2001年度 県生研 基調報告

テーマ:平和的な生き方にひらかれた自治と学びを保障する集団づくり

1章 総論 平和的な生き方にひらかれた自治と学びの創造を

1節 全国的な教育情勢と私たちの課題

1.市場原理至上主義の(新自由主義)のもたらす社会矛盾

 村上龍の「希望の国のエクソダス」(文藝春秋)の中では、バブル崩壊後の日本の経済状況とそれに適応できない学校システムの機能不全の中で、学校に対する「希望」を失った中学生たちが半数以上不登校状態になっていく状況が描かれている。この小説はもちろんフィクションであるが、そこで描かれている社会状況は、まさしく今日の日本社会の状況、すなわち、市場原理市場主義の中で一部のエリート層が莫大な富を獲得していく一方で、富の偏在化が一層進行していく状況そのものでもある。
 新自由主義が世界中を覆い、「利益を上げるためには何をしてもいい。しかし、その結果に対しては自分自身で責任をとること」という価値観が国際社会の中に浸透している。そのような国際的な状況は貧富の格差を急激に拡大させており、日本における「一億総中流意識」の完全な崩壊をもたらした。
 また、今日、雇用形態を多様化(e.g.@長期蓄積能力活用型グループ、A高度専門能力活用型グループ、B雇用柔軟型グループ)させる労働政策が進行していく中で、子どもたちも含めた国民全体が激しいサバイバルゲームにさらされる状況が進行している。このようにして、多くの人々の生活基盤の劣悪化が進行していく中で、親自身が自分の生活に精一杯の状況に追い込まれ、子育ての責任(responsibility)、すなわち、「応答能力」をうばわれた状況に追い込まれてきている。
 その結果子どもを持つ家族も、多くは「競争原理への過剰適応タイプ」(将来、@のグループに我が子を所属させるための戦い)と「家庭崩壊、養育放棄タイプ」に二極化していく傾向にあり、子どもの家庭での学習時間も大きく二極化していく傾向にあることが指摘させている。
 今日の子どもたちの「学ぶ意欲」の阻害や学習時間の減少という問題も、多くの階層の子どもたちにとっては学ぶことが「将来の見通し」につながらず、刹那的な生き方に流されていることを指し示している。
 今日の社会は、「日本には何でもある。でも、希望だけがない。」という小説内での中学生の言葉に見られるように環境問題の深刻化、社会的不平等の一層の拡大に見られるような、社会そのものに対する希望が見えない状況、そして、大人も子どもたちも、自分自身の未来に「希望」が持てない状況が表裏一体になって進行していく状況にあり、これはグローバライぜーションの名のもとで、これまで非市場であった世界にまで市場原理が持ち込まれてきたことの必然的な結果でもある。
 ちなみに、この新自由主義の考え方が学校教育にも導入され、すでに前回の学習指導要領(1989年公布)において、「新しい学力観」が提起され、「激しい国家間競争に勝ち抜くために、社会の変化に主体的に対応できる意欲と能力」(=「自己教育力」をもった人材の養成)と^「世界の中の日本人としてのアイデンティティ」をもった人材の養成が強調されている。
 このような今日の社会状況と学校状況をふまえつつ、「希望のある社会」のヴィジョンをどう描き出していくのか、また、そのような社会の未来像と自己の未来像を重ね合わせながら、そのような社会の実現に向けての社会参加を行っていける地球市民としての意欲とスキルをはぐくんでいく学校教育、さらに言えば、「国家・社会の一員としての自覚を育む道徳教育」を乗り越えて、子どもたちが「平和的な国家および社会の形成」に参加していくことを通じて「人格を完成」させていく過程を創造していく普通教育をどのように創造していくのか(竹内常一)が今、問われているのである。

2.今日の教育改革の方向性(←公教育の、新自由主義的、新保守主義的再編)

 21世紀の文部科学省の教育「改革」では、「学校選択の自由」の名のもとで学校の統廃合をどんどん進められ、「大衆向けの安上がりの公教育」(そこでは社会的、生活的文脈から切り離された無味乾燥な基礎基本と道徳教育のみが行われる)と、富裕層の私立学校、および中高一貫の中等教育学校の導入に見られるようなエリート層の育成に教育システムが「複線化」される傾向を強めている。ここでは、文部科学省の教育改革の方向性を3つの観点から整理してみたい。

@新自由主義社会の中で国家のサバイバルに必要なエリートの養成
 現在、六年生中等学校、大学入学年齢制限の緩和、飛び級制度などの「縦の多様化」による、学校制度の事実上の「縦の複線化」に向けての施策が強く打ち出されている。これは「教育基本法」の「すべての子どもたちに能力に応じて等しく教育を受ける権利を保障する」という理念を放棄し、国際競争に打ち勝つために必要不可欠な5%のエリート層を選抜、養成していくためのシステムを経済的に効率よく作り上げることを目指したものである。そのために、「習熟度別学級」の導入(年齢主義の放棄)による「組」の解体、「課程主義」を導入することを通じて、「縦の複線化」を子どもたちに「自主的に」選択させていくシステムづくりが目指されているのである。

A自分の市場か価値を高めることと、「世界の中の日本人としての自覚」を育むことの統一
 新自由主義社会の中では、国家という枠組みの持つ意味は大幅に低下し、国家に対する忠誠心を個人に維持させることは極めて困難にならざるを得ない。なぜなら、各個人は、今日の海外での活躍するスポーツ選手のように、自己の商品価値を最も高く評価してくれる市場であれば、世界中のどの市場にも出かけ、自分を売り込んでいくからである。中田やイチローが背中に日の丸を背負ってプレイしているわけではないこと(純粋に自分個人のためにプレイしていること)にm、いずれ多くの国民が気づいていくであろう。
 ある意味では、「急激に変化する社会にたくましく適応していく意欲と能力を育てる教育」と、「国家に対する忠誠心を育てる教育」とは本質的なところでは相容れない要素を含んでいる。そのような矛盾をとりあえず解消するための政策として、今日、自己実現や「自分さがし」というような耳に心地よい言葉を使いつつ、実際には自己目標、自己評価のプロセスへの管理統制を行うことを通じて、国家や企業の目的の遂行に自分自身の「自分さがし」の課程を重ねさせていく政策がとられている。このことを通じて、企業や国家にとっての「価値」をもう人材の養成という課題と、「世界の中の日本人としてのアイデンティティ「」を注入するという道徳教育の課題の統一が試みられていると考えられる。
 教員に対しては、たとえば、東京都の公立小学校の教師に対する自己目標の申告の強制に見られるように、キャリアディベラブメント、自己目標と自己点検評価の学校現場への広範な導入によって、自助努力で自らの市場価値を高めていく雨の研鑽を行わせる形での管理が行われており、これはすでに民間企業の中では広範囲に行われているものである。自分自身の価値は市場の中での価格として決定されるため、自分自身の価格を高めるための生涯学習が「自主的」な形をとりつつ強制されていくのである。
 子どもに対しては、それは国家的な課題(少子高齢化、環境問題、情報化社会の問題など)を「自主的」に学習する時間としての「総合的な学習の時間」の中に端的に現れている。
 もちろん、「国旗・国歌法の制定」による日の丸・君が代の学校への強制という旧態然とした手法も依然として存続しており、国旗・国歌が教師・子ども・保護者の国家に対する忠誠心を調べるための「踏み絵」として用いられる実態も存続している。

B「学校の市場化」による公教育の切り下げと市場原理の導入
 「学校選択の自由」の導入による通学区域の弾力化などの形をとりつつ公立学校の統廃合を進め、公教育予算の削減が図られている。「少人数授業」を口実として非常勤教員の大量雇用は、終身雇用が保障された教員を少なくして人件費の大幅な削減を図ると同時に、教員集団を階層化していくことによって分断的に管理していくための画期的な方法(!?)である。その意味では、学校現場の中にも、左記のあげた三つの雇用形態が持ち込まれてきていると考えられる。また、すでに1990年頃に提起されていた経団連の「合校論」に典型的に見られたような、最低限の読み書き計算などの基礎基本と道徳教育だけを公教育で行い、それ以外の部分は全て市場にゆだねていく施策が、「教育の自由化」の名のもとにますます具体化されようとしていることにも留意する必要があるであろう。

3.「総合的な学習の時間」をめぐる諸問題

 文部科学省は、「総合的な学習の時間」を「教科ではなく、教科以外の教育活動」として位置づけることによって、基礎的・基本的な内容から切り離し、活動主義・体験主義・道徳主義的なものにすると同時に、教科領域における「基礎的・基本的な内容」を脱文脈的で要素的なものとし、生活と教育、科学と生活との結合という教育理念に逆行する施策を意図的に行っている(竹内常一)。しかも、「総合的な学習の時間」は、道徳的実践やボランティア活動に直結させられている。すなわち、「総合的な学習の時間」において、その性格上、必然的に生じてくるはずの今日の社会的・歴史的状況については、科学的な分析も踏まえた「批判的な学び」を許さず、環境問題、少子高齢化問題などの差し迫った社会課題も「奉仕体験活動」に還元していく傾向が強く見られるのである。
 したがって、それは「特設道徳の時間」のような「教授型の道徳教育」を「学習型の道徳教育」に転換したものに過ぎないのである。すなわち、「総合的な学習の時間」での学習内容を国家的な課題とし、それらの課題の「自主的な学習の時間」として位置づけ、その観点から評価していくことによって、個人の「自分さがし」のプロセスを国家目標に実現に結びつけていくものとなっているのである。

4.真の意味での「グローバルエデュケーション」の実現をめざして

 今日のグローバルエデュケーションやIT革命は、一方では市場原理に世界中を巻き込み、貧富の格差の拡大や環境破壊を一層進行させるものになってきていることは事実であろう。
   ex.北京国際女性会議 1995「貧困な女性化」 
   ex.世界銀行の「構造調整」政策がさらに引き起こしていく発展途上国の社会矛盾
   ex.かつての時代には読み書きができないこと、現代では自分自身のコンピュータ端末を持って
      いないことが「貧困」を決定する時代になりつつあるという指摘  

 しかし、逆に、グローバルエデュケーションの進行がローカライゼーションを促進したことによって、国家の中でのマイノリティの立場に置かれてきた人々、「保障されるべき存在」という名のもとに抑圧されてきた人々が、国家内のマジョリティないしは権力者とは「異なる自分自身の意志と感情」を明確に「私メッセージ」として表現しつつ、独自のアイデンティティを主張することができるようになった時代でもある。
   ex.オーストラリアの先住民族、アボリジニの運動(cf.国際先住民年 1990年)
   ex.日本におけるアイヌ民族の「二風谷ダム」訴訟の勝利するもの

 そして、地域に固有の文化やアイデンティティの尊重の理念に基づいた内発的発展が対等・平等な関係を基盤とした世界的な連帯のネットワークへとつながっているのである。
   ex.北京国際女性会議での「人身売買」をめぐるグローバルネットワーク
   ex.先住民族の国際会議の意味するもの

 ユニセフやユネスコがめざしてきたグローバルエデュケーション(その理念は、“think globaly,act locally”という言葉で端的に表現されている)も、それぞれの地域の内発的発展と地球規模での連帯を同時に視野に入れたものでもあると考えられる。
 ユニセフ・ユネスコのグローバルエデュケーションを集大成したものの一つに、1989年に満場一致で採択された「子どもの権利条約」が存在している。竹内常一は、「ここには、1970年代前半からユネスコが中心になって進めてきた人権・平和・軍縮・開発・識字教育などのグローバルエデュケーションの成果が取り入れられている。」としている。
   cf.アメリカがユニセフ、ユネスコから脱退している理由と関連

 ★「子どもの権利条約」第29条 教育の目的
  1 締約国は児童の教育が次のことを目的とすることに同意する
  (a)子どもの人格、才能並びに精神的および身体的能力の可能な限り最大限の発達
  (b)人権、基本的自由および国際連合憲章に掲げられた諸原則に対する尊重の念の発展
  (c)子どもの親、子ども自身の文化的同一性、言語および価値、子どもの生活する国および
     出身国の国民的価値、自己の文明と異なる文明についての尊重の念の発展
  (d)理解、平和、寛容、両性の平等並びにあらゆる人々、種族的、国民的及び宗教的集団
     並びに先住民との間の友好の精神の下に、子どもが自由社会において責任ある生活を
     送ることができるように育成すること
  (e)自然環境についての尊重の念を発展させること(←「世代間の平等」)

 これは、国家という枠を越えた人類全体の視野に立った教育理念の集大成とも呼べるものであり、21世紀を生きる子どもたちにまさしく育んでいくべき人格的力量であろう。
 竹内常一は、「いま、学校に何が問われているか」の中で次のように述べていた。
 「人権は国際的な規模において、これまで近代社会の外部に疎外されてきた人々ー民族、労働者、女性、障害者、難民、無国籍者などに拡張されてきました。その延長上で、このたび『子どもの権利条約』が採択されたのです。さらに、そのまた延長線上において、1990年に『移民労働者とその家族に関する国際条約』が採択され、1993年には『先住民の権利条約』が制定されようとしているのです。」

 その意味では、「子どもの権利条約」は、子どもの側から、自らの人権が侵害されている状況から自らを解放することを通じて、新しい歴史時代を創造していくことを目指すものであり、その意味では、黒人の奴隷解放(1865)、あるいは各世界の民族の「植民地」からの独立(1960年代)などとともに、大きな歴史の流れの中で位置づけられるべきものである。言い換えれば、これらの人々がこれまで人権を専有してきた西側の中流階級以上の、男の大人に抗して、一般人権と「固有の権利」を主張してきたことを意味している。すなわち、これまで「もの」としてしか見なされなかった人々が、「異なる他者」として自己を主張し、これまでの「世界の見え方」を問いただし始めた。
  ex.「新大陸発見」という捉え方から、「先住民族」が祖先固有の土地とそれに根ざした民族的な
     アイデンティティを破壊されていった歴史としてとらえる力
  ex.女性が一般人権だけでなく、女性固有の権利を主張することによって、男性支配の世界のあ
     り方を問い直す。(←1995年「北京国際女性会議」)

 竹内常一は、ユネスコの提起も踏まえつつ、世界の現実に対するリアルな認識を基盤とした新しい歴史時代を創造していくための教育方法として、以下のような課題を指摘している。
 ○課題提起的、問題中心的な教育方法によって、権利意識を目覚めさせること。現実の中に埋没している自己を奪還すること。
   それと同時に、現実を突き放し、意識化すること。
 ○対話・討論による学習方法を通じて、様々な個人ならびに集団の権利の側から世界を読み開き、連帯して現実の世界に介入
   していく個人的・集団的力量を育てること。
 ○想像的で創造的な教育方法を通じて、現実の世界とは異なる、今ひとつの世界をつくりだしていくこと。現実の世界を読み開く
   だけではなく、生きるに値する「もう一つの世界」を現実の世界の上に描き出していくこと。

今日、自分自身に対する気づきや自己表現の力、また、他者とのコミュニケーションの能力を育てることからスタートしつつ、最終的には人権問題や地球規模での環境問題などの様々な人類史的な課題を子ども達と一緒に考え、その解決のあり方を探求していくための様々な参加型学習のための教材の開発が行われている。そのような参加型の学びの中でどこまで子ども達に学ぶことの意味づけと希望を創造していくことができるのか、今、実践的な検証が必要になってきている。
新自由主義に根ざした世界(生活の隅々までが市場化されていく社会)を避けられない前提として、その中で逞しく生き抜く子ども達の養成と効率的なエリート養成をめざしていくのか、それとも、それとは異なるもう一つの世界(「可能態としての世界」)を思い描きつつ、それぞれの地域の内発的発展と地球規模での社会的連帯を創造する参加型教育実践を創造していくのか。あるべき教育の未来像は、結局はあるべき社会の未来像との関連でしか問題にできないものである。
国連の議論の中で、人権についての理念そのものは一貫した発展の歴史を辿ってきたが、現実の世界の状況はあまりにもそれとは隔たっていて、容易には「未来への希望」を見出だせない状況であることは否定できない。(1980年代末の東西冷戦構造の終結は、ある面では、米ソの国家間対立の間隙をぬってユニセフやユネスコが進めようとしてきた世界戦略の実現を極めて困難にするものとして作用したと考えられる。)
しかし、学校教育の「希望」は、やはり「生きるに値するもう一つの世界」(「可能態としての世界」)を子どもたちと一緒に想像的に創造し続けること、そして、そのような「生きるに値するもう一つの世界」の構築に向けて、子ども達との社会的な共同参加を実現していくプロセスによってしか生み出し得ないものなのではないだろうか。
そのような「学びの創造」に向けての現状と課題を本集会の中でも議論していきたい。

2節 福岡県の学校教育をめぐる情勢と展望    

 4月2日北九州市市教委より「指導力不足教員に関する人事管理調査研究」(中間報告)が公開された。内容は、「教員の人事管理システムを構築し、教員の資質の向上を図る」ため、指導力不足教員を早期に発見し、判定の下に指導・研修を行うというもの。この答申を受け、4月12日市教委は、「指導力不足教員」に関する校長会の具申をもとに判定委員会を強行し、3人の教員に対して、1年間の「長期研修命令」を発令した。(福教組北九州支部「ほっきゅう」より)

 この報道は、いち早くマスコミからも流されることとなり、さまざまな波紋を職場に広げている。「校長の胸一つで解雇と言うケースも出てくる。」「校長に反対意見を出したりする者や、病気で休みがちな人が狙われるのでは。」「管理職の指導に従わなければ判定され、教育センターでの研修を経て免職になりかねない。」等々『指導力不足教員』という一部市民の声を口実にして教職員を管理し、市教委にとって都合のよい教育を進めようとしているのは明らかである。

 ○人事考課制度
  昨年4月から東京都に導入された。先に挙げた指導力不足教員対策は、人事考課制度が導入されるまでの経過措置として前倒し実施されたものである。「成績特昇が勤務抜擢によって実施される。評価を意識した言動が増える。校長の権限の強化がすすむ。」の問題をはらみながら県教委段階でも検討段階に入っているということである。

現在111校ある県立高校を統廃合して2005年には96校、2008年までには94校にする。新しい高校を作る。(中高一貫校を3校作る。総合学科高校を各地区1〜2校つくる。定時制単位制高校を北九州地区に1校つくる。全日制単位制高校を2校程度つくる。)学区を統合する。(2学区と3学区を統合する。11学区と12学区を統合する。)各学校ごとに入試問題を作成してもよい。     2000.7.18県立高校再編整備に関する計画

この高校再編計画が実施されると、これまで以上に子どもたちに大変な競争と負担を強いるものとなるであろう。

○遅れた福岡の高校教育
  ・中退率  全国1位               ・ 教員一人あたりの生徒数  全国2位
  ・生徒一人あたりの予算 全国38位     ・私学助成 全国36位
  福岡県の教育条件は非常に劣悪である。さらに非行少年の補導率も全国4位という困難な状況におかれている。

○歴史改ざん「教科書」の請願問題
  県議会をはじめ各地方議会で「新しい歴史教科書をつくる会」提出の教科書採択をもとめる請願が行われている。歴教協をはじめとする教科書問題を考える会は、史実をゆがめアジアの世論に挑戦するものとして採択反対の運動を進めている。その結果福岡市などでは、保守系議員の採決強行を許さず継続審議となっているところも出てきた。

○少人数授業
  現行指導要領廃止、30人学級署名の運動の広がりから文部省(現文部科学省)は予算措置はしないが、自治体が少人数学級にすることを容認。さらに今年度、少人数授業を推進していく施策を実施。現場では、能力別編成のさきがけにならぬようにと危惧しながら実践している。学級の解体よりTT授業のほうが教えやすいなど小手先の処方箋でなく、真に少人数学級を求める声が多数である。

○学級編成基準日の改善
  今まで始業式の日、入学式の日に在籍数を確定し、当日2クラスから3クラスへまた3クラスから2クラスになってバタバタしていたクラス編成が、今年度からそれぞれ前日が基準日となり、その日に右往左往することはなった。同時に自治体独自で学級減に予算措置をして、そのまま学級数を維持することも行われるようになってきた。

○授業料補助2年間で8000万円増

○北九州市で教室暖房実施
  昨年度1月から父母市民・子ども・教職員の念願だった教室暖房が始まった。灯油量の制限、校長の恣意的な運用、基準の不明確など問題はあるが、とにかく実現し暫時改善されるという画期的な取り組みとなった。

  子どもの数の減少を理由にした高校再編計画をはじめとする教育委員会による政策は、今日の深刻な教育問題を考えた時、問題をいっそう悪化させることを危惧せざるを得ない。国連子どもの権利委員会は日本の子どもが「極度に競争的な教育制度によるストレスのため、発達のゆがみにさらされている。」と警告し是正を勧告している。子どもたち一人一人にゆきとどいた、ゆとりある教育こそ、今日の教育問題を解決する道となるのではないだろうか。「子どもの数が減少」しているなら、これを「ゆとりある教育」実現の絶好のチャンスと捉え、このような子ども犠牲の計画ではなく、遅れた教育条件の改善のためにこそ力を尽くすべきではないだろうかか。

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