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東アジア問題勉強会(北海道日中関係学会)2004年9月24日 1970年代の日本のアジア外交―緊張緩和を求めて 文責 若月 秀和(北海学園大学法学部) T はじめに―問題設定 全方位平和外交 =緊張緩和と多極化という1970年代の国際的潮流を踏まえて、従来の対米依存外交に終始する状態から脱却し、東西冷戦対立の枠組みを超えて、様々な国々と友好関係を結ぶことによって、より協調的な国際環境の形成を目指したもの。 1970年代初頭以来の日本外交の基本的趨勢を敷衍 全方位平和外交⇔1970年代の国際政治の現実(冷戦対立構造の変容・再編成) 考察の目的 …冷戦対立構造の変容・再編成のなかで、「全方位平和外交」の道を歩み始めた日本が、どのような形で協調的な国際環境の形成に向けて努力し、また挫折したのか、あるいはそれが転換期の国際政治に対していかなる影響を与えたのかについて、明らかにすること。 U デタント全盛時(佐藤政権末期〜田中政権・1971年〜1973年) 佐藤政権…日本外交の多角化に着手(多極外交・多面外交) @中国政府との接触を模索・Aグロムイコ外相招請(1972年1月) B北越への政府職員派遣(1972年2月) 米国…日本の独自路線に警戒感・ソ連…米中接近に対する危機感から対日接近 田中政権の成立(1972年7月)…台湾断交を決断し、対中正常化に邁進 田中首相―大平外相 …日中正常化は対米依存外交脱却の試金石。米中接近を背景に、日米安保条約と日中友好関係の二本立てで地域の平和を図るという認識。 日米首脳会談(1972年8月)…対中正常化が日米安保の障害にならないと確約 日中国交正常化交渉(1972年9月) …周恩来首相、日米安保条約を是認。 日中共同声明での反覇権条項明記=日ソ関係の重大な障害 ソ連、対日関係改善のシグナル…米中日ソ4国関係の中での孤立の回避 日本、日ソ関係打開の「好機」と見る…デタントの進展・自国の国力増大 ⇒1956年以来の日ソ首脳会談の実現へ←中国が警戒 日ソ首脳会談(1973年10月) …領土問題で真っ向から対立。関係発展の契機とならず。 *日中両国、ソ連に対する脅威認識を共有…日本、ソ連提案のアジア集団安保構想を警戒。 他方、日中正常化は、アジア諸国の対中正常化の動きを加速化。 米国と北越、和平協定調印(1973年1月) ⇒日本、北越承認(1973年9月)とASPAC(アジア太平洋協議会)への関わり方の再考を通じて、米中対立を前提とした従来のアジア政策の修正を模索。 V ベトナム戦争終結直後(三木政権期・1974年〜1976年) 日中平和友好条約交渉の開始(1974年11月)…覇権問題が浮上 三木政権の成立(1974年12月) …日台・日韓関係の修復を最優先課題に←南ベトナム崩壊(1975年4月)により動き加速化 日中・日ソ両関係の均衡のとれた発展を志向 日中条約交渉、反覇権条項の表記の可否をめぐって難航←ソ連からの牽制本格化 日中外相会談(1975年9月)…宮沢四原則の提示。中国の反発により、交渉は休眠状態へ。 日ソ平和条約交渉の停滞←ソ連の対日政策の硬直化 日ソ外相会談(1976年1月) …ソ連、反覇権条項に強い警戒感←新太平洋ドクトリンの発表(1975年12月) 米国、米中日三国の相互関係をアジアにおけるソ連の野心への暗黙の抑制と位置づけ始める。 ベトナム戦争終結に伴うインドシナ社会主義化は、朝鮮半島での緊張を高める。 三木政権の対応…韓国条項を再確認。有事の際の日米間の防衛協力に関する検討開始。 一方、米国主導の冷戦対立枠組みが破綻した東南アジアに対しては、米国の政策と一定の距離。 外務省事務当局による東南アジア政策の再検討…東南アジア諸国における民族主義の高揚に着目 北越(1976年に統一)との関係確立を優先⇒135億円の無償援助供与(1975年〜1976年) 地域政策の軸にASEAN(東南アジア諸国連合)を位置づけ、それとの結びつきを強化 ←第1回ASEAN首脳会議の開催(1976年2月) *1976年の時点までに、福田ドクトリンの基本的骨格が形成される。 W デタント後退期(福田政権・1977年〜1978年) 福田政権の成立(1976年12月)⇒第2回ASEAN首脳会議への出席要請 ←カーター新政権の在韓米軍撤退計画に対する不安 福田首相 …日米関係を外交の基軸に置き、かつASEAN諸国や韓国、台湾といった自由主義陣営諸国におけるサイゴン陥落以来の心理的動揺を抑えることを重視。 モンデール副大統領訪日(1977年1月)・日米首脳会談(1977年3月) …在韓米軍撤退問題への慎重な対応や、対ASEAN支持の明確化、アジア太平洋地域における米国のプレゼンスの維持の確約、などを米国に要請。 一方で、日米両国が越との関係を保持することで合意←中ソ両国への緩衝国としての越 福田首相の東南アジア歴訪(1977年8月) …ASEAN側、対越経済援助について懸念表明するも、日本の経済協力拡充策を歓迎し、福田ドクトリンを評価=東南アジアにおける日本の役割を認める。 一方、前政権と同様、日中・日ソ両関係の均衡を重視 ⇒首相就任当初、ミグ25事件や漁業問題で急速に冷却化した日ソ関係の調整・修復を最優先。 ケ小平の再々復活(1977年7月) …日中条約締結と米中国交正常化の実現を決断⇒福田に条約締結の決断を迫る。 福田政権、対ソ関係の状況いかんに関わらず、日中条約締結に動く方針に転換。 ←覇権問題に関する中国の姿勢が柔軟に ソ連、新任の園田外相を急遽モスクワに招請(1978年1月)…善隣協力条約締結を要請。 福田政権、中国との予備交渉を進め、自民党内調整に着手(1978年3月)⇒調整難航 日米首脳会談・ブレジンスキー大統領補佐官の訪中・訪日(1978年5月) …米国が、日中条約の早期締結を支持するとともに、米中正常化の実現に動くことが判明。 ⇒党内調整完了(5月下旬)⇒条約交渉再開(7月下旬)⇒条約調印(8月12日) 中国…越を牽制するとともに、対外開放とリソース導入に歩みだす必要性。 ソ連…「日中条約締結=米中日三国による反ソ同盟の形成」という疑念。 福田、水面下で対ソ関係の打開を試みる…松前重義東海大総長をソ連に2回派遣 国家間基本原則の締結と長期経済協力協定の締結、両国首脳の相互訪問という構想固まる。 =「米中対ソ」を軸とする分極化の趨勢を修正する可能性 1977年末以来、越とカンボジアとの対立激化⇒翌1978年には中越関係の悪化も表面化 日越間で債権債務継承に関する交渉が決着(1978年4月)⇒対越援助の本格化 越外務次官訪日(1978年7月) …前月コメコン入りした越に、140億円の経済援助を梃子に、自主独立の外交路線の維持を求める。 以後、日本、米越国交正常化への側面援助 日本政府、福田ドクトリンあるいは全方位平和外交の実現に自信 ケ小平、8月の日中条約交渉で、越のソ連衛星国化を指摘 ソ越友好協力条約の締結(1978年11月) ⇒日本、越の衛星国化を認めず、対越援助続行方針を変えず。 越外相訪日(1978年12月)…1979年度分140億円の供与を約束 越外相離日直後、越軍、カンボジアに侵攻 X 新冷戦期(大平政権期・1979年〜1980年) 第三次インドシナ紛争の勃発(1978年12月)⇒中越紛争(1979年2〜3月) 日本、対越援助供与の一時見合わせるも、見合わせ解除の時期を探る。 中越いずれにも加担しない姿勢を示す⇒難民問題への対処・カンボジア中立政権構想 しかし、実質的には中国よりの立場にあった。 …対中資金協力の検討(インドシナ情勢に関わりなく、日中関係の安定を最優先) タイ向け円借款の増額・ポル・ポト政権の国連代表権承認でASEANと共同歩調。 紛争勃発に際して、日米両国間で密接な協議 日米首脳会談(1979年5月) …大平首相、日本が「米国の同盟国」として、東南アジアにおける政治的役割の追求することや、極東ソ連軍の増強を念頭に日本の防衛努力の強化を約束(「日本は不沈の航空母艦」)。 日米両国が共同歩調で中国との関係発展を進め、その近代化の支援を行うことを確認。 対越援助再開の目途立たず←難民問題・ASEAN諸国の懸念・米国からのブレーキ 大平政権の慎重な対ソ政策←全方位平和外交をあえて標榜せず …関係修復で日本側からイニシアティブをとらず、ソ連からの歩み寄りを待つ 日中条約締結後、ソ連脅威論の高まりにも関わらず、日ソ関係は実務関係で概して円滑に推移。 しかし、色丹島でのソ連軍配備が明るみに(1979年9月)⇒日ソ関係改善の兆候を阻害 他方、首相訪中に伴って、中国への円借款供与が決断される。 …政治・経済両面における中国の安定が、国際政治全般の安定と日本の安全をもたらすとの判断 =「西側の一員」としての日本の政治的意図 *対中円借款供与と各国の反応⇒訪中時の「大平対中三原則」の発表 大平首相訪中(1979年12月) …大平、国際紛争の平和的解決を要請する半面、中国側の対ソ認識に同調。 ソ連軍によるアフガニスタン侵攻(1979年12月末) ⇒大平政権は、「西側の一員」としての立場、すなわち、反ソ・反越の立場を一層鮮明にする。 米国の意向に忠実に従う形で、対ソ制裁措置を発動(人事交流停止・信用供与停止など)。 対越援助の正式停止=間接的な対ソ制裁←米国・ASEANとの関係悪化回避のため 「紛争周辺国」向けの援助大幅増額⇒福田ドクトリンの棚上げ 日米首脳会談(1980年5月)…中期防衛見積りの前倒し実施の検討を約束 華国鋒首相訪日(1980年5月)…両首脳、対ソ脅威やインドシナ情勢で認識一致。 米中日三国の対ソ協商関係が成立=日本、米中両国の対ソ戦略に組み込まれる。 Y 総括 中国やASEANとの関係発展 …中国をソ連圏から切り離し、東南アジアにおけるドミノ現象が発生する可能性を減じさせた意味で、日本の安全保障にとり大きなプラス。1980年代以降のこれらの国々の経済発展に貢献。 越を長期的には西側陣営に取り込むと同時に、ソ連との間に適正な関係を築くことに失敗 =日本外交の真の力量を試すもの 日本は、米中「旧冷戦」の解体の加速化に貢献したが、米ソ「新冷戦」の現出を防止することには失敗し、自らをこの対立状況の矢面に立たせることになった。 日本政府が日米同盟関係の重要性を前面に打ち出した1980年代以降、対米協調の枠組みに過度に依拠するあまりに、国際社会の抱える諸問題について自ら情報を収集し、自ら思考 |