第6章  権力闘争―威信政策

 

                              6組31番 中村 直剛

 

 

T   序文(はじめに)

@    権力闘争−威信政策における外交儀礼と軍事力の誇示

A    威信政策としての外交儀礼と軍事力の誇示

B    威信政策に必要な能力 

 

 

威信政策

 

威信政策とは国際舞台における権力闘争の三番目の基本的な発現形態である。近代の政治文献において威信政策が注目されない理由は三つある。まず一つは微妙でとらえ難いさまざまな関係を有していること。理論的、実際的関心は実力という権力の物質的な側面に向けられてきた。次に威信政策は外交の世界で実際に行われている貴族的な社交形式を主要な伝達手段としてきた。外交の世界は民主的生活様式のアンチテーゼである。外交官の行う威信政策のなかには国際政治に有機的な関連をもたないものが含まれている。最後に威信が目的になることはないということ。威信政策が体系的な検討に値しないと結論づけられることである。

 

しかし威信政策は実際には国家関係の本質的な要素である。威信への欲求が個人間の関係の本質的な要素であることと同じである。同一の社会事実が別の形態であらわれたものである。社会的に認めてもらいたいという欲求が社会関係を決定し、社会制度を創造する。個人は同胞によって自己評価が確認されるのを望む。他者によって送られる賞賛によってのみ自分自身の優れた資質を自覚し愉快に思うことが出来る。またこれによって自分自身に帰せられるべきものを知ることが出来る。生存と力を求めてなされる闘争において、他人の評価は、実際の姿と同様に重要となる。同胞の心にうつるイメージの方が社会の構成員としての自分のありようを決定する。

 

ある人に対する同胞の心的イメージが、ある人の社会的位置を忠実にあらわすように留意することは重要な仕事である。威信政策の目的はある国が現実にもっている力、またもっていると信じている力、ないしもっていると信じさせたい力を、他国に印象づけることである。この目的には、二つの特殊な手段、最も広義での外交儀礼と軍事力の誇示という有効なものがある。

 

 

 

 外交儀礼

外交官は各国の象徴的な代表だから、外交官同士の関係は威信政策の手段として役に立つ。外交官に払われる敬意は、実際には彼らの国家が払うものだといえる。外交官が与えたり受けたりする侮辱は、実際には、彼らの国家が与えたり受けたりする侮辱である。国際政治においてこうしたことが重要な意味をもった事例は歴史上枚挙にいとまがない。

ある国家が保有している力、あるいは保有していると思っている力、また保有していることを他の国家に信じさせたいと思っている力を誇示する政策としての威信政策は、国際会議のための場所の選定に多くの成果を挙げている。対立する要求が、妥協により解決されない場合、威信競争に加わっていない国が会合の場所に選ばれることがある。それまで好まれていた会合場所から別の場所に変わることは、力の優勢の変化を物語る。

ある特定の分野や地域での優越的な力をもつ国家は、その分野や地域に関する問題を扱う国際会議については、自分の領土内か、その近隣国でひらくように主張する。

 

 

 

               軍事力の誇示

威信政策は、外交儀礼のほかに、その目的を達成する手段として軍事的示威行動を用いる。軍事的な強さは一国の力の明白な尺度であるがゆえに、その示威行動はその国家の力を他国に印象づけるのに有益である。原爆を独占している国家がそれをもたない国家に比べ、軍事力においては優越することになるのである。

海軍による示威行動は、過去においては威信政策の好ましい手段であった。海軍には、地球の隅々にまで国旗を掲げて一国の力をもち込むことのできる高度の機動性があったからであり、またその外観が大いなる印象を与えたからである。海軍国の要求が植民地地域や半植民地地域で先住民とか競争国の挑戦を受けた場合、これらの国家は必ず軍艦を自国の力の象徴的代表としてその地域に派遣してきた。

軍事的なタイプの威信政策を最も徹底させた形態は部分的ないし全面的な兵力の動員である。これからの戦争では、全面的な準備がおそらくつねに必要とされるので、兵力動員は、今日は時代遅れであるかもしれない。しかし過去においては、威信政策の有効な手段となっていた。自国の軍事的な強さと、自国の政治目的のためにその兵力を行使する決意とを、敵味方に等しく誇示することが目的であった。

威信は、戦争に対する抑止力として、また戦争のための準備として利用されている。他の国家が戦争に突入するのを抑止できるほどに自国の威信が大きくなることは望ましいことである。同時に、この威信政策が失敗したとしても、戦争が現実に勃発しないうちに軍隊を動員することによって、時刻がその状況下で可能な最も有利な軍事的立場を獲得することは好ましいことである。この点で威信政策と軍事政策は重なり合い、同一政策の二つの異なった面となる傾向がある。

 

 

 

               威信政策の二つの目標

威信政策には、二つの究極目標があると考えられる。すなわち、純粋な威信、あるいはずっと頻繁にあることだが、現状維持政策あるいは帝国主義政策を支えるための威信である。国内社会では威信はしばしばそれ自体のために追求されるが、威信が対外政策の主たる目標となることはめったにない。威信は、せいぜい対外政策の望ましい副産物にすぎない。力をもっているということに対する声価よりも、その実績の方が対外政策の究極目標だとされるのである。国内社会の個々の成員は、社会制度や行動規則の統合されたシステムによって、生存と社会的立場とを保護されている。この場合には、人は一種の無害な社会ゲームとして威信の獲得競争にふけることもできよう。しかし、国家は、国際社会の構成員として、自己の生存と権力地位をまもるためにおもに自己の力に頼らなければならないから、国際舞台におけるその権力地位に威信の得失が及ぼす影響を無視することはとうていできないであろう。

したがって、すでに指摘したように、力の重要性を過小評価する国際問題の観察者が、威信の問題を軽くとりがちなのは偶然ではない。同様に、無鉄砲な自己中心主義者だけが、威信政策をそれ自体を目的として追求しがちなのも偶然ではない。

絶対君主制とか独裁制のワンマン政府は、支配者の個人的栄光をその国民の政治利益と同一視する傾向にある。対外政策をうまく実践するということからすれば、このような同一視は最大の弱点になる。威信のための威信政策を産むことになるからである。

威信政策が現状維持政策と帝国主義政策のために果たす機能は、国際政治の本性そのものから芽ばえるのである。国家の対外政策はつねに、歴史のある時点でさまざまな国家間に存在する力関係の評価の所産である。またそれは、近い将来あるいは遠い将来に展開すると予想される力関係の評価の所産でもある。

威信政策のおもな機能は、こうした評価に影響を及ぼすことにある。一国の対外政策の究極目標が何であれ、威信―力をもっているということに対する声価―は、対外政策の成否を決定する上でつねに重要な、ときには決定的な要因となる。したがって、威信政策は、合理的な対外政策に不可欠な要素なのである。

威信が政治的武器としてとくに重要になったのは、権力闘争が政治的圧力や軍事力という伝統的な方法によってだけでなく、人間の心をめぐる闘争として展開される時代においてである。この闘争のおもな手段は宣伝であり、それは自分の側の威信を高めて他国の威信を低めようとする。

現実の力の行使を凌ぐほど、威信を追及する国家の力に対する評価が高まれば、威信政策は、まさに勝利を獲得したことになろう。二つの要因、太刀打ちできないほどの力だという評価と、この力の行使は自制されているという評価とが、このような勝利を可能にするのである。

               

 威信政策の三つの堕落

国家にしてみれば、威信政策を追求するだけでは十分とはいえない。威信政策は、国家によって過大に追求される場合と、過小に追求される場合がある。いずれの場合にも国家が失敗の危険を侵すことになるだろう。自国の力をしっかりと認識せずに、実際の重要性とは全く釣り合わないほどにある特定の行動に威信を付与する場合、それは過度の威信政策を追求しているということになろう、一国の威信は、歴史における特定の時期の特定の行動が成功したか失敗したかということによって決められるものではない。それとは全く反対に、威信は一国の品格と行動、その成功と失敗、その歴史的名声と願望との総体を反映したものである。この点、一国の威信は銀行の信用とよく似ている。定評のある財力と実績をもつ銀行は小規模の銀行ができそうもないことをなしうる余裕がある。広く知られているその銀行の力は不運にあったとしても、その威信が損なわれずにすむほど大きいのである。国家も同じである。

大きな力を確実にもっており、その競争相手からもそう認められているがゆえに、国家は敗北を喫したり、危機にさらされて現在の地位から後退しても、威信を失墜せずにすむといった事例が歴史のページにはたくさんみられる。どの国家も、世論の一時的な動揺と、国家の力と威信の恒久的な基礎とを混同しないように注意しなければならない。だから、ある特定の場合における威信は、それが反映している力と同様、一国の相対的な力と威信の文脈のなかでみられなければならない。後者が偉大であれば、それは全社に反映するし、全社が不十分だとしても、後者によって補われるものである

国家はまた自国の力を誇張して表現するあまり、実際に所有している力以上の評価を得ようとして過度に威信を追求しようとしてしまう。この場合、国家は、その実質よりは、むしろみせかけの力に基づいてその威信を築く。ここから威信政策は、こけ脅しの政策に変容するのである。

こけ脅しの政策の本質は、兵隊の服装をした20人のエキストラに舞台を歩き回らせたあと、いったん舞台裏に姿を消させ、また舞台に戻らせるといったことを何度も繰り返すことによって、非常に多くの兵士が行進しているかのような錯覚を起こさせる芝居の演出のなかによくしめされる。無知なものや間抜けものはこうしたみせかけの軍事力にたやすく欺かれるだろうが、そのことを心得た公正な観察者は、こうしたペテンにひっかかることはないだろう。もし舞台での演出がこの「軍隊」に別の「軍隊」と戦闘することを要求するならば、こけ脅しは誰にも明らかなものになる。このとき、こけ脅し政策はその本質を露にされ、そのからくりも本来の形で示される。こけ脅し政策は短期的に成功をみることは容易であるが、長期的にみれば、それは現実に行われるテストが無期延期にでもなったときにはじめて成功するものである。しかしそんなことは最高の政治的手腕をもってしても、できるものではない。

幸運と政治的によってできる最善のことといえば、国家の実際の力を評判どおりの水準にたかめるためにこけ脅し政策の最初の成功を利用することくらいのものである。こけ脅しを受けた国が、相手の力に的外れの配慮をしている間に、こけ脅しをした当事国は、威信と実際の力とを一致させる時間を得るのである。したがって力の競争に遅れをとった国家は、とくに軍備の分野においては、こけ脅し政策によってその弱点を隠すと同時に、そのハンディキャップを克服しようと務めるであろう。しかし、これは自由に選択できるものではなくむしろ命懸けの最後の手段として、やむをえざる必要からとられたものだということに注意しなくてはならない。

このようなわけで、国際政治においてこけ脅し政策をとることが概して過ちを犯すことになる、というのはやはり真実である。一方、これとは全く逆に、じっさいにもっている力以下の評価に甘んじるのも同様にまちがいである。

賢明な対外政策にとって、威信と実際の力との間の食いちがいはどうでもよいというわけではない。威信政策を賢明なものにすることは、国家が保有している力を過不足なく世界の国々に示威することにほかならない。それがこの政策に課された任務である。

 

権力 Power

この用語も抽象的で意味が多岐に渡るため、権力を国家権力に限定して使用する。政府が国家を運営する際に必要な自国民に対する抑止力であり、その正統性は法律と政府運営者の社会的地位にある。このサイトも反現行権力的記事をのせることもあるだろうが、それらは権力の必要性を否定するものではない。分析して権力の利用法を糺したりすることは必要であり、それは古来からの政治学者の伝統でもある。しかし、それでも国家権力は必要である。学派によってはメディア等、法的正統性がないにもかかわらず団体または個人に対して、抑止力を働かせる存在も権力として扱う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

結論

威信政策は目に付く場所につねに置かれているというわけではない。しかし、威信への欲求が個人間の関係の本質的な要素であると、同時に国家関係の本質的な要素である。その手段として外交儀礼と軍事力の誇示という方法がある。外交儀礼において外交官は国家の代表として彼らの国家が受ける待遇と同じ待遇を受ける。

軍事力の誇示においては、今日は時代遅れであるかもしれないが、軍事的な強さは一国の力の明白な尺度であるがゆえに、その示威行動はその国家の力を敵味方に等しく印象づけるのに有益である。

威信政策の目標は国際社会の構成員として、自己の生存と権力地位をまもることである。対外政策の成否を決定する上でつねに重要な、ときには決定的な要因となるので、威信政策は、合理的な対外政策に不可欠な要素なのである。

威信が政治的武器としてとくに重要になったのは、権力闘争が人間の心をめぐる闘争として展開される時代においてである。現実の力の行使を凌ぐほど、威信を追及する国家の力に対する評価が高まること。二つの要因、太刀打ちできないほどの力だという評価と、この力の行使は自制されているという評価を獲得することが威信政策の勝利といえるだろう。しかし、国家にしてみれば、威信政策を追求するだけでは十分とはいえない。威信政策は、国家によって過大に追求される場合と、過小に追求される場合がある。自分と力と他者の力を正確に把握する能力が必要である。自分の力を知るためには前述したように他者の評価を知る必要と、他者と自分自身とを比較する必要がある。比較することによって自分自身と他者の能力を正確に認識し、自分自身の取るべき行動を的確に決定することができるのである。自分が優れている能力と劣っている能力を理解することによって、社会における自分の位置を知ることができる。近い将来、また遠い将来において、他者とどのような関係を築いていくのか、築かれるのか、あるいは築いていくべきなのかを知ることができるのである。そのためには力を誇示することだけでなく、ときには自分自身の弱点といえる部分を隠さずに他者に認識させることも必要となることもあるであろう。外交や国際政治において重要なことは正直であることだと思う。これは理想であり現実においては甘い考え方であるということは理解している。しかし、自他の能力をいかに正確に認識できることができたとしても、他者から認められることが、権力を得ることが、人間の心をめぐる闘争として展開される時代においては実際的な理論だけに重点をおいていることはかえって状況を悪化させてしまうのではないかとおもう。理想と現実の間にある壁は完全に無くすことは不可能なことである。しかし、現実をただ無抵抗に受け入れるだけでなく、小さくとも改善の余地を探し出すことも必要である。