この評論は、推理小説に関する評論です。私は、推理ゲーム一本やりの推理マニアや真相の存在を完全に否定するポストモダニストにうんざりしていました。もちろん、論理的推理を無視してあやしい文学性に走るのも大嫌いです。この評論では、推理小説の「推理」の部分を軽視することなく、探偵と犯人を中心とした推理小説の構造を探っていきたいと思います。
20世紀後半の黄金期の推理小説をある観点から3つに分類した。ヒーロー型、フェアプレイ型、ネットワーク型である。もちろん、すべての推理小説をこの分類で分けられるわけではないが、特徴的な部分を強調するためにあえてこのように分類した。
シャーロック・ホームズはヒーローである。超人的推理によって事件を見事に解決する。読者はただその推理に感嘆するほかはない。ただし、後で説明するフェアプレイ型とは異なり、推理のために必要な証拠は必ずしも読者には示されない。また、ホームズは犯人の計画した犯罪を途中で阻止する。まさに、ホームズはヒーローである。ヒーロー型の特徴は他にも、コナン・ドイルと同時代に出たホームズ物の模作のもみられる。
黄金期以降の作品の特徴として「フェアプレイ」が挙げられる。「フェアプレイ」とは、探偵が最後の推理をする前にそれに必要な証拠はすべて読者にも示されていることである。もちろん、読者の推理を難しくするために証拠は巧みに作品の中に埋め込まれる。「フェアプレイ」は黄金期以降の作品のすべての推理小説にとって大事な要素だが、その中での特に「フェアプレイ」にこだわった作家・作品がある。すべての証拠は示されたとして、探偵の推理の前に「読者への挑戦」をした作家エラリー・クイーンやフィリップ・マクドナルドなどがそうである。こうした作家の前身に当たるヴァン・ダインもいる。ここでは、こうした作品を特にフェアプレイ型として分類する。ここでの探偵(ファイロ・ヴァンスやクイーン)は、紆余曲折あるにせよ、最後には見事な推理によって犯人やトリックを指摘する。ヒーロー型との大きな違いは、事件(たいてい連続殺人事件)を未然に防ぐことができないことである。たいていの場合、犯罪計画は最後まで行われてしまい、時には犯人はすでに死んでしまっていたりする。
黄金期の作品には、日本ではあまり注目されないような特徴がある作品もある。これらの作品にはそれまでの推理小説に対する批判が含まれているといえる。それによって一種の 批評としても成り立っている。黄金期の先駆的な作品とも言える「トレント最後の事件」は、作者のベントリーがそれまでの推理小説を皮肉った作品であると言っている。確かにこれほど変わった作品も珍しい。一般には、探偵トレントが被疑者に恋愛感情を持ってしまうことが指摘される。また、探偵は途中で真相とは違う推理に満足してしまい、その後に真相に近い推理にいたるにはきっかけが必要である。だが、探偵の最後の推理の後になって、意外な事実をある人から知らされることになる。推理小説のルールに基づきながらも、推理小説を批判している要素がある。探偵の推理能力はすばらしいものであるのだが、探偵本人は真相にたどり着けない。しかも、探偵本人が事件に巻き込まれてしまうこともある。このような批評性を含んだ作品には、アントニー・バークリーやドロシー・セイヤーズなどの作品があげられる。ここではこうした作品を、探偵が事件のネットワークに巻き込まれると言う意味を込めて、ネットワーク型として分類する。
それでは、それぞれの分類における探偵や犯人の位置について見ていきましょう。
ヒーロー型の探偵は、主体性を持った人間の理想像である(たとえ阿片をやっていてもそう思わせてしまう)。それどころか、犯人の主体性も認められている。探偵は犯人と同等に対立する。犯人の犯罪計画もそのものとして語られる。探偵は的確に理性を用いることで社会をよい方向へと動かす。犯人も主体性を持った悪人として描かれる。大衆文化としての推理小説が広まり始めたばかりだと考えると、このような(ある意味で楽観的な)主体的人間像が描かれたのもうなずけることではないだろうか。
フェアプレイ型の探偵にはあまり主体性がない。探偵は真相を示すことができても、事件(たいてい連続殺人事件)を防ぐことができない。探偵には事件(社会)の向こう側にある動かしがたい構造が見えるだけである。また、フェアプレイ型でも犯人の犯罪計画はそのものとして実行される。探偵は犯人の手落ちから真相にたどり着くことが多い。基本的に、犯人は見事に犯罪計画をやりとげる。しかし、本人の意図しなかったところで生じたことが証拠として残ってしまい、探偵はそれを見事に嗅ぎ取ってしまい、そこから事件が解決してしまう。犯人にも、自分の意図しなかった結果が自分の行為そのものから生じることによって計画がばれてしまう点で、主体性が奪われてしまったといえる。こうした作品が凄惨な世界大戦の前後に書かれたことを考えると、人間性(主体性)の喪失が描かれたのも分かるような気がする(これは笠井潔の指摘する点である)。
ネットワーク型の探偵は、これまでのように超越的な立場には立てない。たとえ間接的にであれ、探偵も事件の中に巻きこまれてしまうことも多い。しかも、探偵本人は真相にたどり着けないこともある。バークリーは「毒入りチョコレート事件」に代表されるように、同じ証拠から複数の推理を導きだれることを示している。すでに探偵は事件の推理に対する特権的立場を失っている。また、犯人も自身で計画した犯罪計画をそのままに形で実行できることが少なくなる。犯罪計画には実行の上で様々な偶然や他人の手が入り込むことになる。ただし、注意すべき点はそれでも犯罪犯罪の実行が失敗に終わるわけではないことである。予期していない偶然や他人の手が入り込むことで、計画をその場で変更したりして、意外な結果になってしまったりする。アガサ・クリスティーの「アクロイド殺し」では、複数の人がうその証言をすることによって、ある状況が推理できるようになってしまっている。その人たちはそれぞれに事情があって独立にうその証言をしてしまっている。しかしおもしろいことに、うその証言同士が偶然にもうまくつじつまが合って、うまく配置できるようになっている。もちろん探偵ぽポワロはそのうそを順に暴いていく。このように、偶然や他人の手は犯罪計画そのものに関わらなくとも、探偵を惑わせることがある。そして、場合によっては殺人犯は誰もいないと言うことにまでなってしまう。ただし、そのときもあくまで何かしらの犯罪計画が実行されているのであり、重要なのは誰も予想もしていない結果になることである(このあたりはセイヤーズのある作品を念頭においています)。このように、こうした作品では、探偵も犯人も世界のネットワークに巻き込まれて、例外なく惑わされることになるのです。
ついでに、日本の第三の波と言われる推理小説も取り上げてみましょう。少なくとも私の読んだ範囲ではこのようなことがいえると思います。もちろん、本格推理に走ったと言う点では、フェアプレイ型に当てはまります。しかし、最後の推理(真相)に特徴があります。基本的に、最後の推理(真相)ではそれまでの常識を根本から覆す推理(真相)が行われます。そういう点からは、それまでの推理小説に対する批評性を持っているといえます(チェスタトンの作品を大々的にしたと考えればよいでしょう)。しかし、世界のネットワークは探偵にも犯人にもそれほどは及ばないようです。本格推理を目指していたのだから、それは避けられなかったことだろうと思います。論理性の軽視される日本では、本格推理を書くことそのものが批評性を持っていたですから。
これらは認知科学における問題として語ることもできます。初期の認知科学では前もって立てた計画によって人は行為するものと捉えられていたのに対して、それへの批判が現れました。人はその場その場の情報によって行為するという状況的認知やもともと情報の処理などないという生態学的アプローチなどです。フェアプレイ型では、探偵はすべての証拠がそろうまで推理せず、犯人はあくまで計画通りに犯行をすすめます。それに対してネットワーク型では、探偵はその場その場の情報で推理することも多く、犯人も偶然や他人の手などのその場の状況に対応しながら犯行をすすめます。また、様々な人々の行為が結果的にある布置を示す事などは、分散的認知をも思い出させます。(こうした認知理論の難点をあえて言うと、現状への適合を重視する適応万能主義であることです。これが偶然を重視するネットワーク型との大きな違いです。適応万能主義は、アダム・スミスからヘーゲルそしてデューイへと続くイデオロギーともいえます。惜しくも亡くなったS・J・グールドなどの反抗していたものはまさに適応万能主義です (対抗するはドーキンス)。)
最後に評論への展望を開いてみましょう。すべてを説明できるとする推理マニアも説明がつかないことを強調するポストモダニストも私から見ると同じ穴のムジナです。彼らはどうもミクロレベルとマクロレベルとを混同しているようです。ミクロレベルでは個人の推理を扱います。マクロレベルは事件全体のありようを扱います。推理マニアはすべてをミクロレベルの説明(推理)で可能と認めることで、ミクロとマクロを一致させて、世界の秩序をきれいに認めてしまいます。ポストモダニストは、とにかく真理が存在しないことを強調し、ミクロレベルで真理にたどり着けないこととマクロレベルで真理が存在しないことを同等に扱っていまいがちです。どうも、ミクロとマクロを完全に一致させるか、混同するかしかする気がないようです。ラカン派の評論家ジジェクは、ミクロレベルの精神分析をマクロレベルのイデオロギー論にさりげなく結びつけて一致させています。ミクロレベルの否定神学的対象が、なぜマクロレベルにおけるあるイデオロギーとして一致してしまうのかがまったく分かりません。これは実は、ヘーゲルが「精神現象学」の前半と後半を結びつけたことと同じことです(これは後には時代精神という概念にまで発展する)。ハイデガーも似たような誤りに陥ることで、ナチスへの道を歩むことになるのです。マルクスはまさにそのようなことを批判して階級闘争と言う考え方を出したはずなのですが、後年にはこれでさえ単なる決定論として捉えられてしまうのです。このようなミクロ・マクロ問題は根の深いものであり、プラトンのイデア論やアリストテレスのポリス論にまでさかのぼれます(諸子百家であれば「道」の問題、スコラ哲学であれば「神」の問題・・・)。
確かに、ミクロとマクロを一致させるやり方(例えば、「日本人は・・・」、「女は・・・」と言った語り方)は、考えやすくて自然な思考法です。個人が何を語ろうが、本当に日本人全員や女性全員に関わるわけではなく、あくまで身近な日本人や女性に関わるにすぎないからです(言説の実際の効果は語った本人にも分からない)。だからといって、哲学や理論においてまでこうした思考法に従う必要はないのです。マクロレベルの概念を実体化するのやめましょう。
だからといって、そのような概念は必要ないというわけではありません。私の考えでは、マクロレベルの概念は社会的ネットワークの効果として定義できると思います。
そのためにも、個人の認識から出発する必要があります。ただし注意すべきなのは、個人の認識そのものがすでにマクロなネットワークの効果でもあることです。問題は、
ミクロな認識論的ネットワークとマクロな存在論的ネットワークがいかにしてかかわりあっているかということです。推理小説において、ヒーロー型はその一致を夢見、フェアプレイ型はその破綻を見出し、ネットワーク型はそのあり方を示したと言える。
ミクロレベルではうまく成立する否定神学も、マクロレベルではどうも怪しいようです。なぜなら、ミクロレベルの認識は有限なので、マクロレベルのありようを網羅することは不可能だからです(より正確には時間と経験の問題がかかわるのですが)。ミクロレベルの精神分析的ネットワークについては語られるのに、マクロレベルの社会的ネットワークについてはあまり語られないようです(アルチュセールも「呼びかけ」の概念からむしろミクロレベルといえる)。たとえ語られたとしても、アダム・スミスのように物事はうまく成立するものであると言うことが前提条件になってしまっています。だからといって、すべては混沌であるなんてことを言う必要もありません。重要なことは(ミクロかマクロかに関わらず)ネットワークの安定した部分とそうでない部分を見分け、それがいかにして成り立っているかを分析することです。これから語られなくてはならないのは、ミクロレベルの否定神学的対象が、マクロレベルのネットワークにおいていかに交差し合うかということです。