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平成6年オフ、西武ライオンズに異変が起きた。「常勝ライオンズ」を作りあげ、名将とよばれた森監督がリーグ優勝を果たしたにもかかわらず解任された。これは堤オーナーの意向であったといわれている。球団側は当時選手だった石毛氏に対し監督要請を行った。しかし、現役続行の意思が固く断念(石毛はFA権を行使してダイエーへ移籍)。そこで白羽の矢が経ったのが東尾修、その人だった。 コーチ経験がない東尾氏に監督業がつとまるのか?と誰もが思ったに違いない。少なくとも私は当時「常勝・西武ライオンズは死んだ」とファンを離れたという経緯を持つくらいに疑問に思った。 ただ、西武ライオンズには東尾監督の采配の善し悪し以前にもっと根本的な問題を抱えていた。それが「選手の世代交代」であった。レギュラーだった選手のほとんどはすでにベテラン勢であり、若手育成が急務だった。 多くの不安を残しながら平成7年、東尾ライオンズが始動。東尾ライオンズの1,2年目はともに3位。Aクラスをなんとか維持したもののやはりベテランレギュラー陣の解雇が進み、結果は思うようにでなかった。この時ライオンズは清原選手をもFAで失ってしまった。もはや西武ライオンズに昔のような強かった面影はない・・・かと思われた。 しかし、東尾ライオンズ3年目。東尾修がつくりだした「新生西武ライオンズ」がそのベールを脱ぐ。2年間の若手積極起用が幸いし、松井稼頭央・大友・高木大成・小関といった俊足好打の選手の育成に成功。清原の穴埋めには長距離砲とは言い難かった鈴木健を起用。助っ人ではマルティネスを獲得。クリーンナップ後の6番バッターにベテラン好打者の佐々木誠。キャッチャーは伊東捕手と中嶋選手を使い分けた。ここに「足」を使う攻撃野球が誕生。 打者の育成もさることながら、東尾監督が作り上げたものといえば「投手王国」であろう。西口や石井貴、豊田などの育成に成功。中継ぎ陣ではデニーが東尾監督によってその力を開花させた話が有名。他にも橋本、竹下などの戦力育成。ストッパー・森慎二も東尾監督によって生み出された。 東尾監督就任3年目、西武ライオンズは悲願の3年ぶりの優勝を成し遂げた。この優勝は東尾監督の若手選手の育成成功が生み出したものだった。 翌年も西武ライオンズは優勝を果たし、常勝・西武ライオンズが復活。誰もが3年連続優勝を疑わなかった。 東尾ライオンズ5年目、西武ライオンズは怪物「松坂大輔」を獲得。もはや優勝して当たり前という雰囲気が漂っていた。しかし、この年から突如「打線」の弱さが浮き彫りになる。このシーズンが始まる前、マルティネスを何故か解雇(原因は守備力の問題だったという。パ・リーグではDH制が採用されているので守備につかなくてもよかったはずが「日本シリーズで勝てない」という意味不明な理由での退団だった)。この解雇が西武ライオンズの打線を崩壊させた。マルティネスだけでなく高木大成の怪我、鈴木健の不振、ホームランがでない・・・。それでも投手陣が踏ん張りなんとか優勝戦線にとどまる。しかしそれが限界だった。この年、そしてその次の年もダイエーに優勝をさらわれた・・・。 2年連続優勝を逃したこの年のオフ、「東尾解任」の話題が球界に広まった。もはや東尾ライオンズもここまでかと思われた。しかし後任人事が進まなかったという理由も重なり、もう一年監督を続けることに。しかしこの時点ですでに監督は後一年しかやらないという堤オーナーとの確約があったという・・・ それが運命の7年目のシーズン、2001年、今年のペナントレースだった。助っ人で「カブレラ・マクレーン」両大砲を獲得。西武では念願だった長距離砲の獲得。これで優勝奪回できると思われた・・・。しかし、皮肉なことに今度は鉄壁だったはずの投手陣が前半戦崩壊。投打がかみ合わず、前半戦は勝率5割をいったりきたり・・・。後半に入り投手陣がどうにか立ち直り徐々に順位を上げていく。そして残り10試合となったところで首位に躍り出た。最後の年に奇跡の優勝が観られるはずだった・・・。・・・最終的には西武の大失速により近鉄に優勝をさらわれてしまった。 10月1日、東尾ライオンズがその幕を閉じた。監督勇退セレモニーは3万人の観衆が詰めかける中、行われた。入団当初から指導されてきた松坂投手は涙を流して別れを惜しみ、胴上げをされた東尾監督の目にもうっすらと光るものがあった。まさに「勇退」とよぶにふさわしい東尾監督の引退。堤オーナーも「少し休んでもらう」と発言。この言葉は再び東尾修が西武ライオンズのユニフォームを着ることを暗示しているものだろう。 若手を育成し、新たな常勝軍団を作り上げた功績はライオンズの歴史に深く刻まれた。改めて「ありがとう東尾監督」 |