(1)はじめに
本報告では、まず、個人と集団の問題状況の要因を分析することによって、現在の低学年の教育指導の課題を明らかにしていきたい。
(2)個人的問題状況の要因と教育指導の課題
@自分の要求が通らないと暴れたり壁に頭をぶつけたりするA君
問題状況
パニックと自傷行為を繰り返す。気に入らないことがあると教室から出ていき気持ちがおさまるまで戻ってこない。教師が側に寄り添わなければ学習しようとせず、寝そべったりすることもある。友達に対して自分の思い通りのことを強制しようとする。「死んでやる」と口にすることが多い。痛いことを「痛い」と言えずに怒りに変わってしまう。
要因
第一に父親(現在は離婚している)からの暴力である。父親自身が自らの行動をコントロールできずに我が子に包丁を突き付ける等必要以上の攻撃を加えたことで、Aは父親を「得体の知れない存在」として認識せざるを得なかっただろう。そして、離婚後母親が夜の仕事をはじめ十分なかかわりがもてなかったこと。世話に来てくれる祖母がAが暴れたりするとひもで縛りつけたりしたこと。これらのことでAは養育者との安定した関係を自我の中に取り込むことが困難になり、自我・社会性の発達過程で自制心の形成につまずいてしまい、「自己肯定感」が弱くなったといえる。そのことが自分の行動を制御できないことや「死んでやる」と口走ることにつながっていると考えられる。
また、母親がAの話をじっくりと聞く時間的、精神的なゆとりを持てずにいたことで、Aは文脈形成力につまずき、思いを表現できずに行動化してしまうことになったのではないかと言える。さらに、Aはゲームづけの毎日を送っていた。そのことが全身で遊びこむ機会や自然に参加する機会を乏しくし、中枢神経系の成熟そのものを困難にし、「興奮」と「抑制」のバランスがとれずにキレてしまう要因になったとも考えられる。
教育指導の課題
・道徳的に間違った行動は許さないが、それらが否定的な自分も受け止めてくれるのかというためしの行動であると考え、彼の存在自体を受容し、教師が「確かさをもった他者」になること。
・A自身の感情を言語化して返すこと。
・中枢神経系の成熟を促すような、身体接触を伴うような遊びの世界をつくること。
・冒険的ゲーム的な要素を取り入れた学習を仕組むこと。
・相手を怪我させない他者との身体的コミュニケーションの仕方の学習。
母親がボクシングを習わせ始めたのがとても有効だった。
・クラスの子ども達が、Aが教室を飛び出してもいずれ帰ってくると信頼し、そのよう
な行為も含めてそれがAなんだと認識できるようにすること。
・Aの困った行為から見える面白さや優しさ、楽しさなどを母親に伝え、笑い合うこと。
例えば、朝自習の時間に遊んでいてガラスを割ってしまったこと。自分が思い付いた卵パックスケートが楽しくてやめられず、勢いあまったのが原因。しかし、そこには遊びを考え出す独創性がある。そのことなどを共に笑い合う。
A 髪がはねているというだけで教室に入れないB君
問題状況
ボールが顔に当たっても挫けて自分の殻に閉じこもってしまう。また、発表も自ら手を挙げていても自信がなくなると全く動けなくなってしまう。図工など創造することが苦手で1時間中何もできないままのこともしばしばだった。「こうあらねばならない」という彼自身のこだわりのとても強い子。家ではテーブルの下にもぐりこんでしまうほどであるという。また、1年生の1学期の頃は友達と一緒に遊ぶことができなかった。
要因
両親ともに小学校の教師である。養育者の「いい子であるという条件つきの受容」によって「自己信頼感」が弱くなってしまったのではないか。そのため他者を信頼する力も弱くなり「髪がはねているとみんなに笑われる。」と感じてしまうのではないか。
教育指導の課題
・ごっこ遊びの世界の創造と具体物を媒介にしたコミュニケーションの創造
1年生の最初から授業に手人形を取り入れていた。そのためか子ども達は休み時間に手人形を使って遊ぶようになった。2年生になると手人形を使った人形劇をストーリーから自分達で作った。1年生の頃は手人形を使って遊ぶ様子を遠巻きに見ていたBだったが、人形劇をした頃から手人形で遊ぶようになった。最初は手人形を通して教師に話し掛けたり、空き箱を手人形の帽子やお風呂にしている様子を教師に見せに来ていただけだったが、徐々に手人形を通して友達と遊べるようになってきた。そしてそれは手人形と空き箱を使ったお店屋さんごっこへと発展した。
このことから、ありのままの自分を表現することに不安と怖さを感じているBにとっては、手人形という具体物を媒介にして自分を表現していくことが他者とコミュニケーションをしていくための第一段階として重要だったのだと言える。
そして、人形劇やお店屋さんごっこという友達とイメージを共有できる活動が共感関係と連帯感を育み、それが不安を乗り越えて挑戦してみる(例えば、時間がかかっても友達に応援されながらなんとか発言できるようになる)力を強めていったのだと考える。少しずつだが「自己信頼感」が持てるようになってきたのではないか。
B 万引きや窃盗、靴隠し、落書きを繰り返すCちゃん
問題状況
教師に対して愛情をそそぐ。しかし、本人は絶対に認めないが靴隠しやトイレの中への落書き、人のものを取ることがよくあった。そして2年生の12月にスーパーでの万引きがわかる。両親から強く叱られるが、1月にまた万引きをする。この時は嘘に嘘を重ね、2人の友達に迷惑をかけて3家族での話し合いになったが、「つい言ってしまってごめんね。」と笑顔で軽く謝る程度であった。この件に関しても自分のしたことに対して時間や場所の関係が混乱してしまう。また、物に対して強いこだわりをもっており、「○○ちゃんの知ってるお店でソーダがただで飲めると聞いたから」と帰りに友達についていったこともある。自分に自身をあまり持てていない。しかし、文章表現力は高く、詩的な文章が書け、国語の心情の読み取りも優れている。
要因
母親と父親は30歳近く年が離れている。母親はよく学校・学級行事に参加し、励ましの手紙も多くくれる。母親自身は学級役員になることを考えてくれていたが父親から反対されできなかった。父親のCへの叩き方がかなり激しい。経済的に厳しいこともあってか、ほしいものも買ってもらえず、どこにも連れて行ってもらえないこともある。
このようなことから考えても、父親とC、父親と母親の間に虐待的な関係があると判断できる。父親の暴力等によって家族の秩序が崩壊し、Cのとらえる世界そのものが混乱状況にあるのではないか。その混乱状況が情緒的な問題を生み出し、万引き等の行動を引き起こすのであろう。そして自分がしたことに対する時間や場所の関係も混乱してしまうのだろう。また、不満を口にできない状況から考えても、不満が溜まったときなど自分の感情が処理できない場合、対処の仕方がわからずに靴隠し、落書きなどの行動に感情を置き換えてしまうのだと考えられる。さらに、父親の顔色をうかがってその場でどう答え、どうふるまえばよいのかを常に考えているため、その場しのぎの嘘が後先考えずに次々と出てくるのだろう。また、秩序そのものが崩壊している中では、「物」だけが裏切らない安心できる確実な存在であるため、物に対して強く執着するのであろう。
教育指導の課題
・不満は言ってもいいことを伝え、教師がその不満を受け止め、伝える媒介となること。
・母親自身が父親や子どもに対する不満を表出できるようにする。
・Cのわがままは一切聞き入れないというのではなく、両親に一定の約束をもとに少し
はわがままを聞き入れてもらうようにする。
毎月1冊だけ漫画の本を買ってあげるようになったら、家の中でとても明るくなり、
人が変わったようになったと母親が言っていた。
C 食べ物の好き嫌いの極端に激しいDちゃん
問題状況
彼女は高学年並みの学力や知識をもっているが、自分の感情を書き表すことは苦手。野菜は食べられないため、給食のほとんどを口せず、青汁だけは飲んでいる。そのため平熱が高く、すぐに光熱を出す。休み時間には「ストレス発散」といって教室内ではしゃぎまくる。授業中でも自分がおしゃべりをしたいと思うとなかなかやめない。
要因
Dの母親は生活能力よりも知識に重きを置いてDを育てたため、Dとの応答関係も大部分が知識の獲得に関することの中で作られたのではないか。そのゆえDは知識以外のことに対する応答能力が欠けてしまい、自分の感情が書き表せないという自己確認ができていない状況、他者のことを考えて行動できない状況になったのではないか。
教育指導の課題
・何に対してストレスを感じているのかを聞き取り、それを言葉にして返していく。
・母親の言葉(と思われる)で語るDに対して、D自身はどう思うのかを聞き取っていく。
(3)集団的問題状況の要因と教育指導の課題
@仲良しにこだわり、自由に人間関係をつくれない
問題状況
女の子達に特有であったが、課題別グループを作るときですら、課題よりも仲良しの人と一緒になることを優先する。課題が違うと同じグループになれないとわかると先に「これにしよう」と打ち合わせていることすらあった。
要因
兄弟数の著しい減少や異年齢集団内の交流の機会の乏しさなどによって「自己形成視」の力が十分に培われないまま就学を迎えてしまったことで、新しい世界に参加していくことに不安や葛藤をもつことが要因だと考えられる。そのため、新しい仲間集団に参加していくことに強い不安をもち、仲良しの友達が一人もいない集団になると一言も会話すらできないという状況になるのである。
教育指導の課題
・ストーリーを仲間集団で共有していく機会の保障
絵本の読み聞かせを多く取り入れたり、人形劇を子ども達同士で作ったり、演じたりすることで、新しい集団で感情を共有できる体験を多くさせる。また、共同作業や共同学習を取り入れ、他者と共同していくことの楽しさ、達成感を味わわせていく。さらに、手人形などの具体的な媒介物を通しての関わり合いを広めていく。
・身体接触を伴う集団遊びを多く取り入れ、他者と接触する不安感を取り除いていく。
・「ありがとう」「どういたしまして」や「こまったこと」を意識的に伝え合う場の保障
いいことみつけで「ありがとう」を伝え、言われた人は「どういたしまして」を返す。学習の中でも「ステキカード」「アドバイスカード」「こまったカード」をやりとりする。かかわることの楽しさを味わわせる。
・ 保護者自身が我が子が友達と本当にうまくやっているのかを心配しているため、子ど
も達の様子をできるだけ詳しく通信等で伝えていき、不安を取り除く。
A 大人への依存性の強さ
問題状況
小さなトラブルでも教師からの仲裁を求め続ける。
要因
早期教育を売り物にした課業中心の幼児教育を受けてきた子ども達にとっては、大人の評価の眼差しだけで自分の感情を統制することになるため、けんかがおきても大人の管理に頼りきってしまうのではないか。
教育指導の課題
・ お互いが納得のできる解決をする方法に視点をあて問題解決を行う。そして、お互いの要求を平等に充足するルールを作っていく力をつけていく。
本研究集会の中でも、様々な問題を表す子ども達の要因や課題を分析しつつ、生活指導のあり方に関する理論的、実践的な整理を行っていきたいと考えている。
今年の春、3回目の6年生を送り出しました。31日前から始まった卒業に向けてのカウントダウンカレンダーを毎日見ながら、幸いにも、「この子らとの日々もあと○日しかない。」という思いで過ごしたものです。私達の仲間はみな同じような思いで今年の春を迎えたのでしょうか。
『あと○日もある…』
『あと○日がまんすれば…』
悲痛な思いで卒業式の日を待った6年生担任も多くいたことでしょう。
もっと厳しい言い方をすれば、「悲壮感をもちつつ高学年担任となり、必死の実践により、ようやく卒業式を迎えることができた」という仲間もいました。
昨今の教育に関わる報道を見やると両極端です。一方では、様々な体験学習やボランティア活動などで子どもの姿が非常に「輝いている」という報道が、また一方では「不登校」・「いじめ」・「学級崩壊」の報道。二通りの学校が存在しているということでしょうか。いえ、そうではないことは、私達教師が知っています。どの学校・学年・学級であっても、このどちらの姿も存在しうると思います。
したがって、私達は子ども達の前に立ち実践を進めるにあたっては、一定の理論を持たねばなりません。そこに集まった子どもによって実践の成否が決まるのではなく、教師の実践そのものによってこそ実践の成否が決まるのだと考えるからです。
昨年度、小学校高学年の分科会基調で糸島の北口氏は、次の四点の課題を挙げています。
@子ども達の居場所をつくること
A子どもの発達課題を読み取ること
B子どもの主体性を尊重すること
C本当の世界を読み開く学びを展開すること
いずれの提起も重要なものであるので、本基調にあっては私なりの補足をしながら改めて実践にあたっての支柱を述べていきたいと思います。
(1)「学校規範への適応」ではなく「社会的自我の発達」という視点から、子どもの発達
課題を読み取ること。
高学年ともなると、自分の居場所は非常に重要な要素です。子どもは他者との関係の中に自分の位置を見出そうとするからです。教師や親から認められることよりも友達から認められることの方が大きな比重を占めてきます。「自分がどう見られているか、自分がどう思われているか」、ということが気になり、「友達から良く見られるには、良く思われるには」ということに心をくだく子どもたちがいます。その心くだきが、時に閉鎖的なグループ化として表われたり、時に他者との同調のあまり特定の子を排除したりという現象で表われてきます。
しかしながら、子どもたちを見るときすべての子がそうではありません。高学年といえども教師や親の価値観を絶対のものとして内側に取りこみ、その権威を背景として自らの居場所を作っている子(いわゆる「いい子」)もいます。また、教師であろうと子どもであろうと、他者の目を全く意識していないと思われる子(いわゆる「マイペースな子」)もいます。高学年期を迎えた子ども達が乗り越えるべき発達課題という視点から考える時、どの子らに指導の重点を置くべきでしょうか。
私達はややもすると「いい子」からの教師への支持をバックボーンとして、グループへの指導などをおこなってしまいます。このことは言いかえれば、「発達課題を乗り越えていない子」の力を借りて「今まさに発達課題を乗り越えようとしている子」への指導を試みている、とは言えないでしょうか。そうだとすれば、この指導は誤ったものであり、その結果として学級内対立を深め、「学級崩壊」を生じていることもありうるでしょう。
子どもの発達課題を読み取るにあたって、学校規範に照らし合わせてのみそれを見出そうとするならば、読み違いを起こしてしまいます。そしてこの読み違いは、管理的な、あるいは徳目的な指導を生み出し、子どもと教師とのズレを大きくしていくのです。
2)様々な方法での「居場所」づくり
子ども達の求めている居場所とは何のことなのでしょうか。もちろん班が居場所となることもあるでしょう。現に、まずは班を居心地のよい場所にということで、好きもの同士の班編成をおこなうこともあります。しかし、子どもが求めている居場所とは他者との関係の中に存在しているのだと思います。教師に求められる居場所づくりとは、関係づくりに他ならないのではないでしょうか。
関係づくりをしていくのであれば、その実践の場は班だけに留まる必要はありません。遊び・係活動・学級内クラブ活動・学習課題別グループなど日常の生活の中で他者と関係を結ぶ場は多々あります。ただ闇雲に班のまとまりを強調するのでなく、様々なグルーピングや他者との協同活動に取り組む中で、子どもの安心感を生み出して行くことこそが「居場所」づくりと言えるのだと思います。そして、その時のキーとなるものが子どもの自己選択です。子どもの選択が生きるグルーピング・協同活動といったものを積極的に学級に取り入れていくことです。
(3)対話の積み重ねをすること
居場所づくりを進めながら、対話をもつことが必要です。子ども同士の関係が生まれれば、その関係がその子らにとってどういう意味があるのかを、教師との対話によって言語化させるということです。言語化することによって子どもはさらにその親密さを深めていきます。
ただし、その教師との対話はいつまでも内向きであってはならないと思います。対話がそこに停滞すれば、子ども達は自分たちの親密な関係以外の他者に目を向けようとしなくなる恐れがあります。向けたとしても否定的な眼差しが多くなることでしょう。
したがって、教師は、その親密な関係は肯定しつつ、他者へ目を向けさせるような対話をおこなわなければなりません。その中で、彼らが次に取り組むべき課題を自覚させていくのです。
さて、居場所(関係)づくりにあたって、すべての子どもらが親密な関係を生み出せるとはかぎりません。自身が受ける様々な抑圧への反発として暴力的な言動を表出する子ども(いわゆる「キレる子」「パニクる子」)らの関係づくりは、大変困難なものです。
しかし、ここでもやはり対話の積み重ねを提起します。このような子ども達との対話の場面は、どうしてもトラブル発生時になりがちですが、その中で交わされる対話は、トラブルにかかわるものであり、説諭的なものとなります。興奮している子どもはもちろん耳に入りません。つまり、対話は成立していないと言えるでしょう。
だからこそ、日常の対話への努力が教師に求められます。日常の対話の積み重ねの中で、彼らが何に抑圧されているのかをつかみ、それを彼自身に自覚させ、そのつらさに共感する教師の姿を伝えていくことです。そして、それでも暴力的な言動は許されないことを伝えていくことです。
対話を積むことは、教師自身が子どもらの発達課題を読み取ることであり、子ども自身が自らの発達課題に気づいていくことでもあります。そして、発達課題克服に向けての教師と子どもの協同の第一歩となるのだと思います。したがって、対話の場面・内容・質についての実践的力量が問われています。
(4)「学び」から降りようとしている子を「学びの世界」にを引きもどす
高学年となれば、学力の学級内較差が顕著となります。何より子ども自身が「自分はできない」と自覚しています。毎日、毎時間、学習を積む度に「自分はできない」ということを思い知らされていく日々はどれほどつらいことでしょう。この子にとって前述したような居場所ができれば、それなりに学校に来る意味は存在すると言えるのかもしれませんが、実はそれは私達教師にとってまやかしなのではないかと思うのです。
生活と学習と双方に意味を持ち得てこそ、本当に学校が価値を持つはずです。
学習の在り方を問い直しつつも、「できた」「わかった」ということにこだわりは持ちつづけたいものです。
「高学年担任は素晴らしい。」
友達を見つめ、親を見つめ、教師を見つめ、そして自分を見つめて自分をつくろうとしていく。そういう素晴らしい時期に子ども達とともに歩めるということは、どれほど素晴らしいことでしょうか。子ども達の輝きを、教師が輝きをもって話せる。そういう日々のために、ともに学習しましょう。
中学生の時期、とりわけ2年生以降の時期の実践を進めていく上では少なくとも14歳頃の価値的自立の過程の内実を理解していくことが重要である。楠はこの時期の自我・社会性の発達的特徴を次の3点から整理している。
@ 家庭、学校外の「第3の世界」の中での「自己形成モデル」の取り込みを通じて、自分自身の生き方や未来像の模索を始めていく。
A 自己存在の必然性の探求(「自分は願われてこの世に生まれてきた存在だったのか?」)
B 「価値観的な他者」との相互関係が発生してくるが、その「価値観的な他者」との相互関係では一方向的であるという発達的な制約が、一方での激しい反抗や大人の価値観の全面否定に、もう一方での「呑み込まれ不安」の強まりや他者の眼差しへの過敏さによる神経症的葛藤を生み出していく。
今日の中学校での教育実践を進めていく上でも、このような思春期の子どもの人格発達
の課題を押さえておくことは重要である。しかし、「今日、子ども達を取り巻く生活世界の大きな変化、とりわけ地域子ども集団の解体による少年期のギャングエイジ的活動の衰退は、他者に開かれた身体性(他者と身体的なコミュニケーションをとることのできる身体文化)を獲得することなく思春期を迎える子ども達を増加させている。他者に開かれた身体性とは、他者に対する言語媒介的な信頼以前の、より根底的な身体レベルでの人間への信頼感覚とでも言うべきものである。」(小渕朝男)
このように、今日、ギャングエイジ期の体験共有的な活動から内面の相互理解型の親密さへの展開過程をほとんど経ることができず、交わり能力も自治の能力も十分に獲得できないまま中学校に入学してくる子どもが増大しており、そのことが一年生段階からの激しい問題行動(1998年に栃木と埼玉で起きた二つのナイフ殺人事件はいずれも中学一年生によってもたらされたものであった。ちなみに、先日福岡では小学校6年生の子ども同士でのナイフ障害事件が起きている。)につながっているのである。
藤木祥志も今日の中学校には幼児期から思春期までの発達課題を抱えた子ども達が共存している状態にあり、そのような重層的な発達課題を実現していく教育実践が必要不可欠になってきているとしている。たとえば、藤木がツッパリの2軍と呼んでいる子ども達は中学校に入ってからやっとギャングエイジ期を生きることができるようになった子ども達でもある。そのような子ども達には、ある程度ギャングエイジ期の体験共有的な活動を保障しつつ、自治的なルールや掟を創造させていく指導が必要になってくるであろう。
その一方で学力的には高いが、他者に対する身体感覚に根ざした信頼感がないままに、教師に対しても表面的には従順ないしは過剰適応、仲間集団の中でも明るくにこやかに他者と対応しつつ、その過剰な気づかいによってクタクタに疲れ、不登校や拒食症、リストカットのような自傷行為の状況に追い込まれていく子ども達も一方では存在している。
また、とりわけ男子生徒の中には、他者とのコミュニケーションで自分自身の思いや感情を言語化して表現できないまま、突然、「キレル」というかたちでの衝動的な行動化を行ってしまう子どもたちも存在している。このような子どもに対しては、「行動化」の背後にある内的葛藤に対する気づきを少しずつ深めさせていくと同時に、何らかの活動を媒介とした身体レベルでのコミュニケーションの通路を開きつつ、心と身体が統合された「交わりの世界」を取り戻していけるように援助していくことが必要不可欠になってくるであろう。
中学校の集団づくりでは、このような発達課題の多様性を前提としつつ、その取り組みを進めていかざるを得ないのが現状なのである。
第1章でも述べたように、今日の社会状況は経済的な貧富の格差を急速に拡大させており、それが子ども達の関係性の中にも「分断」を持ち込んでいく傾向が一層強まってきている。
たとえば、学校の競争的な秩序に順応していく子どもたちと、そこから撤退してして無気力化したり、逆に疎外感を発散するための問題行動を繰り返していく子どもたちとの二極分化が起こっており、両者の間に共感関係を創造していくことが困難になってきている。
そのような状況を反映して、今日、問題行動を起こす生徒に対して、他の生徒が不安や恐怖感だけでなく、差別的な眼差しを向けていて、お互いの人格を尊重し合う関係を築いていくことが以前にも増して困難になってきている。また、自分自身の内的葛藤を対象化できないまま、すぐにキレて暴力・暴言に訴えてしまう生徒を他の生徒が共感的に受けとめて関わっていくことは困難であり、以前に比べると、問題行動を抱える生徒に対する取り組みを軸とした集団づくりの実践が極めて困難になってきているのが現状であろう。
中学生段階の「集団づくり」の取り組みにおいては、ギャングエイジの体験共有的な活動、前思春期の親密な友人関係や交わりの世界の創造、そして、「自己形成モデル」の取り入れによる価値的自立の過程につながるような、広義の意味での「進路学習」という、3つの発達課題に対応した教育実践の構築が求められてきている。これらの課題を学級・学校づくりなどの中でばらばらに取り組んでいくことは困難である。しかし、一見すると全く発達課題が異なるように見える子ども(たとえば、幼い男子生徒たちと、思春期葛藤の只中に置かれている女子生徒)たちであっても、身体的な活動を伴う行事などを通じて交わりの世界と自治の世界を取り戻していくという課題は共通であり、また、お互いのことを理解し合っていくことを通じて「自分自身が生きてこなかった世界」「生きられなかった自分」を発見していくことにつながっていくときには、両者の間の共感関係の創造もまた可能になっていくのである。そのような実践的なしかけを学級・学校行事などの中でどのように構築していくのかが重要になってくるのである。
また、それと同時に、子ども達が個々に作り上げていく私的な「交わりの世界」と活動(それが教師の目から見れば幼稚なものに見える場合がしばしばある。)が、それぞれの子ども達が現在直面している発達課題の達成に寄与する方向で展開していくような働きかけを教師が行っていくことも重要な課題であろう。
本研究集会の中でも、子ども達の実態を出し合いつつ、子ども達が実際に作り出している交わりの世界や活動の中に子ども達の自立の契機を掴み取り、そこに働きかけながら自立を支援していく指導のあり方についての検討を行っていきたい。
@ 学校内での居場所づくりの取り組み
東京の中川拓也(1998)らは、激しい荒れと教師への露骨な敵意を示す生徒たちとの対話を進めていくなかで、この生徒たちの意見表明を適切に考量して、このグループの生徒たちのために、夜、週2回の体育館開放の取り組みをスタートさせ、学校の中での居場所づくりを行なっている。それと同時に、体育館開放に際しての具体的なルールをツッパリ生徒と教師が一緒になって作り、問題がおこるたびに話し合いで解決をはかっていった。このことが、「自分たちが教師から尊重されている」という教師への信頼感につながると同時に、生徒たちのルールを守る力を高めることにも貢献したと考えられる。
A 「社会的自立」を見通した学習権保障(「進路学習」を含む)
今日、一部の子どもの抱える学力疎外状況は深刻であり、中学校段階になると一斉授業で学習権を保障することにはかなりの困難さが存在している。また、子どもたちの未来像、将来への見通しのなさも学習意欲の喪失と荒れの大きな要因になっていることを考えると、参加型の進路学習の中で子どもたちが自己形成モデルと出会う機会を保障していくことはきわめて重要な教育課題なのである。谷尻治は、「つっぱりの卒業生たちが世話になっている建設関係の親方」とのつながりを活用し、子どもたちの進路と未来像を切り開く取り組みを行なっている。このような自己形成モデルとの出会いを保障し、進路を切り開いていく取り組みと並行して、社会的自立に必要な学力を保障していくことが重要である。藤木祥史は、「中卒で就職する生徒のための学習会」を組織しているが、中学校段階で就職していく子どもたちの自立に必要な学習は今日の中学校教育のなかではほとんど取り組まれていないだけに極めて重要な意義をもつ取り組みであると考えられる。
B 普遍的人権に根ざした「行動規約」とそれに根ざした生活指導
暴力を振るう生徒によって深い傷つきを背負う生徒、不安や恐怖を感じて学校に来れなくなる生徒が出てくる事態のように、暴力的な言動を示す子どもの存在が他の子どもたちの基本的人権を脅かしていく事態は決して見過ごされてはならないものである。やはり、学校という場で最低限守られるべき基本的人権を冒すことは何人たりとも許されないという「毅然たる指導」(ただし、決して体罰ではない指導)は必要であり、それを破る場合には「自宅謹慎処分」などの何らかの措置を講じざるを得ないであろう。ただし、「自宅謹慎処分」などの措置が、家庭的に最も困難さを背負っている子どもたちを学校から排斥し、シンナーや覚醒剤、また、男女間暴力などのかたちで地域での問題行動や犯罪行為を深刻化させていく危険性があることについても十分に配慮される必要があるであろう。
C 「力」を適切に行使するモデルとなること
これまでの成育史で暴力や「力による支配」を繰り返し体験してきた子どもは力に対して敏感に反応することが多く、「侵入される不安」を感じやすいため、過剰防衛的な攻撃にでる状況に陥りやすい。それだけに、少し距離を置いた関わり方、過剰防衛的な攻撃を引き出さない関り方を工夫する必要がある。また、人間関係を力関係で捉える傾向が強く見られるだけに、「力のあるものには従い、力のないものを差別、支配していく力」ではなく、「正しいと思うことには従い、正しいと思えないことには異議申立てをしていく力」を育てることが大きな教育課題にならざるを得ない。したがって、「力」を持っている教師であればあるほど、「力」を適切に行使するモデルとなっていく必要があるのであり、決して「力」を濫用せず、子どもたちの意見や人権を尊重した関わりを行っていく必要があるのである。
D 自らの感情をコントロールできる力、ライフスキルの獲得
ライフスキルの取り組みはアメリカやカナダで、とりわけ攻撃性の強い子どもに対するプログラムとして実施されている。ライフスキルの学習過程では、まず、子どもたちが抱く怒りや憎しみの感情そのものは「今、そうとしか感じられない感情」として受容し、その感情を表現することを励ましていく取り組みが行われている。その上で、しかし、行動の選択においては、感情を暴力的に表現するのではなく、他者を傷つけない、そして、自分の人生を破滅に導びかない行動を選択することを要求するのである。
たとえば、わずかな出来事によって、「見捨てられ不安」、「自分が拒絶されている」という感情に襲われること自体は、これまでの生育史の中で築かれてきた感じ方であり、受容していくしかないものである。しかし、それを授業妨害や教師に対する攻撃的言動で表出することは、他者の人権を侵害する行為であるだけでなく、ますます自分自身を不利な状況に追い込み、自分の人生を追いつめていく行為であることをゆっくりと語り、暴力的ではないかたちで自分自身の感情を表現することを要求し、また、そのための具体的なスキル(たとえば、「自分の怒りや憎しみの感情を信頼している大人に話す」「その場を離れて頭を冷やす」など)を教えていくのである。当然のことながら、自分の感情を暴力的、攻撃的に表現してしまう子どもは、そのような表現方法をこれまでの十数年の生育史の中で獲得してきたのであり、これは一朝一夕に修正されるものではない。したがって、子どもが問題を起こした際には、その時の感情を丁寧に聞き取って整理していきつつ、しかし、それを暴力的ではないかたちで表現していくことを繰り返し要求し続けていくこと、そして、そのための具体的なスキルを教えていくことが必要であり、そのような指導の繰り返しが他者と自分を傷つける「行動化」を自ら克服していく力につながっていくのである。
E ツッパリグループ内部の相互関係の変革
一見すると強い連帯感があるように見えるツッパリグループ内部の「寒々とした人間関係」、影でお互いの悪口を言い合っているような関係を真の意味での友情と連帯感に支えられた「暖かな人間関係」へと組み替えていくことは重要な教育課題である。同じような傷つきや疎外感を背負っていながら群れでしかなかった仲間集団を、「お互いの内面を表出し、支え合うことができる仲間集団」へと変革していくことが必要不可欠なのである。
F 問題を抱える生徒と他の生徒との相互関係の変革
学級・学校行事などの取り組みを通じて問題行動を抱える子どもたちが活躍できる場所を創造すると同時に、他の生徒との共感関係を育んでいく取り組みは全生研の中でも多く行われてきた。暴力でまわりを支配していた生徒が他の生徒から自分の存在を承認されていくことによって、むき出しのパワーでしか自己存在を確証できなかった状態から解放されていくのである。しかし、先にも挙げたような子ども同士の関係性の分断がそのような実践を創造していく際の困難さを増大させていることも否定できない。
今日の子ども集団の分断状況と暴力的な行動を示す生徒の質的な変化を踏まえた新しい集団づくりのあり方を本研究集会の中で明らかにしていきたいと考えている。