初版は1966年というから30年以上も昔にもなる。その頃、今の線形代数学のカリキュラムがようやくも形作られ固定されてきたということなのだろう。とは言え、もはやこのレベルの教科書では、一般的な理系の学部一回生レベルの講義の教科書では、使うことが出来なくなってきているのかもしれない。内容も豊富だが、抽象的な議論も多く、説明が行間を読む必要がないほど易しく書かれているはずもない。その意味では、佐武一郎の『線形代数学』(裳華房)ほどではないにしろ、世に出ている線形代数学の教科書の中でもかなりレベルの高い部類に属すと言って良いであろう。
とりあえず、私が線形代数学を学んだのは、この書物であった。難しいと書いたが、それでもかなり配慮のなされた書物であると私は思う。実際、「平面および空間のベクトル」と題する第1章で、平面・空間・ベクトル・行列・線形変換(一次変換)・行列式・外積というような幾何的な概念を取り上げながら、線形代数へのIntroductionとしている。これは、高校から抽象代数学への接続としては、十分に意義のあることであろう。
線形代数学とは、いわば、高校までの「ベクトル」と「行列」という概念を再定義する試みであるとも言える。それが線形空間であり、線形写像である。私はブルバキを信奉しているわけではないけれども、線形代数学の方法としては、公理的に線形空間を導入し、その後で、多くの例を取り上げ、線形空間および線形写像の性質を考察していくスタイルで良いと思っている。特に理学部では。その意味では、「ベクトル」や「行列」はもちろん、あまり高校までの知識に固執すべきではないと思う。が、それでは初学者の理解を考えれば、妥協も必要だろう。とすれば、この書物に見られるような導入も益するところ大であると思う。
第2章「行列」および第3章「行列式」で行列論的線形代数学の内容を網羅的に述べている。第2章では、行列の定義と演算および正則性や線形写像とのつながりを論じたのち、基本変形と掃き出し法によって階数や連立一次方程式系の解法などを論じている。第3章では行列式に関する議論を一通り述べている。このように、行列論的な線形代数学を抽象的な線形空間や線形写像の定義よりも前に論じることも、理学部数学科向きではなく、理学部ないしは工学部生も対象にする汎用性を確保するためのひとつの策であろう。
第4章で、抽象的に線形空間が公理的に導入され、基底や次元の概念を中心に解説し、線形写像や線形変換の性質を述べている。考察する線形空間は、あらかじめ有限次元のものに限定している。第4章は、ページにするとp.92〜p.130と40ページあまりで、第2章と第3章がp.31〜p.90までとほぼ60ページにわたっていることに比べれば、紙数を少なく押さえている。これは、確かに第2章・第3章では、行列を書かなければならない分、紙数を食うこともあるであろうが、線形空間と線形写像について、かなり抽象的で行間を読むことを想定していると介すべきであろう。
後半の第5章および第6章で二次形式などの計量線形空間の性質やJordan標準形の理論を述べている。まず第5章で、固有値・固有ベクトルについて述べた後、第4章の最後4.6節で述べられていた計量線形空間における線形変換の議論を進める。正規変換や対称変換などの対角化やスペクトル分解定理などを述べ、二次形式の議論へと進む。二次曲面の分類にも紙数を割きつつ、直交変換と3次元空間の回転についても、オイラー角の図版を入れて論じている。続く第6章では、単因子論を用いたJordan標準形の議論を展開しており、これは、綺麗ではあるが、初学者には、なかなか難しい議論を必要とするという意味で、あとがきで筆者が述べているように、「弱点」とも言える。
この部分の構成に関して一言論評するのであれば、固有値・固有ベクトルの議論は、第4章に繰り込んで、第5章で計量のある線形空間、第6章でJordan標準形というように、区分を明確化した方が良かったのではないだろうか。あるいは第6章を先にもってきて、固有値・固有ベクトルはそこへ組み入れるという手もあろう。第5章では、計量には直接関係しない固有値、固有ベクトルの議論が、計量のある線形空間や線形変換の議論へとつながっているため、やや混乱するきらいがあるように思うからである。
第7章では、行列の解析的な取り扱いとして、行列値関数や行列の巾級数について論じるとともに、案外汎用性のあるペロン・フロベニウスの定理も証明している。これには、のちのち必要となる線形代数の応用でもあり、十分意義があることだと思う。とは言え、行列値関数や行列の巾級数については、問題で取り上げられている微分・差分方程式への応用も意識するのであれば、もう少し紙数を尽くすべきかもしれない。
最後に多項式・ユークリッド幾何学の公理・群および体の公理という3つの附録がついている。それほど紙数が多いわけではないが、あえてユークリッド幾何の公理を書く必要は、いまはもうないのではないか。
簡単に各章ごとのReviewをつけてみたが、全体274頁という薄さにも関わらず、様々なことを書いているという印象が強い。本当に網羅的な書物だというわけではないし、例は、随所で取り上げられているとはいえ、もう少し豊富にしてもよいという気がするが、それでも、線形代数学を学ぶための一書としては、薦めるに足る書物であることは言うまでもない。(東大出版会の書物には言えることだが、価格1854円というのはお買い得だとも言えるだろうし。)
●『線形代数演習』(斎藤正彦:東京大学出版会基礎数学:1985)