真理,狂気,名声,そして愛
─映画「ビューティフル・マインド」に寄せて─
2002.5.
|
|
1.数学の「狂気」/数学者の「狂気」映画「ビューティフル・マインド」は「均衡理論」[脚注0]でノーベル経済学賞を受賞したジョン・ナッシュの 伝記的映画である.彼は,大学院時代に,「均衡理論」と呼ばれる 近代経済学の基礎を大きく塗り替える理論を打ち立てる.だが,彼の精神は同時に 虫食まれ,生涯にわたって彼を悩ませることになる精神分裂病を患う. 彼の研究室,森の小屋を妻が発見したときの様は,まさに一種の「狂気」を連想させずには いられない. だが,本来数学とはある種の狂気を内包したものだとも言える.それは,ひとつには「2つの意味 での正確さ(exactness)」であり,もう一つは「二重の他者」の構図と言えるだろう. "Mathematician's exactness"(「数学者の正確さへのこだわり」とでも訳せようか)は,時々 笑い話として話題に上るが,数学がひとつの体系である以上,最低限の論理的構成が必要であり, そこには,論理的な意味での正確さが必要とされよう[脚注1].この 論理があるからこそ,数学は,数学者を中心とした一定の人々の間でその成果を共有 することができ,同時に,過去から未来へとその成果を非常に高い正確さで伝えることが できる.いわば共時性と通時性を兼ね備えるための最低限の要請が,論理的正確さ(精密さ) であると言えるだろう.
しかし,ここで私が言う正確さ(exactness)には,もうひとつの意味がある.
それは,映画の中で,将来妻になる女性が多変量解析の問題が解けたと
いってナッシュのところへ持ってきた時の彼のセリフに端的に現れている.
曰く,
「有理関数では解けないよ.」
と.数学屋さんが物理屋さんのやっていることについて胸をはって議論しにくいのは, 物理屋さんの営みの持つ「不正確さ」によるものだと思う[脚注2]. それは例えば定義の不正確さでもある.だが,一端定義が明確になれば, 数学屋さんが,完全な形まで解ききってしまうことも起こる.(エルゴート仮説に 見られるようなエピソードさえある[脚注3].)いわば数学は, 数学的に見て,定義の明確なもの,正確なStatementができれば,極めて強い結果を 証明してしまうことがあるというわけである.先のナッシュの言葉に戻れば, 数学は「有理関数の範囲では解けない」ことを証明してしまう. 「解がない」あるいは「解がこれで尽きる」ことなどさえ,数学は証明してしまう. これは非常に恐ろしいが,同時に魅力的でもある.数学的に明確な問題に対して, 数学は非常に正確な解答・証明を示してくれることがあるというわけだ. 「有理関数では解けない」と言われれば,どう頑張っても解けないのだ. 「解がない」と言われれば,「解はない」のだ.その意味で, 極めて精度の高い構築物であると言えるだろう[脚注4]. 「100%正確な実験機具」などと言ってしまうのは誤解を与えるかもしれないが, しかし,数学的に明確な問題について,数学が言明したことは, 恐ろしい程の正確さを持っていることは間違いがない[脚注5]. 一方,そうした正確さを担保するためにも重要な役割を果たしているのが,「二重の他者」 という構図である.「二重」という意味は「内的他者」と「外的他者」という2つの他者 という意味である. 数学の場合に限らず学問においては常にそうかもしれないが,何らかの証明をするにせよ, 何らかのアイデアを生み出すにせよ,そうしたことをする場合には,自分の考察を常に 問い直す視点が必要である.誤魔化したり,幾ばくかでも理解できないことがあれば, 常にそこを問い直していかなければならない.自分のすることを常に問い直し,検証する 他者が不可欠なのである.これをここでは「内的他者」と呼ぶ.例えばある問題を証明 したりするときには,我々は常に一人である.もちろんちょっとした集まりで,様々な 刺激を受けて理解が大きく増進することがままあるが,それでも実際にアイデアを生み出したり 何かを理解するとき,われわれは一人である.しかし,それは,本当に一人なのではない. われわれは「内的他者」との対話を繰り返しながら,自らを不断に問い直しつつ前進 しているのであり,この対話を放棄することはできない.自分の理解できないところを 常に問い掛けてくる「内的他者」との共存なくしては,前進することができないのだ. 一方,そうした「内的他者」との対話を経て得られたアイデアなり証明は,さらなる検証に 付されなければならない.それは「外的他者」による検証である.同僚をはじめとする 他の人間の目で結果が徹底的に検討されるのである.ここで,自らの結果の誤りが 露呈し,結果を取り下げなければならないこともある. こうした二重の他者との対話を通過して始めて, 結果は数学という体系の一部として認められ, その正当性を得ることになる. このことは映画の中でナッシュの行動に現れている.彼が何らかの理論を作ろうとし, 窓にチョークで何かを書き付けるとき,彼は一人である.一人で内的他者との 対話を繰り返すしかない.そこには, ルームメイトの人格さえ踏み込むことはできないのである[脚注6]. しかし,同時にナッシュの求めるものは,人々からの賞賛であり評価である. これは,「外的他者」というものの存在に他ならない.人々の賞賛と評価を得る ことがひとつの正当性の根拠であり,名誉なのだ. ここでのべたような「二重の正確さ」と「二重の他者」とは,互いが互いを補い合いつつ, 数学(ないしは学問)のありようというものをある面では特徴づけていると言えるだろう. 「正確」だからこそ,「二重の他者」による検証が可能であり,逆に「二重の他者」による 検証が徹底しているからこそ,「正確」たりえるのだ.数学には,例えば,物理学とは違い 「実験」[脚注7]というような判断基準がない.また,例えば,工学 とは違い,実用性といったようなことが第一義的な目的として必ずしも必要というわけでも ない.こうしたところで頼れるのは,ひとつは数学的論理であり,同時にある種の美的感覚 なのかもしれない.いずれにせよ,「二重の正確さ」と「二重の他者」という性格が最も 強く現れるのが数学であると言えると思う. 数学に携わる個々の人間の中では,内的他者との対話が行われ,そして外的他者 との対話を通じて形成される「現われの空間」において,賞賛と評価を得ることが, 数学という営みを作り,同時にその人の存在そのものを保障してくれる [脚注8]. しかも,ここでの賞賛と評価は, 物理学における実験のようなものや工学における実用性のような観点ではなく, 論理的精緻さであり,数学的美しさであり,数学的魅力である.このことは, 数学という営みの外から見れば,ある種狂気めいた世界である. その正確さへのこだわり.そして数学的美しさ/魅力によって賞賛と評価が与えられる という意味で,数学的知見のない者にとって非常に敷居が高く,それゆえに 非常に閉鎖的なものだと思われる.そうしたものが,ある種の狂気さを 抱かせるのだろう. 2.内面の領域/精神の分裂数学あるいは数学者というものの内包したある種の「狂気」について述べた.しかし,私が まだ未熟故なのかもしれないが,私は,私のすべての時間を数学に費やすことはできない. たぶん,それは疲れてしまうのだと思う. 数学の世界は,「二重の正確さ」と「二重の他者」という性格によって,少なくとも 一面的には捉えられると書いてきた.しかし,これは,ある意味では,「狂気」と思える 程過酷な世界であることは間違いが無い.それはオリジナリティや先取権を争うこと だけにあるのではない.一時たりとも,内的にせよ外的にせよ他者との対話を 止めることは許されない.いわば常に「見られている」ことが,この営みの特質だと 言える.常に自らの議論が内的他者の検証に付され,また同時に,自らの 議論は「現われの空間」の中で,外的他者によって精査されるのである.この常に 「見られている」状態も,ある意味では「狂気」の状態と言えるだろう. そのような状態に常に身を置くことは,疲れる.正直私はそう思う. 一定の時間は,内面的な世界に浸って,ある程度刹那的な快楽におぼれたい. そうしていなければ身が持たないと,心底思うのである.
実は,佐藤幹夫の有名な言葉がある.曰く, 3.賞賛と名声と ─ある種の皮肉な結末─
ナッシュは,「均衡理論」によってノーベル経済学賞を受賞するのだが,彼が,ノーベル経済学
賞受賞の内示を受けた際,次のように言ったことが私には印象的だった.曰く,
「なぜ「均衡理論」なんだ?多様体の埋め込み理論などもあるが・・・・」
その問いに,相手は,「均衡理論」が社会のあらゆるところで用いられていることをあげている. そして,映画の中の印象的なシーン,喫茶室でナッシュの前にペンが次々と置かれていく,あの シーン.ナッシュが賞賛と評価を得たその瞬間.だが,それは,彼の「均衡理論」の素晴らしさ, ことに社会的有用性に対するものであったろう.ノーベル経済学賞を受賞したことが端的に それを示している. 数学における賞賛と評価は,少なくとも多くの数学の分野で,社会的有用性などということは 別の,いわば論理的精緻さと数学的美しさ/魅力によって行われている.ナッシュも, それを欲していたのだろう.この世界を支配する真理を見つけたいと,彼が内面の世界 [脚注9] で熱意を燃やしてきたのは,決して,社会的有用性による評価ではなかったと思う. 彼はあくまでも,数学の世界で生きていくことを望み,またそれ以外に有り得ないと 信じていたのだと思う.思えば,プリンストン大学大学院の数学科に入学したばかりの 映画冒頭のシーンで,学科長が,実学的視点を強調したことが, 思い起こされる.そして,彼の幻覚で現れたのは,暗号解読という 軍事技術に直結した手腕であった.彼がノーベル賞を受賞したのは, 「均衡理論」と呼ばれる近代経済学を塗り替え,社会に広く用いられることになった 理論であった.社会的有用性とは無縁の「真理の世界」に分け入ったはずの 彼の心の闇は,まさに社会的有用性の最も際たるものである軍事技術への転用 という幻覚に支配され,そして彼の最大の業績として賞賛と評価を浴びたのは, 「均衡理論」という「真理の世界」とはかけ離れた領域での仕事だったのである. これを私はある種の皮肉な結末だと思わざるをえない.
彼のノーベル賞受賞講演の最後の言葉.曰く,
「理は愛の中にあるのです.」
これは,映画のプロット上,一番涙を誘い,感動を呼ぶシーンである. 本当に受賞講演があの短い演説だけだったかどうか,それはわからない. だが,「真理」を捜し求め,「精神の分裂=数学と内面の分裂=狂気」に 迷い,そして行き着いたのは,「理は愛の中にある」という 言葉だったのである.それを噛み締めれば締めるほど, 涙を誘うことは言うまでもない. この映画から「考えるべきことは多いと思う」などと私が述べるのは不遜かもしれない. 小説にせよ映画にせよ,問題提起として何かを抽出するのは,個々人の偏見もあり, 軽々しくそうしたことをするのは慎むべきだし,また同時に,そうした野暮なことは, 映画を観終わったあとの爽快感を悪くしかねない.そういうことはよく理解した 上でなお,私は,野暮なことをしたい. すでに述べたことだが, 数学という実学とは全くかけ離れていると思われている学問に従事し, この世界を統べる真理を捜し求めたナッシュが, 精神の狂気を患い,そしてその狂気を共存する道を選び取り, そして「理は愛の中にあるのです」と述べたことは, 確かに感動的であろう.しかし,われわれは,数学という営みのあり方を 検討し,数学者と社会の関わり方について,考えるべきときだと私は思う. そのためのほんのわずかな枕を提供する映画として,「ビューティフル・ マインド」を語ることができたかどうか,それは読者の判断に委ねるしかない. |