第19章                           主権

1842番 平山 菜子

T  序文

 現代の主権概念は、16世紀の後半に初めて形成され、近代史をつうじてその重要性を保持しつづけてきた。そして何度も解釈し直され、修正され、攻撃を受けてきたが、それは国際法の分野においてとくに著しかった。主権の原則が国際法の分権的制度の弱点と深い関係があるため、しばしば主権の原則が非難され、そのため主権という用語の意味や、主権と何が両立し何が両立しないのかについて多くの混乱が見られる。なかには主権ではないが、主権であると考えられてしまっているものもある。そして近代世界において主権という問題をわかりにくくしてきたもっとも重大な誤解が、主権は分割できるという意見であり、それを解明することこそ、現代国際政治における主権の役割や国際法一般の役割を評価するうえで役に立つのである。

 

U  本論

@主権の一般的性格

 主権は16世紀後半、領域国家という新しい現象との関係で、特定領域内で立法および法執行の権限を行使する集権的権力として現れた。それは主に絶対君主に付与されており、特定の領域に対する最高権力として定着した。三十年戦争の終結までには、それは一方では皇帝と法王の普遍的権威に対する領域君主の勝利を意味し、他方では封建領主の独立志向に対する領域君主の勝利を意味する、ひとつの政治的事実となっていた。君主の権威がその領域では最高であり、君主自身の許可を得るか、または戦争によってその君主を打ち破らない限り、他の領域の君主はその領域内では自己の権限をいっさい行使できなくなった。主権論がこれらの政治的事実を法理論にまで高めた結果、道義上の承認を受けただけでなく、さらに法的にも認められなければならないとの印象を与えた。君主が自己の領域内で最高権威を有するということは、政治的問題にとどまらず、法的な問題ともなった。君主は人定法―すなわちあらゆる実定法―の唯一の淵源であり、しかもみずからはその法の支配を受けない、法の上の存在であった。しかしその権力は決して無制限なわけではなく、良心や理性のなかにあらわれる神の法の拘束から脱却することはなかった。

 近代に入り主権論はその重要性を保持しつづけたのと同時に、国民主権という概念がうまれるに至った。しかし主権はまた、解釈しなおされたり、修正されたりしたのだが、それはとくに国際法の分野において著しかった。「国際法は個々の国家に法的抑制を課すものである」、そして「その同じ国家が主権者―つまり法定立・法執行の最高権威―であり、しかもみずからは法的抑制を受けない」、という二つの仮説は、現代国際法の本質をなしているのだが、これらは論理的に矛盾しており、主権に疑義と受難をもたらした。しかし実は、その矛盾は強力で効果的な、集権化された国際法制度にのみあらわれるものであり、分権化され、虚弱で非効果的な国際法秩序と主権とははまったく矛盾しない。それは国家主権こそが、国際法の分権性、虚弱性および非実効性の淵源そのものにほかならないからである。

 国際法は、二重の意味において、分権化された法秩序である。第一に、国際法規は原則としてその規則に同意した諸国家だけを拘束する。第二に、同意したことによって拘束力を生じた国際法規の多くは、非常に曖昧で、しかも多くの条件や留保によってその適用が限定されているため、国際法規にしたがって行動することを要請されたときは、国家はきわめて広範な行動の自由を有している。後者のタイプの分権性は、国際法の司法機能および執行機能の面にみいだされるのに反し、前者のタイプの分権性は、法定立の分野において重要な意味をもっている。国家を拘束する国際法規に関しては、個々の国家が最高の法制定権威となり、みずからが同意し、創造した国際法規以外には、それらの国々を拘束する国際法規というものは存在しない。つまり、ある国家に対して他の国家または国家の集団が法を制定する権限を有するということはありえない。したがって、主権という原則が法定立問題に適用されたために、国際法における法定立機能の分権性が生じたのである。

 しかし、個々の国家の管轄権の範囲を決定する原則、あるいは解釈原則や罪刑法定主義のような、多数国家の併存システムの存在や、いかなる法体系の存在にとっても不可欠な前提条件であるような国際法規だけは、国家の同意を得るまでもなく成立し、すべての国家を拘束するものである。これらは共通国際法または必要国際法、つまり現代国際システムの必然法と呼ぶに等しい。これらの原則が拘束力を有するということは、個々の国家の主権を損なうということにはならず、むしろこの拘束力のおかげで、法概念としての主権が成立するのである。

 この限定を除いて、法定立機能についていえることは司法機能および執行機能にもそのままあてはまる。個々の国家は紛争を国際裁判に付託するかどうか、またどのような条件で付託するかを決定する最高権威となっており、そのような国際裁判の分権性は、国家主権が司法機能にあらわれたために生じたものである。

 法執行については、執行機関としての国家の主権と、法執行行動が差し向けられる対象国の主権とに区別して考えなければならない。執行機関としての国家の主権は、司法分野におけるそれとまったく同一であり、個々の国家が法執行の決定の最高権威である。他方で法執行行動の対象国の主権は、国家の「不可侵性」という形であらわれる。つまり、特定の領域においてはひとつの国家だけが主権を持つことができ、そして他のいかなる国家も、当該国家の同意なくしてその領域で統治行為を遂行することはできない。戦争はこの原則に対する唯一の例外である。それは一方で自国の「不可侵性」を擁護しつつ、他方で敵国の領域を侵すのが戦争の本質そのものであり、国際法は、占領国がその軍隊により占領した外国領域において主権を行使することを認めているからである。

A主権の同義語―独立、平等、全会一致

 独立、平等、全会一致という国際法の三原則は、主権概念と同義であり、主権概念の副産物にほかならない。

 「独立」とは、他のいかなる国家の権威をも排除するという形をとってあらわれる。国家が特定領域内での主権者であるということは、国家が独立していること、ならびにその国家の上に立つ権威が存在しないことを意味する。個々の国家は憲法の発布、法規の制定、政治形態の選択、といった権利を有しており、また、自国の対外政策を貫徹するために必要とみなすどのような軍事体制をも自由にもつことができる。

 「平等」もまた、主権の同義語である。すべての国家がその領域内において最高の権威を有するとすれば、その権限を行使するにあたって他のいかなる国家に対しても従属的な関係に立つということはありえない。それと反対の義務が条約によって定められていない限り、いかなる国家も、法規の制定や執行について他のいずれの国家に対しても命令する権利を持たず、他国の領域内でどんな法規が制定され執行されようと関知しない。国際法は、対等関係にある主体の間の法であり、諸国家は、国際法には服するが、相互に従属したり従属させられたりということはない。つまり、諸国家は平等なのである。

 この平等の原則から、全会一致の法則が導き出される。全会一致の原則とは、法定立機能との関係についていえば、国家はその規模、人口および国力にかかわりなく、すべて平等であることを意味する。新たな法の創造のための国際会議においては、強大国の票とそうでない国の票とが同等の価値をもち、そして国と国とを拘束する国際法規を作成するためには、両国の投票が必要とされる。もしそうでない場合、強大国は、会議の代表権の面において認められた優越的地位を利用して、弱小国の同意を得ずにこれら諸国に法的義務を課し、ひいては小国の主権を破壊することになる。全会一致の原則が適用されているところでは、審議に参加する各国に対し、採択された決定に拘束されることを望むかどうかを決定する権利を与えており、ある国家が決定に対して同意しない場合、その決定はその国家を拘束することはできない。そのため厳格な全会一致の原則は、同意しないことで法制定そのものが成立しなくなる効果をもつ拒否権とは対照的であると考えられる。

B主権ではないもの

 次にあげるものは、主権ではないが、しばしば主権であると考えられているものである。

一、主権は、法的抑制からの自由のことではない。主権に影響を及ぼすのは、法的抑制の量ではなく、その質である。つまりある国がいかに大量の法的抑制を課されていたとしても、その国は主権を害されているとはいえない。しかしその法的抑制が、その国家の法制定・法執行の最高権威に影響を及ぼすものであれば、たった一項でも国家の主権を破壊することになる。

二、主権とは、国家の国内管轄に属するすべての事項について、国際法による規律から免れられるということではない。そもそも、国際法が規律している事項と関与していない事項との関係が流動的であり、その関係は、個々の国家の政策と国際法の発展とに依存する。

三、主権とは、国際法の下における権利・義務の平等ではない。権利・義務の顕著な不平等も、主権と両立することができる。平和条約についてみてみると、それはしばしば敗戦国の行動能力にさまざまな制約を課しているものがあるが、その制約により敗戦国が主権を奪われたということにはならない。

四、主権は、政治、軍事、経済または技術の面における現実の独立ではない。国々がこれらの面において相互依存関係にあり、また、ある国が一方的に依存しているということにより、若干の国々が独自の内外政策を遂行することが困難になったり不可能になったりすることがあるが、このような事実はその国の領域内における法制定・法執行の最高権威には影響を及ぼさないのが普通である。つまり国家間の現実の不平等ならびに相互依存は、その国の主権を脅かすものではない。

C主権はどのようにして失われるか

これまでに述べてきたように、主権とはある領域内で法を制定し執行する国家の最高

権威であり、他のあらゆる国家からの独立であり、国際法の下での国家間の平等である。それが失われるということは、自国が他国の権威の下におかれて、自国の領域内で、法を制定し執行する最高権威を他国が行使するというときにおこる。

ある国家が、自国の憲法上の機関が制定するいかなる種類の立法に対して、あるいは

自国の執行機関が遂行するいかなる法執行行為に対して、拒否権を行使する権利を他国に譲渡することは、その主権を失うということになる。その場合、自国の政府がその領域内で実際に機能する唯一の法制定・執行機関であることに変わりはないのだが、それが他国政府の制御のもとにおかれているため、自国の権威が最高のものではなくなってしまい、拒否権を譲渡された国が最高権威、すなわちその領域内における主権者となる。

また、国家の領域の「不可侵性」というものを喪失することでも、主権を失うことと

なる。それはつまり自国の法制定・執行権威そのものを他国に奪われることで、自国領域内における権威をまったく喪失し、実際の統治機能がその他国の機関によっておこなわれているということである。そしてその権威を喪失した国家は、名目上かつ外見上存続する国家にすぎない。

このような、主権が失われる、ということは、国同士の関係においてのみおこるので

はなく、国際機構の管理の下においてもおこりうるのである。たとえば原子力の軍事面、経済面、社会面における重要性を考えると、原子力の効果的な国際管理が実現されれば、その管理を行う機関の権限が活動する領域内で最高のものになる。なぜならその管理は、国際的というよりは超国家的なものになると考えられるからである。諸国家の政府は、たとえ原子力以外の分野においてどれほど大きな自治権をもっていようとも、主権を喪失してしまうことになるであろう。

国際機構の主権との矛盾という問題を明確にあらわすものとして、安全保障理事会常

任理事国と他の国連加盟国との関係、さらに安全保障理事会以外の国際機構における全会一致の原則からの離脱(すなわち多数決制度の導入)に付随する個々の国家の地位があげられる。

D主権は分割できるか

世界平和のために、国際機構に「われわれの主権の一部を移譲」しなければならない

とか、このような機関と「共有」しなければならないという説がしばしば存在する。しかし、これらの主権が分割可能だという説は、論理に反し、政治的に実行することは難しい。

主権が最高権威を意味するのだとすると、論理的に考えると最高位にあるものよりさ

らに優位にあるものや、それと同位にあるというものは存在しないはずである。そして主権が果たす実際の政治的機能を考えてみると、国家において立法に関係あるもろもろの党派に意見の相違がある場合、拘束力のある最終決定を行うという責任をになう最高権威が主権者である。また、革命や内戦のように、法の執行が危機に直面した場合には、国法を執行する責任をもつ国内の最高権威が主権者なのである。これらの責任は、どこか一ヶ所に存在しているか、どこにも存在していないかのどちらかでなければならない。アメリカを例に挙げると、大統領が全軍の最高司令官であるとすれば、他のいずれかのものが同時に究極的な権威をもって全軍隊を統轄するということはありえない。このように主権は、現実の政治においては分割されえないことが明らかである。

憲法によっては、主権の所在に全く言及していないものもある。フランス第四共和国

憲法がその例であり、その場合、かつてフランス陸軍がそうしたように、憲法上の一機関が責任を勝手に買ってでるか、または革命によって、ある主体(ナポレオンや人民委員会議のようなもの)に、混乱を終わらせ秩序と平和を確立すべき最高権威が授与されることになる。このように主権が未定のままになっている場合、最高権威を求めるものの間の政治的または軍事的闘争によって、この問題はいずれかに決着がつくことになる。

主権が明確に位置づけられたもっとも顕著な事例は、ホッブスがリヴァイアサンと名

づけた、何ひとつ拘束を受けない権威である。民主的な憲法、とくに三権分立制度をとっているものは、主権の問題をわざと不明瞭にし、主権的権限が明確に位置づけられる必要のあることをはぐらかしてきた。民主的憲法のおもな関心ごとは、絶対君主政体の無制約的権限とワンマン政府の危険とを懸念し、ひとりの人間に与えられる権限を制約し統御するための制度を案出することにあった。しかしその結果、主権的権威を法的統御および政治的抑制に服させる必要があることと、主権的権威を完全に除去することとを混同してしまったのである。つまり、民主国家であるかないかにかかわらず、政治的権威の行使について、ひとりの人またはひとつの人的集団がその究極的責任をになう必要があるということを民主政体は忘れてしまっているという。民主政体においてその責任は、ふつうのときには潜在的状態にあり、憲法上の規定や法規をつきあわせてみて初めてその存在がおぼろげにみてとれる。そのためかつてひとりの人、つまり君主の責任であった法制定・法執行の最高権威は、いまや対等な関係にあるもろもろの政府機関に分配されていて、したがってそれらの機関のいずれもが最高権威ではない、とひろく信じられている。あるいはまた、そのような権威が国民全体に付与されているとされるが、国民全体がそれを行使するということはもちろんありえない。しかしこのおぼろげな存在である究極的責任が、危急存亡のときや戦時にはにわかに顕在化する。そのような顕在化をあとから正当化するという困難な仕事を憲法の解釈論にゆだねるのである。

近年、国際舞台における権力闘争を抑制しようとするあらゆる試みをこれまで妨げて

きた主要な障害物は、国家主権それ自体であることがあきらかになってきた。法制定・法執行の最高権威が依然として諸国家の政府に帰属する限り、戦争の脅威は不可避であるといえる。個人にとっては、自国の主権をいかにしてまもるかが国際問題の最大の関心事であるが、その権力および主権そのものが、他国の権力および主権と衝突することによって、国家自体の存在をも危うくさせている。つまり自滅戦争がありうるという政治的現実が、国家主権をいつまでも保持していたいという政治的願望の前に立ちはだかっているのである。しかし、もしも平和の代償が主権のすべてではなく、その一部分だけでよいとするならば、そして、もしも戦争の可能性を小さくするために必要なものが、国民国家が主権を完全に放棄することではなく、主権を国際機構と共有することだけでよいのなら、平和と国家主権とを同時に保つことも可能だろう。

 

V 本論2

『政治学概論』(山川雄巳 著、有斐閣)

主権概念については多様な学説があるが、その多様さこそが主権概念の曖昧さを裏づ

けてしまっている。しかし、主権は術語としてすでに長い歴史をもち、実定法についても使用された事例が多いため、専門家のあいだでは主権概念についてのある暗黙の了解がすでに成立しているので、その理解がまったくの混乱状態にあるというわけではない。国家権力が事実上、一定の領域において最も強力で、優越性を持つ「最高の権力」であるために、主権は国家権力または国家の統治権のことをさすようになった。主権が支配している国家はすべて国際社会において独立かつ対等であり、当然、他国による「内政干渉」は許されないのである。

しかし最近では、先進国の主権概念というものも論じられている。1989年の日米構造

会議では、日米が互いに内政干渉しあったように思えたが、両国からその内政干渉への怒りの波はたたなかった。アメリカの評論家トフラーは、「もっとも裕福な国のあいだでは、国家主権は穴だらけになっている」という。たしかに、古典的な主権や内政干渉の概念は時代遅れになりつつあるのかもしれない。それはとくに国家の独立の実質がその国の経済的な力の盛衰によって左右されることが明白になってきているからである。それに、世界各国は貿易関係によって連関しあっていて、その必要度は経済構造が複雑に発達した先進国においてとくに高い。

だが、トフラーも指摘するように、数的に多数をしめる途上国が、主権をまだ確立し

ていないと感じていることにひとつの問題が生じる。「穴のあいた」主権概念をもつ先進国が、途上国の神経を逆なでするような行動に出るおそれが高まっているということである。むしろ国際干渉をおかさないよう注意する必要が高まっているともいえる。それに、先進国の主権概念にしても、依然としてその核心にタブー的な領域があるのであって、それにふれることは許されない。したがっていま外交は、きわめてデリケートな認識能力を要求するようになっている。

『政治―個人と統合』(有賀弘、阿部斉、斎藤眞 著、東京大学出版会)

17世紀の後半になると、社会契約論的な発想がしだいに浸透して「国民」意識が生ま

れ、国民主権の制度化も進行すると、民衆のあいだには自分の属する国に対する愛着の感情が生み出されてきた。その感情はナショナリズムと名づけられるが、それは愛着心というものを超えて、一国レベルでの民衆の一体感を醸成するものであり、さらに経済的利害関心にも裏打ちされてより強化され、主権国家の考え方、ひいては他国による内政干渉に対する反発心もより強められるといえるだろう。

19世紀半ばには、国民の政治参加が進み、国際関係における国家主権は、このような

国内における国民主権の裏づけをともなって主張されるようになった。それによりヨーロッパ国際社会が安全性を保障され、その相互関係により国力を充実させ、勢力均衡を達成するようになった。この時期に展開された労働運動の中には、強いインターナショナリズムへの指向性が生まれた。しかし、19世紀末にはその勢力均衡に破綻がみられるようになり、植民地獲得競争が激化すると、後景に退いていたナショナリズムが再び登場し、ヨーロッパを中心とする第一次世界大戦へとつながっていくのである。

第一次世界大戦の収拾策は、ヨーロッパ全域での国民主権と主権国家の制度化の同時

遂行を試みたものであり、それにより国際社会が一挙に拡大することになったが、そのことは先進諸国とその周辺との体制的な矛盾を解消するものではなかった。

第二次世界大戦はその延長線上の戦いであったとも考えられる。しかもそれは世界全

体戦争であり、戦後になってかつて植民地化されていた諸地域が一斉に主権国家として独立しようとした。だがこれらの国々は、経済の発展・近代化をはかるために強権的で独裁的な政治体制に頼りがちなため、民主化が必然とされる現代の政治とは逆行してしまっている。このため、経済的近代化と政治的近代化の歯車がうまく噛み合わず、民衆の国民国家への統合はきわめて困難な課題でありつづける。

 

W 結論

@モーゲンソーの意見

 国際機構の中には、国家主権と矛盾する種類のものがある。なかでも安全保障理事会の常任理事国ではないその他の国連加盟国は、国連憲章によってすでに主権を奪われているといわれているが、それが現実のものとなるには三つの政治的条件にかかっている。それは第一に、安全保障理事会が実際的な法執行機関となるためには、常任理事国間での全会一致がなければならないこと、第二に、国連の兵力が他のいかなる国あるいは連合しそうな諸国家の兵力よりも強大であるよう、世界中の軍事力が再分配されなければならないこと、そして第三に、各加盟国は憲章に基づく義務、とくに軍事協定に基づく義務を誠実に履行しなければならないということである。しかしながら現在はこれらの条件のいずれも存在していないし、これら三条件のすべてが近い将来において同時に存在するともおもわれない。よって安全保障理事会の主権が国家主権にとってかわるという可能性は、現在または近い将来においてはまったくないのである。

 また人々はあらゆるところで戦争の脅威からひたすら逃れようとする。そのために戦争を防止することのできる国際機関を設置しようとするのだが、その一方で、それぞれ自国の主権を保持することをも切望している。したがって、主権を自国と国際機構との両方にもたせること、つまり主権を「分割」することを望んでいる。しかし現実には、国家の最高権威としての主権があちこち同時に存在するということはありえない。このように、主権が分割されうるという考え方は、政治的現実と政治的願望との間の矛盾の観念的なあらわれである。そして主権可分論は、現代文明の諸条件の下では不可能なことが経験的にはっきりしていること、すなわち国家主権と国際秩序とを調和させることを理念的に可能にしてしまう。その意味で、平和の維持のために国家主権の一部を放棄すべきだと提言することは単なる理想論であり、達成不可能なことである。

A自分の意見

 戦争を防止するための国際機構の設置について、その機構と自国が主権を同等の規模になるように二分するというのは多くの人が望むであろうが、それは不可能なことだと思う。まず戦争がおこる可能性を小さくするための機関とは、世界中のどの国よりも強力な軍事力をもち、他のどの国際機構よりも優れた統制力をもたなくてはいけない、そのためには強大な権威が不可欠だろうと考えた。しかし現在、多くの国家が主権国家としての地位を獲得しており、先進国と途上国という関係にみられるように国力の差がはっきりしている以上、すべての国家に対して、平和の維持という国際社会のゴールともおもえる方向に一斉に目を向けさせるのは非常に困難であるようにおもう。だが世界中すべての国家の国力が均衡するという、いまだ人類が経験したことはなく、おそらく実現不可能な状況においては国家と国際機構とで主権を二分することが可能だと想定すると、国家間のあらゆる面における力の差を小さくしていくことにより、国家は主権を完全に放棄することではなく、国際機構と共有することで平和を保つことができるようになるという理想に近づくのではないだろうか。

B論点

    常任理事国以外の国連加盟国は、現在その主権を国連憲章によって奪われていないのか。また近い将来もその可能性はないのか。

    国家主権と国際秩序は調和できないのか。

    権力闘争の抑制にとっての障害が国家主権であることが明らかになったにもかかわらず、国家主権をいつまでも保持していたいと望むのはなぜか。