と人を救ったような幸福感に浸っていた。しかし、残念なことにお互い馬が合わなかったようで、これを機会に一緒に喋ったりするようなことは二度と見かけなかった。
『ポール作戦』が不発に終わってしまった私は、汚名を返上すべく再び『アラブ関係者探し』を再開することになった。別にシャオキから「アラビア語が喋れる人を探してくれ。」なんて頼まれたことは一度もなかったけれど、勝手の違うイギリスの大学病院でイギリス人看護婦達と一日中研修し、疲れて帰ってくるブロック6。誰とも喋らないよりは、私と喋ることで彼の気分が紛れるといっても、彼の巻き舌アラブ・イングリッシュと、私のジャパニーズ・イングリッシュでは、お互いの理解に多少の混乱が生じることも少なくなかった。彼が、少しでも母国語のアラビア語で話せたら…。母国語で喋る何気ない会話が、何よりも心を癒してくれることを私は自分の体験からわかっていた。しかし、いざ探すとなかなか見つからない。そんなある日、私は大学にはいないはずのアミンに出会った。
「たしか、夏休みはブラジル人の彼女とフロリダ旅行した後、ヨルダンに一時帰国するって行ってなかった?!」
彼は、大学院機械工学科博士課程在学中のヨルダン人で、レントン・ホールのチューターであると共に、CELEのインセッショナル・コースでたまたま同じコースを受けていたこともある、気心にしれた友達だった。聞くと、夏休みは帰国予定だったのが、研究の都合で帰国できなくなったという。これ幸いと、彼にシャオキの友達になってくれるように頼むと、冬に行われる『ノッティンガム大学アラブ・ソサエティー会長選挙』がもう彼の念頭にあるからか、二つ返事で請合ってくれた。ちなみに、レントン・ホールのワーデンであるフーカー元教授から聞いたというシマ教授によると、「彼は、ヨルダンからのVIP。」とのこと。しかし、知り合って長いアミン本人を前にして、「ねぇ、一体あなたってどういうVIPなの?」と聞くのも変で、また、もし万が一、彼が王族関係かなんかのVIPだった日には(それは、まずないと思うのだが…)、いまさら「アミン様!」なんて接し方を変えるのも、なんだかばかばかしい。『まぁ、時間があったら今度、匿名で彼個人のホームページ(なんと自分の写真付き!)にでもアクセスして、そこでどういう人なのか聞いてみよう。』程度に考えていた。『もしかしたらVIPとは知らぬが仏(!?)』で頼んだことがうまくいっただけでなく、ブロック6にも新しくエジプト人神経科医師のサマが入ってきたことで、アラビア語を喋る機会が増えたシャオキは見違えるほど生き生きしていた。嬉しい反面、私に色目を使ってくるサマと生活を共にしなければならなくなったのはまさに悪夢であった。
シャオキがほうが一件落着したと思ったら、今度は親友でタイ人のワナが、「(彼女の)卒論の文法チェックをしてくれるイギリス人を探して欲しい。」と私に助けを求めてきた。ノッティンガム大学の大学院法学部で国際法を学んでいる彼女の場合、ネイティブである英米人が彼女の専攻分野に精通していない限り、彼女が書いた内容を理解しながらの文法チェックは難しいようで、普通の小論文は親しくしているイギリス人クラスメートに頼んでいた。しかし、卒論ともなると話は別のようで、『長い・難しい・専門的』と3拍子揃った、しかもまた外国人によって書かれた卒論のチェックをしてあげようなんていう自愛に満ちたネイティブ・スピーカーはそうそういるものではなく、困り果てていた。
頼まれた私にしても、大学は夏休み中ということもあり、身近にいるイギリス人といったらシャオキとうまくいかなかったポールぐらいである。さすがに、彼には再び頼み事はしにくかった。『うーん、思い当たる人がいない…。ネイティブ・スピーカーだったら、別にイギリス人でなくてもいいんじゃ…。』イギリスだからイギリス人を考えていた私。突然、一人の顔が浮かんだ。『彼はアメリカ人、そうネイティブじゃないの!』。ブロック6から少し離れた、ブロック7に住んでいたアメリカ人整形外科医のデイヴィッドである。ノリヒロ君を訪ねてブロック7に行くこともよくあり、彼の部屋の向かいに住んでいたデイヴィッドも交え、3人でお喋りしたりすることも少なくなかった。彼はハーバード大学で物理の学位を修めた後、医学部に移り卒業したという立派な経歴を持ちながら、まったく気取ったところのない気さくな人だった。私が『頼める』ような『頼みの綱』は彼だけだったけれど、彼が『綱を持ってくれる』という自信は全くなかった。デイヴィッドとは一緒に住んでいるというわけでもなく、お互いに顔見知り程度の関係で、しかもまた頼むのは私の友達のことである。『まぁ、ダメでもともと。当たって砕けたらそれはそれで仕方がない。聞かなくて後悔するよりはよっぽどいい。』
「大学院法学部に在籍する留学生の卒論の文法チェック」と聞くと、困惑を隠せなかったデイヴィッド。しかし、タイからの留学生で他に引き受けてくれる人が見つからず、困り果てていることを説明すると快く引き受けてくれた。心優しい彼に一瞬、後光がさしているかのように見えた。『おお、ありがたや…』と思わずワナに代わって、私が彼に手を合わせたくなった。
ブロック7のキッチンでワナの卒論の文法チェックをしてもらえることになった。約束通り、彼は大学病院での研修が終わるとすぐに帰って来て簡単な夕食をとり、その後深夜までの時間をワナの卒論に割いてくれた。当然のことながら一晩では終わらず、次の日の晩、病院での手術に立会い、予想以上に時間がかかったことでワナをかなり長い間待たせたようだった。「ごめん、随分待たせてしまったね。」と息せき切って帰ってきた彼は、ネクタイだけ取るとすぐにワナの卒論に取り掛かってくれたようだった。「今日中に終わらせよう。」という3日目の晩、この日で完成させるため、結果として休憩なしの5時間ぶっ通しとなったという。デイヴィッドがとても熱心に卒論に取りかかってくれただけでなく、「兄も(自分と同じ)ハーバード大学を卒業して弁護士になっていて、兄が在学中、(ワナが卒論で取り上げた)海事法を勉強していたこともあり、ある程度(彼女の卒論の内容が)理解できる。」ことに、ワナは感激していた。
「純子、彼ってやっぱり秀才よ。だって、本当に良く知ってるんだもん。それに優しいし、素敵よねー。でも、どうして彼みたいな人に限って結婚しているのかしら。うーん、彼が独身だったらよかったのにー。それにしても、彼のような人に卒論チェックしてもらえたのは、純子のおかげ。本当にありがとう。」
ブロック6に住んでいなければ、隣のブロックに住むノリヒロ君を訪ねることもなく、デイヴィッドと知り合うこともなかったし、ワナを助けてあげることもできなかったに違いない。ブロック6という1つ屋根の下での生活は、たった3ヶ月程度という短い期間だったにもかかわらず、私に様々な機会、そして様々な国の人々との貴重な交流の場を与えてくれた。
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