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しのの部屋
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私のガーナ留学体験記や日々の研究内容を紹介します!!

はじめに
「山と山は出会わない。しかし、人は出会う。」−西アフリカのことわざ

私は2001年5月より10ヶ月ガーナに留学し、ガーナで多くのことを感じ、学ばせてもらった。ここでガーナの生活について述べながら、私がアフリカから学んだものを振り返ってみたい。

ガーナ共和国の概要

面積:238,537km2(日本の約3分の2)
人口: 1,875万人(世銀アトラス)
首都:アクラ 約184万人(EIUレポート:2000年)←(97年:100万人)
人種:アカン族、ガ族、エベ族、ダゴンバ族、マンプルシ族他
言語:英語(公用語)、チュイ語 その他約48言語(分類の仕方によって異なる)
宗教:キリスト教42.8%、イスラム教12%伝統的宗教38.2%政体:共和制、一院制(定200、内18人女性議員)
ガーナの経済 :為替レート1ドル=7,500セディ(2002年3月現在)
失業率:10%(ガーナ生活水準調査書)
*西アフリカ諸国のほぼ中央に位置する熱帯の国、ガーナ。様々な表情をみせる海岸線、広大なサバンナ、多様な動植物が生息する森林など豊かな自然に恵まれた国。金を産出することから、かつてはゴールドコースト(黄金海岸)と呼ばれ、また一時は奴隷貿易の拠点となったが、アフリカ独立運動の父といわれるンクルマを輩出。サハラ砂漠以南のアフリカ諸国で最も早く独立を達成したこの国は、度重なるクーデターを乗り越え、経済自由化路線に沿って着実な経済成長を実現、アフリカの優等生といわれたが、近年、通貨の下落、物価の高騰など新たな問題に直面し、外国からの債務帳消しなどが行われた。    

「アクワバ!(Welcome!)」
ガーナに着くとガーナ人はわたしを「アクワバ」と本当に心から迎えてくれた。そして、ガーナに慣れぬわたしにいつも「エティ・セン?(元気?)」とやさしく暖かく声をかけてくれた。
わたしが最初に驚いたことの一つにちょっと変わった握手がある。普通の握手のように手を握った後、少し向きを変えて2度握手をしなおし、最後にお互いの手で指を鳴らす。朝晩、友人に会うと必ずこの握手をする。普通の握手より接している時間が長いこの握手に、彼らのコミュニケーションを大事にする文化が表れている気がする。

曜日の名前
  ガーナでは、生まれた曜日によって名前が決まる。初代大統領のクワメ・ンクルマは土曜日生まれ、国連事務総長コフィ・アナンは金曜日。ちなみに、わたしは木曜日生まれの女の子でヤア。ガーナの道端でコフィと呼んでみたら、きっと2・3人は振り返る。

毎日のようなプロポーズ?!
ガーナ人(特にアシャンティ人)はよくしゃべる。日本人の「沈黙は金」とは違って、アシャンティの文化ではよくしゃべることが評価される。 また、ガーナ人男性の女性へのアプローチはうるさいほどで、初対面なのに「I LOVE YOU!」「結婚して!」ということもしばしば。「おいおいっ、早過ぎでしょ!」と思わずそんな言葉が口をつく。すると「愛に時間は関係ない」なんて言い返される。

ガーナの物価は?
ガーナ人のお給料はどれくらいだろう?ガーナ大学の教授のお給料は1ヶ月100ドルくらいだった。私の友人の給料は1日10,000セディ(約120円)。ガーナではトロトロというバスをよく使用するが、創価大学から八王子駅くらいの距離で700セディ(約12円)。

おいしいぞ、ガーナ食。
ガーナのスープはすごくおいしい。オクラスープ、野菜をすりつぶしてつくるライトスープはわたしの大好物だった。主食はヤム芋、キャッサバ芋、お米。パンもよく食べる。大体一食3000セディ〜5000セディ。パン一斤2000セディ。

時間の感覚
 ガーナ人の友人と待ち合わせをしても、友達はいつも遅れて来た。なんで遅れるのだろうと最初はいらだった。 しかし、彼らとつき合っていくうちに「彼らは時間を守らない」という一面的な捉え方をするのはよくないと思うようになった。  彼らは、確かに待ち合わせの時間に来ないことは多かったけれども、私たちが「時間がない」といって見捨ててしまうことを大切にする。例えば、どんなに急いで出かけようとしていても、知り合いが自分の家に会いに来てくれたら、決して追い返したりしない。その友人を家に入れ、水を飲ませ、彼/彼女が帰るまでもてなす。 「彼らは目の前にいる相手を大切にする」という捉え方もできるのだ。

女性はつよい
ガーナのマーケットは女性中心だ。力強いマーケットマミーたちが市場をしきっている。一夫多妻制度 も残っており、すべてにおいて女性が強いとは言えないけれど、ガーナの女性たちはしたたかに生きている。「第2夫人や第3夫人もいいじゃない?!」「私は第2夫人でもいい。その分、好きなことやらせてもらうわ。」なんて言う女性もいた。 また、女性は色とりどりの布地で服をつくり、着こなしている。髪型も多様だ。その姿はとても美しい。

そして、実際に社会における女性の力は大きい。ガーナを独立に導いたガーナ共和国初代大統領クワメ・ンクルマは自伝の中で独立闘争時を振り返り、次のように言っている。
「会議人民党の成功の多くは、婦人党員の努力によるものである。運動のごく初期から、婦人たちは重要な戸外のオルガナイザーになった。宣伝部員の任務をおびて、無数の町や村を歩きまわり、党の連帯と協同をもたらす多くの仕事をはたした。」

 ガーナの教育者アグレイはいっている。「男性の教育は、彼個人の教育に過ぎない。しかし、女性を教育すれば『国全体』を教育したことになる。」

 世界的に女性の力が認識されるようになった昨今。日本においてはまだまだ、女性の地位は低いといわざるを得ない。私たちは、この点でもアフリカから学ばねばなるまい。

ガーナの民族問題  ある日、友人と口論になった。その時彼からこんな言葉が返ってきた。――「僕がエウェだから?」 彼はガーナ主流のアシャンティではなく、エウェの人だった。確かに、エウェの人達は政治的・経済的に不利な立場にいる。しかし、彼からこんな言葉が返ってくるなんて思いもしなかった。私が思っていた以上に、エウェだということで彼は差別されているのかもしれない。この時、初めてガーナの民族問題を肌で感じた。

終わりに
10ヶ月の留学を終え、3月に無事帰国した。私はガーナで何を学んだのだろうか?
最近「握手、好きだね〜。」と友達に言われた。いつのまにか、私はガーナ人のように自分から握手をするようになっていたようだ。些細なことかもしれないが、私は変わったようだ。それは間違いなくガーナで学んだガーナ人の姿勢だった。
2002年、ワールドカップのためセネガルチームを受け入れることになっていた静岡県藤枝市のW杯担当課長が自殺した。それについて、2002年5月22日付の毎日新聞「余禄」で以下のように触れていた。「課長は『日本との感覚が違うので大変』と周囲にこぼしていたという。セネガル代表の到着が遅れたり、届くはずの民芸品が来なかったり、気をもむことが多く、気の毒に神経をすり減らしたようだ。…この場合はセネガル、カメルーン人の時間の感覚の違いが根底にあるようだ。」 また「異文化間の関係に軋轢が生じるのは、それぞれの文化が固有の時間の枠を持っているから」とのアメリカの人類学者エドワール・ホールの言葉を引用していた。 確かに、それぞれの文化は、個別の習慣や価値観をもっているようにみえる。
ガーナに留学中、挨拶にうんざりしたり、時間やお金に関する価値観の違いに苛苛することが何度もあった。しかし、わたしは常に彼らから何かを学ぼうという姿勢を忘れないよう努力した。その姿勢は彼らにも伝わったし、その中で多くのこと学び、気づかせてもらった。 ガーナでは、電話一本かけるのだって1時間かかる。日本では短時間で済むことに、ガーナでは思いのほか時間がかかったりするのだ。そんな社会環境下では、遅れるという連絡もできない。連絡なしに友人を訪れることだって当然になる。
また、ガーナに着いたばかりのころ、昼間から寝ている人達に対して、腹立たしい気持ちなったものだが、よくよく考えてみれば、あの炎天下で仕事をするのは効率が悪い。昼間から「デイエ」(よくお休み)といわれ、違和感があったものだが、実際に炎天下で歩きまわった後は、私自身も昼寝しないと体がもたなかった。 「時間の感覚の違い」や「文化の固有の時間枠」という捉え方も確かにある。しかし、それは「社会環境の違い」であり、それに付随して生じる習慣だとはいえないだろうか。
わたしは、ガーナに留学してコミュニケーションをとることの大切さ、そして、物事を多面的に捉えることを学ばせていただいた。わたしは、今、ガーナに心から感謝している。その気持ちを込めて、メダアッセ・ガーナ!!

「ガーナの女性史」 (2003年1月27日)

1975年の国際婦人年以降、女性会議で採択された行動計画が進められ、世界的問題としてアフリカ女性のエンパワーメントの必然性が認識されるに至った。そのような世界的な女性問題への取り組みが盛んになっていく中で、研究の面でも女性が注目されるようになった。1970年代に入ってアフリカ女性の労働が、解放や開発との関連で研究の対象として取り上げられ始めた。しかしながら、現在の社会の基層を作っている歴史的背景に関する研究はまだ始まったばかりであり、取り上げられる国にも限りが在る。

 ガーナ共和国は日本の開発援助の投資額も多く、我が国はガーナが「西アフリカの中心的な勢力の一つとして政治的に大きな発言力を有している」などの6点の理由を挙げて、ガーナを「我が国援助の重点国の一つ」として位置付けている。また、首都アクラは細菌学者として有名な野口英世の病没の地としても所縁が深い。そのようにアフリカの中でも日本と関係の深い国であり、ガーナの開発においてジェンダーを重視しているにも関わらず、日本においてガーナの女性の体系的な研究は行われていないと言っていい。そのため、本稿は総論ではあるが、ガーナの女性を歴史的に追いかける初めての研究としての意義があると思われる。

本稿の目的と課題

本稿の目的は、植民地期ガーナ(旧英領ゴールドコースト)の女性の社会的役割と地位の変化を明らかにすることである。本稿は拙いながらも、日本においてガーナの女性を歴史的に捕らえようとする初の試みであると思われる。日本での先行研究が非常に限られ、海外でもアフリカの女性史を論じるというは比較的新しい試みである。そのため、一つの問題を掘り下げ深く論じるというよりは総論となった。時代設定は広く、19世紀の初頭から20世紀の中旬までを時代を追ってみるという逐次的な方法で見ていくこととする。

第1の課題はガーナの母系社会の伝統的女性の役割を明らかにすること。第2の課題はヨーロッパとの接触による沿岸部の女性の社会役割の変容を明らかにすること。第3の課題はキリスト教と学校教育の女性に与えた影響を明らかにすること。第4の課題はマーケット・マミーといわれる行商を生業とする女性の活動と社会的役割を明らかにすることである。

時代区分的には、大きく4つに分けられると考える。先ず、ヨーロッパとの接触以前であり、つぎにヨーロッパとの接触とアフリカ内部での西アフリカ諸部族国家の動乱の時期である。そして本格的な植民地化の時期があり、最後に第2次大戦後の独立の気運高まる時期が来る。全くヨーロッパと接触のない時期の歴史資料は乏しく、これに関して、今はまだ論じられる段階ではないとも言えよう。しかしながら、本稿では植民地支配下の影響と変化を考察するため、ガーナ人のヨーロッパとの接触以前の社会規範やその中での女性像を考察する必要がある。人類学的な調査等の限られた文献からではあるが、今回中心的に論じるガーナ南部の伝統的女性の役割を明らかにしていく。

 まず、第1章においてアフリカの女性に関する先行研究の動向を全般的に確認し、アフリカの女性史の研究が始まったばかりであることを確認した。それ通し、ガーナの女性史研究の必要性が現れてくるのと同時に、アフリカ女性研究の全体的論点を明らかにした。

第2章においては、アシャンティを中心としたアカン語諸部族とその他の社会のガーナの伝統的女性の役割を考察した。イスラム影響を強く受けた北部地域とトーゴの主要な部族であるエウェ以外では、母系制のアカン系社会では女性の地位が比較的高かった。沿岸部のガ(Ga)の社会においては、基本的には父系制であるにも関わらず、アカンの影響を受けてか母系的な相続が行われていることもわかった。また、アシャンティ、ガともに女性が独立した財政をもつ傾向があり、女性による商業活動・農業活動も行われていたようである。王あるいは首長と同等の力をもった王母の存在で明らかなように、女性の権利もある程度認められていた。王母以外でも女性は男性と子どもへの経済的責任を共有していた。女性は家庭内の責任をいくらか持ってはいたが、その責任は男性とのパートナーシップの一部と考えられるのであって、女性の地位の低さや依存性を示すものではなかった。仕事の役割は補完的なものと見なされていた様である。エウェや北部のイスラム社会については残念ながら論ずることができなかった。 第3章においては、ヨーロッパ人の侵入によっていかにガーナの社会が変わり、それによって女性の状況がいかに変化したのかを考察した。地理的要因から西アフリカはアフリカ大陸の中でも比較的早くヨーロッパ人と接触した。沿岸部には奴隷貿易のため、いくつもの要塞がつくられた。その要塞からはじまり、キリスト教が沿岸部から内陸部へ道を拓いていった。15世紀にはポルトガルが、16世紀からはオランダが、17世紀からはフランス・イギリス・スウェーデン等18世紀からはイギリスが影響力を持った。その間、キリスト教的あるいは西洋的女性観と家族観が西アフリカに浸透し始めた。解放奴隷による布教活動の影響力も大きかった様である。

第4章では、19世紀後半から始まった保護領という名の植民地支配について考察した。そこで、王母たちの率いた抵抗運動が起こったことは見落としてはなるまい。その王母の反乱が最終的に1900年に敗北で終わった後、本格的な植民地支配が現ガーナ共和国全土に広がった。ここで注目すべきは教育制度である。西洋的女性観、「ヴィクトリアン・レディ」という淑女の観念がガーナに持ち込まれ、これが実際に植民地総督府という権威と学校教育という制度において流布されていったのである。

最後の第5章では、植民地期の経済活動の変化を中心に考察した。植民地を通し貨幣経済・賃金労働が浸透した。税金を支払うため現金収入を得るためにも彼らは自ら移動をしなければならなった。また、この時期のココア生産による農村の社会経済的変化により労働人口移動が起こった。そして、都市に人口が集中し始めた。しかし、フォーマルな仕事は男性のものという考えが広まってきたため、多くの女性たちは教育からも疎外され、賃金労働に就ける割合は少ない。その中で、女性たちは自ら職を見つけ働き、都市マーケットの顔とさえ言える程になったのである。

結論

ヨーロッパの進入から植民地政策期に教育、都市化、経済分野、そして、宣教と改宗のプロセスを通して社会のバランスを変えた。個々の女性は高い地位を勝ち得たにも関わらず、大部分において政治的には女性の地位は衰え退歩したかのように見える。なぜなら、新しい機会は最初に男性に与えられたからである。一般にアフリカでは、植民地主義と近代化がすでに女性の地位を低め自由を狭め、伝統的な分業概念は大きく変わった。ガーナでも同様のプロセスが見られた。女性が村に残されて、男性が事務員や労働者として植民地ネットワークに組み込まれたからである。有給の労働者である夫に比例して、妻は収入を失った。さらに男性は教育の機会を女性より与えられ、政策が男女間のギャップを拡大した。女性たちは教育や公の賃金労働では明らかに不平等を被った。しかしながら、ガーナにおいてはそのプロセスとは異なるマーケット・マミーのような都市部で自立した女性たちが現れたのである。そして、伝統的に自立していた女性たちは西洋主導で行われた社会変化を自ら変えていっている様にさえ見えるのである。

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2003年07月16日 14時32分09秒


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