エッセイ

なぜ女性の哲学者は少ないのか

 女性の哲学者は20世紀になってやっとぼつぼつ表れ始めました。たとえば、シモーヌ・ヴェイユやボーヴァワールが有名です。いまでは、(少なくとも欧米では)フェミニズム思想などで活躍する女性は増えてきています。しかし、それまで女性の哲学者がほとんどいなかったのはなぜなんでしょうか。それを探るのがこのエッセイも目的です。

 過去において、女性の哲学者がいない理由は主に2つ考えられます。第一に、女性は論理的思考が苦手であるから。第二に、女性は教育や職業の上での制限があったから。私はこれらの理由が必ずしも間違っているとは言いません。しかし、こうした言い方にはいろいろな危険性があります。それはどんなことでしょう。

 まず、第一の理由を扱います。この理由はあきらかにフェミニズムの人から反感を買う理由です。まるで、女性は生まれつき論理的ではないかのような言い方だからです。しかし、このような反論ではこうした理由(言説)を語ることが人々にどのように影響するかしか考えていないことを暗黙のうちに示してしまいます。まるで、「本当はその理由は真実であることは知っているけれど、それを口にすることは禁止すべきである」と言っているかのようです。しかし、実はもっと別の反論が可能です。西洋では、女性の哲学者は少なかったかもしれないが、(それほど有名ではないけれど)優秀な女性の科学者や数学者は結構いたからです。もちろん、目立たなかったのは男性社会であったことが理由ですが、決して女性に論理的思考ができないことが理由ではありません。それならば、科学や数学もできないはずです。それでは、なぜよりによって女性の哲学者は少ないのでしょうか。

 その解決の謎は哲学の性質にあります。哲学とは、世界の真理を知ることを目的としています。さて、世界の真理を知るとはどういうことか。はじめに、個人的な側面を見ていきましょう。それは真理の所有です。つまり、他の人の知らないことを私だけは知っているという感覚です。ここには、思考レベルにおける世界の支配という(男性的)側面が隠されています。もう少し考えて見ましょう。哲学に惹かれる男性というのは、たいてい社会(世界)に対して何かしらの齟齬を感じていることが多いです。それが世間的価値であるお金や権威・名誉(または、異性交際)に向けられる人はまだ適応力のある方です。(学問世界における権威・名誉はとりあえず度外視します。)しかし、それさえ望めない人はどうすればよいか。すでに現実世界における成功が望めないならば、自分の心の中で世界と関係を持つことしかできません。彼は心の中だけで世界に対して優位な立場に立つことで満足するのです。女性はこんなことをするほど、暇でもなければ、馬鹿でもありません。女性はもっと現実的なことに目がいきます。しかし、なぜ男性はそんな道に走るのでしょうか。それは男性には現実社会における成功が期待されているからです。男性にはそれが内面化されて、何かしら優位な立場に立たないと落ち着かないからです。ただし、注意しておかなければならないことは、それも決して男性が生まれつき持っている性質ではないことです(*注)。

 男性が哲学に興味を持つもう一方の側面は正義感です。つまり、社会を良い方向へと向かわせたいという気持ちです。マルクス主義を思い出せば、分かりやすいでしょう。ここにおいても、男性が社会から優位に立とうとしているという理由は成り立ちます。優位な立場というのが言いすぎでも、少なくとも社会というものと関係を持っていると思いたいという気持ちぐらいはあるはずです。このとき、社会という概念が問題です。男性は、社会を「物」のようにあると思いがちです。その思い込んだものと関係を持たねばならないという強迫観念があるようです。それに対して、女性は周りにいる人間に興味を持つことが多いです。社会は人間から成り立っているはずです。しかし、男と女では興味を持つ単位が異なるようです。(もちろん、この違いは生まれつきでは絶対にない。(*注)を参照。)

 第2の理由は基本的に、全面的に正しい理由です。しかし、この理由にこだわってしまうと、その他の重要な理由が見えなくなってしまいます。それは、すでに述べてきたことに含まれています。私が言いたいことはただ一つです。 「個人的なことこそが、社会的なことである」。社会的なこととは何も、政治家の行っていることでも、企業家の行っていることでも、運動家の行っていることでもありません。それは、私たちが日常で行っていることの中に埋め込まれているのです。私たちは自然に、男に社会的成功を望んだり。女に美しさややさしさを望んだりしてしまいます。そして、本人もそれを当然と思い、うまくいかないとそれを保障する行為へと走ります。それが、引きこもりや拒食として表れるのです。どうも勘違いしている人は、そうした問題を意識に訴えることで解決しようとか思うようです。その結果として望んでいることも、今ある(または思い込んでいる)社会に適応させることだけであったりします。

 さて、ここでもう一度女性の哲学者について考えてみましょう。シモーヌ・ヴェイユはマルクス主義者、ボーヴァワールは実存主義者です。どちらも、現実の問題を扱ってはいます。しかし、男性のマルクス主義者や実存主義者とは異なり、社会の改造そのものを目指しているのではありません。彼女らが扱っているのは、私たちの現実との関係そのものです。男性の哲学者にもそうしたことを扱う人がいないわけではありませんがやはり少ないです。日本では、フェミニズムはあまり浸透していません。どうも、これを女性解放運動と等価する人が多いようです。これは間違ってはいませんが、勘違いを招きます。フェミニズムの考え方はより普遍性を持つものです。ただ、フェミニズムという呼び方は誤解を招きやすいです。だから、これからはより普遍性を持った領域として新しい名前が必要かもしれません(だからといって、フェミニズムを捨てる必要はないです)。いや、新しい領域を作ることは権威化しかもたらさないでしょう。むしろ、既存の領域に考え方を分散して埋め込むほうが効果的です。中心を作らないことも、フェミニズム思想の一部だからです。

(*注)

 ここで、脳科学による男性脳、女性脳の研究を取り上げてみたい。俗流の科学本や科学番組では、まるで脳科学によって男と女の生得的な違いが証明されたと言っているようなことが多いです。実はこれは、科学とはどのように行われているかという事をまったく考慮に入れていない人が言っていることです。フェミニズム系の人が言うように、そんなことを言ってはいけない風の言い方では、「実は本当そうかもしれないけれど・・・」式にしか聞こえません。そんなことをしなくとも、その結論は間違っていると十分に言うことができます。まず初めに、正しい科学的手順を踏んでいることは前提条件にします。そうでなければ、話になりませんので(結論以前の問題)。それでもかつ、そうした研究から実際に結論できるは恐ろしく少ないです。逆に言えば、どこまで確実にいえるかが分かりさえすれば、そうした研究は有益だということです(科学を端的に否定するのはやめましょう)。

 いくつか反論の方法があります。まず初めに、脳研究(または心理学的研究の多く)ではそれほどの因果関係は分からないということです。脳研究の典型的やり方は、脳をスキャンして活性化している箇所を調べる方法です。たとえば、被験者に何かをしてもらったりしているときに、脳のどの部分が活性化しているかを調べたりするわけです。しかし、これによって確実に分かるのは行為と脳の対応関係であり、因果関係は推測するしかありません。ましてや、それが生得的かなど分かるはずもありません。せいぜい、年齢の小さな子を調べられる程度です。心理学的研究で確実に生得性が調べられるのは、近親交配したマウスぐらいです(あとは、双生児研究もありますが、あくまで事例研究)。次に、脳研究のような費用も手間もかかる研究では、実際に調べられる被験者の数はたかが知れているということです。こうした研究の仮説は「男女には差があるか」ということです。しかし、この仮説には更なる前提条件があり、男と女にはそれぞれに共通の特徴がある、というように性別による同一性を強く仮定します。しかし、質問紙調査のような研究では、性別による一貫した差は表れていません(ある研究ではあっても、別の研究ではないとか)。脳研究によって出た性差はその少数の被験者には成り立つとはいえるが、それを一般化できるかどうかは別の問題です。もちろん、だからといってそうした研究に価値がないわけではなく、さらに研究を積み重ねる必要があるということです。

 多くの人は、科学を勘違いしています。場合によっては、科学に携わっている人でさえ勘違いしています。科学とは盲目的に行うことではありません。科学には、何かしらの仮説や理論があって初めて意味を持つものです。科学は物事の説明を権威づけるものではありません。それは、私たちの現実との関係を問うものでのあるのです。科学の良いところは、勝手な思い込みを外側から壊すことができるところです。そして、科学の研究は、誰にでも確実に理解されるようにというコミュニケーションの手段でもあるのです。





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