1、これは最も必要な質問である、なぜならすべての推論はある種の記号の解釈だからである。しかし、それはかなり難しい質問でもあり、深い省察を必要とする。
心の異なる3つの状態を認める必要がある。第一に、夢を見ている状態の人を想像しよう。彼が赤い色以外には何も考えていないところを考えてみよう。それについて考えていないところ、つまり、それに関する質問に答える事を求めていないところ、それが彼を喜ばせるなんて彼自身にも言えさえしないところ、しかし彼の空想がそれを生み出す程それをじっくり考えているところ。たぶん、彼が赤にうんざりしたら、彼は何か別の色に変えるだろう。トルコ石の青とか、バラの色とか;しかし、もし彼がそうしたら、それは理由も強制もない気晴らしの空想においてだろう。これは、何かが現前しているの心の状態にだいたい近いだろう、強制も理屈もないのだから。;それは感情と呼ばれる。お目覚めからの半時間を除けば、実際には誰も、純粋で単純な、感情の状態にはいない。しかし、私たちが目覚めているときならいつでも、心には何かが現前しており、何かしらの強制や理由に因らなければ、現前するものとは感情である。
第二に、その夢見人が突然に騒々しく長く続く汽笛を聞いたと想像してみよう。それが始まったとたん、彼はびっくりする。彼は本能的に逃がれようとする。彼の手は自分の耳へと行く。それが不快という程でなくても、ついそうしてしまう。本能的な抵抗はその一部として必要である。その人は自分の意思が圧倒されていると感じはしない、もし彼が圧倒されたと自分に言い聞かさなければ。私たちが外側の抵抗に抗して自分自身を操作したとしても、それは同じことである、私たちが力を働かせている何かに抵抗を感じないときを除いては。この行っているとか行わされているとかいう感覚、物の現実への私たちの感覚--外側の物と私たち自身の物とのどちらでも--、これは反応の感覚と呼べるだろう。それは何かある感情には属さない。それはある感情を別の感情が打ち破ることになる。それはお互いに及ぼしあう二つの物を本質的に必要とする。
第三に、今や目覚めた夢見人を想像しよう、彼は突き刺さる音を締め出すこともできず、駆けずり回って逃げられるドアを探し始める。しかし、その人がドアを開けた瞬間に汽笛が止んだようである。ほっと安心して、彼は自分の席に戻ろうとまたドアを閉めようとする。しかしながら、そうするとすぐに汽笛が鳴り始める。彼はドアを閉めたことが何か関係があるのかと自問する。もう一度その不可解な門を開ける。彼がそれを開けると、音が止む。彼は今や第三の心の状態にある。彼は「考えている」のである。つまり、彼は学ぶことに、または過程を調べる事で法則に支配された現象を発見したことに目覚めた、または振る舞いの一般的に認められる方法を身につけた。ある動作には別の結果をもたらす意味又は媒介があることが彼には分かった。この第三の心の状態は他の二つとはまったく異なる。第二のには、獣的力の感覚しかなかった。今や、一般的法則による統治の感覚がある。反応においては二つの物しか関わっていないが、統治においては目的に対する手段である第三の物がある。まさに手段("means")と言う言葉は他の二つの間を媒介する何かを意味する。さらに、この第3の心の状態、または思考とは学習の感覚である。そして学習とは、私たちが知識への無知を追い越すための手段である。最も基本的な反応の感覚には二つの感情の状態が含まれていたが、最も基本的な思考には三つの感情の状態が含まれていると分かるだろう。
私たちが主題へと進めば、初めの把握ではあいまいだと思われるそれらの考えはよりよりはっきりと抜きん出てくるだろう。非常な重要性が私たちの心に訴えかけてくるだろう。
2、私たちが物を取り込む関心には三つの種類がある。第一に、私たちはそれのためにそれ自身に根本的な関心を持つだろう。第二に、私たちは他の物との関係を考慮するために派生的関心を持つだろう。第三に、それが物についての観念を心に運ぶ限り私たちは仲介の関心を持つだろう。それがそうする限りでは、それは「記号」または表現である。