「人間の感情の中で、何よりも古く、何よりも強烈なのは恐怖である。その中で、最も古く、最も強烈なのが未知のものに対する恐怖である。」
(ラヴクラフト 1927 「文学と超自然的恐怖」より)
ラヴクラフトは1917年、久しぶりに小説の執筆を始めた。18歳のときに自分の才能に 絶望して以来である。15歳のころに書いた小説「錬金術師」が雑誌に載って好評だった事がきっかけである。その久しぶりの小説が「奥津城」である。これがホラー作家ラヴクラフトの真の出発点である。この論文では、ラグクラフトの小説における恐怖の成り立ち方がどのようの変わっていたかを考えていくことにする。
まず初めに、話のもとになるジャック・ラカンの理論について説明したい(著者なりの 変形があることを注意しておく)。ラカンは1936年に鏡像段階理論を初めて発表した。 この時期の理論は後に有名な象徴界・想像界・現実界の理論へと発展する。その発展段階 においてある図が考え出された。図1はそのラカンによって考え出された図である。それでは、 鏡像段階理論を簡単に説明する。私たちは自分の顔(または、身体全体)を直接眺めることが できない。そこで、自分の顔を眺めるには鏡を用いることになる。鏡という道具を用いることで 初めて自分の顔を認識できるようになる。精神的にも同じことが言える。私たちは自分が何者で あるかを直接に知ることはできない。だから、周囲の他人を像として自分を認識することになる。 このことを図としてあらわしたのが図1である。この図では、分かりやすくするために一部の語を 著者なりに変えてみた。(カッコ内が本来の語)。といっても、このままでは説明しづらいので、 メアリ・シェリーの「フランケンシュタイン」をこの図に当てはめて説明することにする。
この図を「フランケンシュタイン」に当てはめた図2によって説明しよう。科学者ヴィクター はおぞましい人造人間を作り出したしまった。ヴィクターはその醜い怪物に悩まされるようになる。 人造人間はヴィクターに自分の存在の悲しさを説明し、恋人をつくるように懇願する。しかし、 ヴィクターは人造人間を殺害することを決意するが、最後には逆に殺されてしまう。このとき、 主体S=ヴィクター、絶対的他者A=人造人間、想像的他者a'=怪物、自我a=ID (アイデンティティ)とおける。本当は、人造人間はやさしい人間的な感情を持っており、それを ヴィクターに話す。しかし、ヴィクターはそのことを拒否してしまう。ヴィクターは人造人間を 怪物であると決め付けることで自分のアイデンティティ(人間として、科学者として、など) を保とうとする。つまり、主体は他者を参照しながら自我を確立・保持する。しかし、絶対的他者 の姿は直接見ることはできず、自我の確立・保持の役に立つ想像的他者として変形させて 見ることになる(このあたりが、G・H・ミードの役割理論との違いでもある)。
まずはじめに、習作である「錬金術師」と出発点となる「奥津城」との違いを見ていこう。 どちらの作品もある謎をめぐる話である。その謎が恐怖の対象なのだが、
その謎の位置が重要である。「錬金術師」では謎は錬金術師という外部の者だが、 「奥津城」においては謎は主人公自身の墓として主人公自身に返ってくる。おなじ傾向は
前期の代表作ともいえる「アウトサイダー」においても繰り返される(鏡に映った自分の姿として)。 これをラカンの理論に当てはめてみよう。「錬金術師」においては、「錬金術師は実は…だ」、
という仕組みになっている。もちろん謎の意外性はあるが、にもかかわらずその謎は 主人公の知った物語の中にはまりこんでしまう。このとき、謎は主人公の想像の範囲を
(意外であっても)それほどは超えない。これはラカンの理論における想像的他者にあたる。 通俗的な作品における恐怖はたいていこの位置にある。
それに対して、「奥津城」や「アウトサイダー」では謎は、「主人公は実は…だ」、という形をとる。 このように、意外性は主人公自身に跳ね返ってくる。それは結果として、主人公の「自分は…だ」
というアイデンディディを壊すことになる。つまり、恐怖の位置が想像的他者から自我へと 移動している。恐怖の位置が自我になることは、その作品はエンターテイメントの域を
超え始めていることである。読者の追体験が驚きから狂気へと変わってしまうからである。
それでは、ラグクラフトのもっと後の作品はどうだろうか。1926年完成の「クスルウー の叫び声」は、後期作品において中心テーマとなる「クスルウー神話」をはじめて明確に打ち出した ものである。この作品(実は手記)では恐怖の対象は再び外部のものとなる。しかし、もはや 恐怖の対象は直接的な描写対象とはならない。誰も見たことのないもの「クスルウー」にまつわる 恐ろしい事件の数々について語られるだけである。そして、事件を語る手記の著者の死が テキストの外部であるサブタイトルで示されることになる。後期作品でも自我の分裂(手記の 著者の死)は起こる。さらに重要なのは、絶対的他者の不在(デリダ風に言えば「非現前」) である。クスルウーの存在を示唆する出来事はあちこちで起こっているが、誰にもクスルウー の存在を確定できないのである。
ラグクラフトの小説のおける恐怖の位置の変遷を、ラカンの理論をもとにまとめてみよう。 ラグクラフトの小説のおける恐怖の位置は以下のように変化している。
想像的他者(習作)→自我(前期)→絶対的他者(後期)
さて、最後に評論への展望を開いてみよう。習作においては、主人公は世界の謎から離れたメタレベル にある。前期作品では、主人公は世界の謎の一部になるので、メタレベルとオブジェクトレベル に同時にいることになる。つまり、習作の構造は形而上学システムであり、前期作品の構造は 否定神学システムである。それでは、後期作品はどうだろうか。後期作品は一見、否定神学 システムの変形のように思える。決して解かれぬ謎(=剰余)があるからである。 ここで問題にしたいのは、後期作品における謎を「クスルウー神話」としてまとめることが どのようなことであるかである。おそらく、ラグクラフト自身はそれらの作品をまとめて そう呼んだとは思えない(個々の作品においては別だが)。それらを「クスルウー神話」 としてまとめて総称したのは後の人々である。いったいどこの誰に「クスルウー神話」に 一貫性があるといえるだろうか。たとえ、同じ名前の神々が語られたとしてもである。 むしろそこにあるのは、神々の名前による郵便的ネットワークではないだろうか。
ここで、東浩紀の否定神学批判における問題が露出する。単に神々が複数なだけでは それは神話として簡単にまとめられてしまう。重要なことは、同じ名であるにもかかわらず、 それが何と対応しているのか誰にも分からないことである(または、個々人はそれと 思い込んでいるが、その思い込みはけっして完全には一致しない)。東浩紀の批判の問題は、 批判が性急過ぎて否定神学を避けることができると思ってしまったことである。 これではすでに罠にはまっている。{避ける/避けられない}という思考法は 形而上学への逆戻りでしかない。ここで考えてみよう。否定神学システムは、形而上学システムの メタ/オブジェクト構造を前提条件として含んでいる(すでにうまく成立しないが)。 郵便システムも、否定神学システムを避けるのではなく、むしろ含んでいなければならない。 否定神学とは実は出発点にすぎない。端的にそれを避けようなんて無茶である。
それでは、郵便システムとはどんなものなのだろうか。それをここで語ることはできない。 それは別の論考で展開するしかない。謎はまだ残されたままである。