第24章 安全保障

                                     

                      18組58番 大家あい

 

T   序文

 

    @軍備の動機と軍縮の解決策

 

    A集団安全保障の問題点とその理由、及び成功させるための仮説

 

    B集団安全保障のイタリア・エチオピア戦争においての実例

 

    C集団安全保障の朝鮮戦争においての実例

 

    D国際警察軍について

 

 

U   本論

 

@  国家が武装するのは、攻撃されるという恐怖、すなわち危険にさらされているという感情を抱いてしまうことが要因であり、軍備の動機や実際の必要性を消し去るためには、諸国家に安全感を与えることが必要である。

 

    Aある新しい安全装置=「集団安全保障」・「国際警察軍」によって

諸国家を実際に攻撃から守る。

 

    B安全保障は、すべての国家の関心事となっており、諸国家は、自国の安全保障があたかも危機に瀕しているかのように、それぞれの安全保障を集団的に処理する。

 

    C集団安全保障が戦争防止のための装置として機能するためには、その理想的な3つの仮説が実践に移されなければならないが、現代世界ではそれらの仮説は特定の状況でない限り、それが実現される可能性の見込みは極めて薄い。(特に第3の仮説)

 

    D人間がいたるところで、地球上のどこかにある国家の安全のために、核戦争においてその生命を投げ出し、全面的破滅を賭する覚悟で行動するのならば、すべての人間の生命は永久に安全であると主張することができる。

 

      E諸国家は自らのナショナル・インタレストとみなすものを常に請求せざるを得ない。集団安全保障の実現を求める条件の下での国家的利益・道義と超国家的利益・道義との間の衝突は避けられないことであり、こういった衝突を自国の個別的利益に有利なように解決しようとするために集団安全保障システムの作用を麻痺させてしまう。

 

      F集団安全保障の仮説の下では、世界のいかなる戦争も、潜在的に世界戦争であり、戦争を阻止しようと意図する装置は、結局は戦争を世界的なものにしてしまう。

 

      G集団安全保障は、平和的手段によって現状を保護するための道具と考えられるものであって、侵略者が大国である場合には、自ら承認した目的を超えて全面戦争の道具となるのである。

 

H国際警察軍の理念は、現在または将来の法侵犯者に対する集団的実力の適用がもはや個別国家の管理できないところにあるという意味において、集団安全保障よりも一歩進んでいる。

 

I国際警察は、紛争の場合に容易に現実の軍事力に転化できる、軍事的な士気及び訓練、工業力、戦略的優位性―要するに、大国の潜在力−に対して圧倒的に優れた抵抗力をなおも備えていなければならない。

 

 

  V   本論2

 

      @彼にとって、軍備競争はパワー競争の産物であり、諸国家は権力闘争の論理から軍拡の構造を形成していくのである。モーゲンソーの言葉でいえば、「人間は武器をもっているから戦うのではない。人間は戦うことが必要だと考えるから武器をもつ」のである。

       原彬久『国際政治分析 理論と現実』p81.6-9行目

 

      A軍拡を逆流させる軍縮は、力の争いというすぐれて政治的な問題の解決によってはじめて実現されるのである。ここには、核の極限状態にあって、まずは人類共滅を防ぐ緊急避難としての核軍縮が逆に政治の深層をも動かしていくのだ、という視点はみられない。モーゲンソーにとって、「軍縮問題の解決策は軍縮それ自体のなかにはない」のである。

       原彬久『国際政治分析 理論と現実』p81.10-13行目

 

      B世界のいかなる紛争・戦争も潜在的可能性としてはつねに世界戦争である、というのがモーゲンソーの基本的立場である。

       原彬久『国際政治分析 理論と現実』p70.12-14行目

 

      C伝統的には、安全保障とは軍事力によりこれを確保するというものだと考えられてきた。しかし、軍事力の維持は結局1国の経済を圧迫し、国力の低下をきたすことが明らかになった。1国が軍事力を強化すれば、敵対国はこれに応じて軍事力を増強するので、取りたてて安全が強化されるわけではない。

       原彬久『国際関係学講義』p166.19-23行目

 

      D自己保存の装置は時に他人との協力によって全うされ、国内法の正当防衛も「自己又は他人の権利」を防衛の対象としている(刑法36条)。国際連盟以下の集団自衛が他の協力で遂行されても、精神においてもとるところはない。安全保障は諸国の協力の上に作られており、連盟体制の下における兵器の開発によって奇襲の危険が高まっている現代は他国との協力なくしては危害を有効に排除し難い。他国(それが何らかの意味で自国と密接な関係にあれば)への防衛協力は、やがて自国に加えられる攻撃防止の意味をもつことからすれば、援助といえども実質的には自国の防衛行為にほかならない。

       筒井若水『自衛論 新世紀への視点』p76.10行目-p77.2行目

 

      E武力攻撃が発生した場合だけに自衛権の発動が許されるとする説は、国連憲章の文言を忠実に解し、かつ武力不行使原則の最大限の尊重という立場に裏づけられているところから、検討に値する唯一の制限説である。

       筒井若水『自衛論 新世紀への視点』p77.11-13行目

 

 

  W   結論

 

      @「人間がいたるところで、地球上のどこかにある国家の安全のために、核戦争においてその生命を投げ出し、全面的破滅を賭する覚悟で行動するのならば、すべての人間の生命は永久に安全であると主張することができる」とあるが、私はこの意見には素直に同意できない。例えば力の強いA国が力の弱いB国への攻撃を始めたら、他の諸国家が集団安全保障の名の下にA国に対抗できる勢力をもってB国を援助するからということだろうが、それですべての人間の生命が永久に安全であるとはいえないと思う。戦争になれば少なからず犠牲者は出る。攻撃する方も防衛する方も、相手が自国より強いとか弱いとかわかった時点ですぐに戦争をやめるというわけでは決してないはずであり、ある程度の犠牲が出た時点でどちらかが引き下がったり、話し合いによる解決を図ったりするだろうから、やはりこの意見は違うと考える。

 

      A「諸国家は自らのナショナル・インタレストとみなすものを常に請求せざるを得ない。集団安全保障の実現を求める条件の下での国家的利益・道義と超国家的利益・道義との間の衝突は避けられないことであり、こういった衝突を自国の個別的利益に有利なように解決しようとするために集団安全保障システムの作用を麻痺させてしまう。」という意見は、そのとおりであると思う。紛争に介入することは容易なことではない。莫大な費用もかかるだろうし、出兵する人たちのみならず一般市民の生命の危険も生じてくるだろう。相手国が自国と何らかの面において非常にいい関係を持っていたとしたら、そこを攻撃するのは難しい。他の国の安全・平和を守るのは良い事だが、それ以前にやはり自国のことを最優先に考えてしまうのは自然なことである。そうでないと国内での不安が高まり、政治的・経済的発展はなされないと思うからである。

 

      A「集団安全保障の仮説の下では、世界のどこかで起こるいかなる戦争も、潜在的に世界戦争であり、戦争を阻止しようと意図する装置=集団安全保障は、結局は戦争を世界的なものにしてしまう」というのは反論の余地のない事実であると思う。ある2国間の平和維持のために他の多くの諸国家が軍事力をもって介入することで行おうとするこの安全保障装置は援助される国にとってしか「安全」ではないように思う。黙っていれば2国だけの事で終るものを、わざわざ他の国を巻き込んでしまおうとしているのだからそう意見するのは当然だと思う。