1章でも述べたように、今日、子どもたちの人権を保障すると同時に、地球市民社会の担い手としての自治の力と市民的スキルを育む「学校づくり」を進めていくことが重要な教育課題となっている。そして、学校の中に、新自由主義の「自己責任の原則」とは違う「相互尊敬の原理」に基づいたコミュニティ(小さな市民社会)を創造していくための学校全体の施策(whole school policy)の確立が重要になってきているのである。
しかし、その前提として、まず、学校の中で子ども達の「心身の安全感を感じられる権利」を保障していくことがとりたてて重要であろう。今日、少なくない子どもたちが、「心身の安全を感じられる権利」、「ありのままの自分自身の感情を脅かされずに表現する権利」というもっとも基本的な人権を家庭や地域の中で保障されない状況に置かれている。それだけに、少なくとも学校という場は、そのような子どもたちの権利を保障すると同時に、そのことを通じて他者の人権に対する「応答責任」(responsibility)を果していける能力を育んでいくことが緊要な課題なのである。
| アメリカのオリンピア市の「市民の権利」では、次のように述べられている。 @ 教室の中で、私は幸せで、暖かく扱ってもらう権利を持っています。このことは誰も私を笑ったり、私の気持ちを傷つけてはいけないことを意味します。 A 教室の中で、私は私自身であり続ける権利をもっています。このことは、私が黒人、あるいは白人、太っている、痩せている、背が高い、低い、男の子、女の子だという理由で不当に扱われないことを意味しています。 B 教室の中で私は安全に暮らす権利を持っています。このことは、誰も私をぶったり、押したり、傷つけたりしてはいけないことを意味しています。 C 教室の中で、私は人の話を聞き、そして聞いてもらう権利を持っています。このことは、誰も金切り声をあげたり、騒音をだしたり、わめいたりしないことを意味します。 D 教室の中で、私は自分について学ぶ権利を持っています。このことは、私が誰にも妨げられることなく、そして、罰せられることなく、自分の気持ちや意見を自由に話せることを意味しています。 |
この「市民の権利」は文化的相対性を越えた、普遍的な人権の理念に基づいた規範である。そして、この中でも、Bの「安全に暮す権利」はとりたてて重要なものであろう。もしも学級、学校で子どもたちが「心身の安全」への不安を常に抱えざるを得ない状況が放置されれば、子どもたちは「自分が正しいと信じること」に従って行動するのではなく、「自分自身の心身の安全を守る」ために行動するしかない状況に追い込まれていく。実際、多くの子どもたちがいじめを止めるよりも、一緒に同調していじめたり、無関心を装うことによって自分の心身の安全を守ることに努力せざるを得ない状況は日本やカナダの学校でも広範囲に存在しているのであり、これはまさしく反人権学習の「隠されたカリキュラム」と呼び得るものなのである。カナダの学校で、The right to be safety がとりたてて強調されていた理由がそこにあると考えられ、日本の学校でも最も強調されるべき人権であろう。
また、今日、日本でも宗教上の理由で一部の学級・学校行事への参加を拒否する事例などが各地で生じ、学校や他の子どもとの間の摩擦を生み出す事態なども生じてきている。それだけけに、「自分自身が持っている思想・信条や信教によっていじめや差別を受けない権利」なども規範の中に加えていく必要性が現実に生じてきていると言えよう。
このように、すべての子どもたちの人権を守っていく学校を創造していくためには、まず、教室ないしは学校の中で守られていくべき基本的な人権のルールというものが明確化されていることが重要であろう。また、そのルールは「生徒心得」のように、学校当局の手で作られた恣意的なルールではなく、すべての学校構成員のコンセンサスが得られるもの、そして、文化的な相対性を越えた普遍性をもつものでなければならないと考える。
そのようなパブリックな規範のあり方を示したものとして、カナダのトロント市教育委員会(1994)が中等学校の生徒に配布している “Students' Rights And Responsibilities"という冊子は注目に値するものであろう。この冊子の第1番目の特徴は、この冊子で明記されている人権の規範が生徒だけでなく、学校構成員のすべてに適用されていることである。
この冊子の冒頭には、「トロント市教育委員会は、学校理事、生徒、そして教職員によるいかなる形態のものであっても、人種、民族、信仰している宗教、皮膚の色、国籍、家柄や出自、性別、性的指向性、結婚上の地位、障害、年齢に基づいた差別に対しては強く非難し、断固たる措置をとります。」と述べられており、生徒だけでなく、学校スタッフや評議員も含めた全構成員の差別的行為の禁止とその違反に対する毅然たる姿勢を明示している。また、学校スタッフの体罰の禁止や生徒へのセクシュアルハラスメント行為の禁止も冊子のなかに明記されている。
また、1章の “YOU AND YOUR LERANING ENVIRONMENT”の中では生徒の差別や人権侵害を受けない権利を具体的に確保するために、何らかの人権侵害行為を受けた場合にはどのようにして解決すればよいか、訴える先の公的関係機関の電話番号までが明記されている。このようにして、生徒の権利擁護のシステムを十分に明確化した上で、生徒一人ひとりの責任とその責任に違反したとき(e.g.他者の人権を侵害する行為、学習妨害、薬物濫用や売買などの法律に違反する行為)に関する措置が明記されているのである。
日本の学校では、しばしば、「まず義務を守ってから権利を主張するように」というような発言が学校現場で見られるが、本来、権利と責任は切り離し得ないものである。子どもたちに保障される権利とその権利の保障を実体化するための具体的な手続きを明確化した上で生徒の責任を規定し、それに違反した場合の措置を明記していくことがこれからの中等教育段階での学校教育には求められるであろう。
また、日本の高等学校には、生徒が起こした暴力事件や喫煙、シンナー摂取などの問題に対しては停学などの処分の基準が明確に定められているところが多く存在しているが、教師や学校関係者の人権侵害行為も決して許されないこと、そのような行為が生じた際の訴え方までを明記しているところはほとんど存在していない。しかし、学校教職員や評議員も含んだすべての学校構成員が遵守すべき人権規範として位置づけられることが、子どもたちにとってより説得力を持った規範になると考えられる。
第2番目の特徴としては、この冊子の2章2節のテーマが、“YOU AS A CITIZEN OF YOUR SCHOOL ”となっていることから理解されるように、子どもたちを学校コミュニティの市民として尊重し、教師や父母、管理職などと共に学校の運営に参加し、責任を共有していく主体として位置づけている点があげられる。子どもたちは、「自分が何を学ぶのか」、「どのようなやり方で学ぶのか」、そして、「彼らの学校がどのように運営されていくのか」に関する決定のプロセスに参加する存在として位置づけられており、生徒評議会やその上部組織を通じて、その具体的な決定過程への参加の道筋が明記されている。たとえば、生徒協議会については、自らの「成文化された規約」を作る権利、生徒協議会に助言を行う学校スタッフを選ぶ権利、学校スタッフ会議に自分たちが選んだ代表を出席させて発言する権利(但し、投票権はない)などの保障が明記されている。
このように子どもを市民として遇し、学校内の様々な事柄の決定に際して、自らの意見表明権を行使する権利(「子どもの権利条約」12条)、集会・結社の自由(同13条)をはじめとする社会参加の権利を保障していくことと合わせて、学校コミュニティの中で果たすべき責任を要求していくことは、市民社会の中での権利と責任を自らの課題として引き受けていく主体としての子どもたちを育んでいく教育につながっていくと考えられる。
トロント市内やその周辺地域の学校では、教室や学校で保障されるrightとresponsibilityの内容に関する行動規約が教室の中に掲示され、子どもたち全員の前に明示されている。
しかし、これらの規約が大人の手のみによって作成されるのではなく、教室の中で、「一人ひとりの子どもたちが一人の市民として、他の人々と『社会契約』を結ぶかたちで制定されるもの」、「人格と人権を相互に承認し、尊敬しあうことを必要とする人々の合意によってつくられる」(竹内常一)ものであることが最も望ましい形態であると考えられる。具体的には、3者協議会、学校評議会などのかたちで、子どもたちがその行動規約の決定のプロセスに参加していく道筋を手続き的に明確化し、スクールコミュニティを維持、発展させていく責任を子どもと学校スタッフが共有(share)していくことが重要であろう。
日本でも、神奈川のある中学校では、「子どもの権利条約」を基本にした校則の洗い直しや校則づくりの取り組みが行われている。このような取り組みを進めていくことが、学校内で生じてくる人権侵害の問題などに対しても自分たち自身の手で取り組むべき課題として意識化させることにつながっていくと考えられる。
そのためにも、「子どもの権利条約」第12条をはじめとする社会参加の権利を実質化していくための具体的な手続きの明確化が学校改革の重要な課題なのである。すなわち、子どもたちが学校スタッフと一緒になって安全で気持ちよく生活できる学校コミュニティを維持、発展させていく取り組みを進めていくことが、結果として、子どもたちがいじめ・暴力等の人権侵害行為に対しても自らの課題として主体的に取り組んでいく意欲と力量を育んでいくことにつながっていくのである。
そして、そのような取り組みこそが、子どもの権利条約29条に挙げられているような、文化的アイデンティティ、民族、宗教、国民的価値、性の違いを相互に尊重しあい、人類社会の担い手となっていく市民としての力量形成につながっていくと考えられるのである。
日本の学校の現状を考えると、子ども達と一緒にこのよう学校の人権規範を築いていこうとする姿勢を持つところはまだあまりにも少ないことは否定できない。しかし、今日の学校の閉塞状況を乗り越え、子ども達の中に「学校への希望」を再生していくためには、このような取り組みは避けては通れないものである。今回の研究集会の中で、部分的ではあっても、そのような取り組みの実現の可能性を一緒に探求していきたいと考えている。