石川 淳 「佳人」

                 L992063 清水 寛史



T.書誌事項


【初出】…「作品」・昭和十年(一九三五)五月

【初刊】…?

【底本】…?



U.段落毎の読解


 [第一段落]

 ふとしたことから長い間探していた「臍」を発見した私は、そのことを妻であるユラへ報告する。すると、そのことによって「わたし」はユラから《気ちがい》扱いをされてしまう。
 また、回想シーンで、そんな《気ちがい》である「わたし」とユラとの間で以前ボストン・テリアの仔犬で「アルギュス」と名付けた犬を飼っていたことがあったが、ユラの姉であるミサから「あたしに下さいよ」と言われたことから、ユラの反対を振り切って犬を譲るという電報を打ってしまう。

●この段落で言われている「臍」とは、只単に「東京の東北にある田園の片隅」に於ける「臍」ではなく、作家石川淳が、処女作として打ち出したこの作品に於いて、自身の作家としての地点を定める為に言い表した表現であるともいえるだろう。
 また、石川淳は自身の小説観について、「佳人」とほぼ時を同じくして書かれた自身の随筆の中で説明している。それをいくつかあげてみると、

   刻下の現実の相よりほんの少し速く、一秒の何千万分の一をい  くつにも割った一つぐらゐ速く、空虚なる空間を充実させようと  する精神の努力を小説だと、ここでたった一度だけ考えておく
(「森鴎外」)
   書いた人間との関係に於てのみ吟味されるやうな文章よりも、  書いた人間から高次に分離してそれ自身の世界を形成してゐるよ  うな文章をこそ、われわれはみごとだと見る。
(文章の形成と内容「文学大概」)
   小説は生きものだといふが、それは作品自体の運動、この波的  な運動に於て生きてゐるのだ。そして一寸先が闇だといふとこと  に、波はおこるのだ。
(短編小説の構成「文学大概」)

などがある。三十七歳という年齢にしてスタートしたからにはそれ相応の決意がある筈であり、そこにはもちろん右に記したような要因が含まれていると考えることが可能だろう。
 そして、この第一段落はその意志の表れうるもっとも始めの文章であり、これから後の段落ではこの様な要素を考えながら読む必要があるのではないだろうか。


 【堰(いせき)】…
 水をよそに引いたり、水量を調節するために、川水をせき止めた所。い。井手。せき。
(goo[国語辞典]大辞林第二版http://dictionary.goo.ne.jp/cgi-bin/dict_search.cgi?MT=%B1%E1&sw=2)


 [第二段落]

 「あくる日縁側の日向でわたしはわたしの手帖をひろげ」、ユラについての考えを巡らせていると、そこへミサが煙草を持ってやってくる。そして暫くユラを含めた三人で話をしていたが、突然「わたし」は「頭の芯がつんとするほどえたいの知れぬ憂鬱に緊めつけられ、その場にいたたまれ」なくたったので、寺から借りてあった本を外へでてしまう。


 【佳人(かじん)】…美しい女の人。
(goo[国語辞典]大辞林第二版 ※以下同資料)


 [第三段落]

 その晩三人で「川魚料理のうち」へ行き、帰り道でミサと別れ、「わたし」はユラと二人で歩いている時、ふと深呼吸をしたことから自分の中の「空虚」を感じる。そしてそれは、「わたし」が「死」について考えているということであった。
 また、ここでいう「死」とは、「催眠薬に依ってまず眠に入り眠から死につながろうとするような死に方」ではなく、「剣尖が肉を裂き骨を断つのを感じつつ、弾丸が脳髄に食い入るのを感じつつ、わたしは明らかなる鏡の中にわが最後を見とどけなければならな」いという、「死につつ死ぬことを意識していなければならない」ということであると「わたし」は言っている。
 その夜、寝床で「わたし」が眠っているユラの傍で考え事をしていると、ユラが目を覚まし、ミサの旦那である浜村との夢を見ていたと話す。そしてそれに対して「わたし」が「こんど浅草へ行ったら占いにみてもらうがいい」「とんだ似合の夫婦だな」と言ったことからユラが癇癪を起こしてしまう。また、その時のユラの目から「わたし」に対しての《気ちがい》という念を感じ取る。

●この段落の「空虚。さうだ。わたしは空虚でいっぱいなのだ。」という表現について、安藤始氏は「第二章 小説の真実ー『佳人』」の中で、「これが「わたし」の自己認識であれば、それは出発点でもある」と述べている。
 後で詳しく述べようと思うが、石川淳は「自意識」について探求した作家である。つまり、何もないところに於いて意識を芽生えさせるという作業は意識の発動であり、「一寸先は闇」だという考えにも合致するのではないだろうか。


 【ヒロイズム】…
 英雄的行為を愛し、または英雄を崇拝する主義。英雄(崇拝)主義。


 [第四段落]

 その後、「わたし」は「どこを叩いても決して反響を発しない空洞になるために」手帖などを焚き捨て、自分の周りにある一切の詠嘆を禁止しようと努める。
 そしてある日、会合のために東京へ行くことになり、「わたし」は今日死ぬことを心に決める。
 「意識したままに死ぬ」ために、鉄橋の上で機関車に跳ねられて死ぬという手段を選んだ「わたし」は、会合の後、時間を見計らって死に場所である鉄橋の上に向かうが、待てども待てども列車は来ず、ついにその晩列車は来なかった。
 そしてその後、川の流れに身を任せて水死しようと思ったが、これも失敗した「わたし」は、ついにはさんざん禁止していた歌まで詠んでしまう。
 この様な一夜を過ごし、精根尽き果た「わたし」に更なる追い打ちの出来事が起こる。「わたし」はミサの家に辿り着き、裏手から忍び入ろうとしたときに浜村とユラとが戯れている姿を目にしてしまったのである。そして「狼狽していた」「わたし」はそこから駆けだしてしまう。

●安藤始氏は「第二章 小説の真実ー『佳人』」の中で、「石川淳において観念はもともと小説の母体である。それ故に人間そのものの象徴でもある。そして小説は観念の産物である。これがいわば“叙述”の世界であった。」と述べている。
 この段落は「わたし」が「意識した死」の失敗やユラの姿によって屈辱や羞恥の念に駆られる段落である。そしてそうした観念が生まれることも小説の母体であり、石川淳の言うところの「精神の運動」なのではないだろうか。


 【芙蓉(ふよう)】…
 (1)アオイ科の落葉低木。暖地に生え、観賞用に栽植。高さ1〜3メートル。葉は浅く三〜七裂する。初秋のころ、上部の葉腋に径約13センチメートルの淡紅色の五弁花を開く。花は一日花で、白花の八重咲き、花色が変化する品種などもある。木(もく)芙蓉。[季]秋。
 (2)ハスの花の異名。「―の風にしをれ/平家 3」


 [第五段落]

 自分の家に帰り、「わたし」は部屋の真ん中で仰向けになって眠っていた。するとそこへ、偶然にも母親の所へ看病をしに来ていたミサがやって来て、「わたし」は食事や風呂の世話をしてもらう。
 そして、風呂から出た「わたし」は「無花果の向こうへ歩きかけていた」ミサを抱き緊めてしまう。


 [第六段落]

 「わたし」がこの「叙述」を書いた理由を述べている。

●「精神の運動」の中で「一寸先は闇」だという小説(この文章では“叙述”)を書いてきたのであるが、この段落ではその運動で蓄積した「酒」を「樽の栓」を抜いて放出するのである。
 石川淳は処女作までの年月を此処に集積し、そして作家として出発したのである。この段落で「樽の栓」を抜いて流れ出すのは以後の作品であり、それに於ける態度を石川淳は明確に示したのであろう。


 【牧羊神(ぼくようしん)】…
 神話中の、森・牧人・家畜の神。上半身は人間で下半身は山羊、角と蹄をもつ。ギリシャ神話のパン、ローマ神話のファウヌスなど。牧羊神。


V.作品に於ける作者の訴え


 この作品「佳人」は石川淳三七歳の時の作品であり、彼にとっての処女作となる作品であった。この三七歳という、作家としてはいささか遅いとも思われる出発点は、自身にとっての決意の現れとなった作品となった。そして、この決意とは何かと言えば、作家石川淳にとっての「小説」というものに対しての態度の現れである。
 それでは石川淳にとっての小説とはいかなるものでなければならなかったのか。そのことを含め、さらには小説というものに対しての態度というものが「佳人」の中にどのように作用しているかということをも含め、作品について論じていこうと思う。

 わたしは……ある老女のことから書きはじめるつもりでいたのだが、いざとなると老女の姿が前面に浮かんで来る代りに、わたしはわたしはと、ペンの尖が堰の口ででもあるかのようにわたしという溜り水が際限もなくあふれ出そうな気がするのは一応わたしが自分のことではちきれそうになっているからだと思われもするけれど、じつは第一行から意志の押しがきかないほどおよそ意志など無い混乱におちいっている証拠かも知れないし、あるいは単に事物を正確にあらわそうとする努力をよくしえないほど懶惰なのだということかも知れない。

 処女作の、さらにその第一行目といえば、作家にとって見れば出発点となるわけであるが、その出発点を三七歳という年齢になるまで延ばしたとなると、その書き出しには並々ならぬ力が込められているだろう。
 安藤始氏は『石川淳論』(桜楓社・昭和六二年四月二五日)に収められている「第二章 小説の真実ー佳人」の中で、この冒頭の書き出しについて、
「『佳人』の冒頭は、当然この作品の出発点であるが、ただそれだけでなく、今後書き続けていくであろう小説へ対する石川淳の意志表示でもあった。」
と述べている。さらに、
「生活者ということでは、当然作家も一生活者たることに違いはない。だが、作家という仕事にあっては、(中略)「もう一つ別なところ」と称する世界に自分を置かねばならない。
 『佳人』を発表するということは、このような自分をつくりだすことであった。これは創作という経験によって作家たる個人となる実験であり方法であった。その第一声がこの文にあたるわけである。」
と述べている。
 予め述べて於くが、この作品は随筆や評論ではなく、「佳人」の中の言葉を用いるならば「叙述」である。

   俗には「主題の根底をなすところの真実」をのみ文章の内容と  見たがる癖があって、内容さへよければ形式は二の次と、かかれ  たことばはときとして運搬車同然のあつかひを受けるかのやうで  ある。たしかにこの「根底の真実」は文章にあって意識された内  容にはちがひない。だが、それだけのないようしかもってゐない  文章のことを、たとへその内容がどんなに立派だとしても、われ  われは貧弱な文章とよぶ。えらさうなことが書いてはあるがさっ  ぱり感服しないとは、ざらに聞く批評である。実際に、こんなも  のならば骨を折って字に書かないでも、大学校で講演したはうが  よかったらうと思はれるしろものが多い。厳密には、文章とは申  しかねるのだ。
(文章の形式と内容「文学大概」)

 これは石川淳自身が記したものであるが、これは大体昭和十一年位から書きはじめられている。「佳人」が発表されたのが昭和十年であるから、時期にして非常に近接していることが分かる。つまりはこの考えが「佳人」の中にも生かされていると考えることは十分可能である。また、この文章から、石川淳が内容だけでなく、小説とは先ず文章ありきであると考えていることが読みとれるだろう。とすれば、処女作であり、決意の作品である「佳人」に於いても、決してその作家の考えのみが先走りすることなく、随筆や評論的要素が前面に押し出されているようなこともない。つまりは文章をトータルに見たときにそれが成り立っている作品であると考えることが出来るであろう。
 また、文中には次のような文章がある。

 もしわたしがこの叙述を小説にすりかへようとする野心をもってゐるとしたらば、別にできない相談ではあるまい。この筋書きに色をつける程度のことはわたしの細工でもどうやら間に合ひそうに思ふし、そのための材料ならば骨身にこたへるほど背負ひこんでゐる。だが、すでにこの叙述を書き出してしまった以上、小説のはうはさしあたり書けさうもない。それが書けるくらゐならば冒頭にちょっとにほはせておいた老女の物語がとっくに出来上がってゐるはずであらう。

 ここに書かれている「叙述」という表記方法について、安藤始氏は「第二章 小説の真実ー佳人」(石川淳論)の中で、「もし作者が、真にここで述べているところの“小説”を書きたいならば、そしてそれがこの作品のテーマであれば、当然彼は自らが述べているようにすりかえの操作を行ったことであろう。だが作者は「この叙述」以外のなにものも示しはしなかった。読者はここに描かれた仮りの世界が、作者にとっては書くということを表明するための手段であったことを知らされるのである。すなわち作者の本当の意志は“書く”ということそのものにあったことがわかる。実際のテーマは、小説を考えることであり、書くことであった。」と述べている。また、安藤氏は同論文の中で「“叙述”すなわち順を追って書き記すという作者の作業を前面に押し出すことによって一篇作品を創ることは、元来の小説の観念で考えると大変な冒険であった。『佳人』では、予定された物語が出発において崩壊したことをしらされる。ここに小説の転機をみることができる。」と述べている。
 この安藤氏の言葉を元に考えるならば、作品の中で石川淳は、それまでの小説というものについて、改めて解釈をし直すという試みをしており、さらに新たな小説への試みを「叙述」という手法によって行っているということであろう。
 そしてその試みが、文中の表現から読みとることが出来る。第六段落である。

 わたしが何を書くにしてもまずこれをかいておかねばならなかったので、樽の中の酒を酌み出すためには栓を抜くことからはじめるやうなものだと。

 石川淳はこの「叙述」を書くことによって、文章を順を追って書くという試みをすることによって、樽の栓を抜くことに成功したのである。樽の栓を抜けばもちろん酒が溢れ出す。つまり石川淳自身の栓を抜いたことによって、今後「貧窮問答」「普賢」へと続く作品が溢れ出してくるのである。
 以上を考えた上で、作者の訴えを考えてみると、訴えというものとは少し違ってしまうかもしれないが、先ず「作家」としてスタートを切る上での自身での決意、そしてまた「小説」というものにたいする確固とした考えをまとめ、その素材を元に行った実験を初めて実行したのが本作なのであろう。
 また、さらに石川淳は、小説についての考えを、

 書く前に、作者に判ってゐることは、ペンの前途が濛々たる闇だと言うことでしかない。事実、われわれはそれよりほかの経験をもたない。
(短編小説の構成「文学大概」)

というように述べている。つまり、この作品も濛々たる闇へ向かって書かれている作品であると言えるであろうし、この態度を確固たるものとして持ちながら書かれている作品であると考えられるであろう。


四.歴史的背景


 「佳人」が発表された昭和十年という年は、横光利一の『純粋小説論』と小林秀雄の『私小説論』が発表された年である。この二つについて、安藤始氏は「第一章 小説とは何か」(石川淳論)の中で、前者については「いわゆる純文学と呼称されるものの狭さと高踏さに対する実作者横光利一の焦りがよくわかる」と述べ、後者については「小説について表現された「私」の在り方について」書かれていると説明している。さらに安藤氏は同論文の中で、「この年に、石川淳が三十七歳にして出発を試みたということは偶然とは言えないだろう。と言うよりも、石川淳の作家的出発に際し、決意の時期として最も適していたのだと断言できぬ事もない。」、「処女作『佳人』とは、この作家自身にとって『私小説論』を成すものであり、また『純粋小説論』でもあった。」と説明している。
 また、野口武彦氏は「石川淳・その未生以前と誕生」(『石川淳論』筑摩書房 昭和四十四年二月二十日発行)で、「昭和初年代の後半、マルクス主義的知識人の大量転向によって日本社会の表面から共産主義の妖怪が姿を消した後、日本の文学的知識人たちの間をもう一つの妖怪が徘徊しはじめたことはよく知られている。すなわち、「自意識」の妖怪である。」と述べ、さらに「転向によっておよそ理想というものの喪失と挫折とを体験した昭和文学は、やはり決して「自我」の文学ではなく、まさに「自意識」の文学と呼ばれるにふさわしい特色をそなえていたのである。」と述べている。
 さらに、村松剛氏は、「石川淳論」(『日本文学研究資料叢書 石川淳・坂口安吾』有精堂出版 昭和五十三年七月一日発行)の中で、石川淳の自然主義を嫌うその要因について、「石川淳はこうした明快な思想乃至観点の一切を信用しないところから、あるいは信用できないところから、その文学的生涯をはじめている」と述べ、その理由を「官憲の弾圧と、過去の機械的な文学観に対する反省と、両面からの圧力によってすでにプロレタリア文学は瓦解していた。ナルプが解散したのは前年、昭和九年のことである。ある一身では従来の政治意識への偏向に対する反省から、そしてある意味では官憲の弾圧に対する最後の防衛戦としての気持から、「人間中心の文学」ということが彼等の間で云われるようになった。」ためと説明し、またそうして「精神のよりどころを失った知識人たちのうちには、逆に自分らの重苦しい孤独の中にのみ倫理的支柱を求めようとする企てが生じていた。」と述べている。
 この様な時代背景の元に以上をまとてみれば、浜村氏の文章に記されている知識人のうちの一人に石川淳は含まれているわけであり、もちろん彼もまた自分の中にのみ文学に対する倫理的支柱を求めたわけである。そして、その支柱とは「自意識」の発見と、小説とはなんたるかとをいうことを求めていったということでり、つまりは石川淳に於いての「私小説論」をまとめていったということなのではないのだろうか。


五.語りの体裁


 「佳人」はこの物語の語り手でもある「わたし」を中心に一人称で語られている。
 このことについて、安藤始氏は「第一章 小説とは何か」(石川淳論)の中で、この作品を発表した当時の石川淳について、「主人公に「わたし」と書かねば作品が出来なかった時である」と記した上で、「私」を主人公として成立する「私小説」に対して激しい批判をする石川淳は「「わたし」たる人物を中心に描いていくことは、一歩間違えば私小説そのものになってしまうこと、つまりさくちゅうに作家そのものが顔を出してしまうことを十二分に知っていた」のであり、「それでいて、あえて「わたしは……」と描いて作品を仕上げたところに彼の自信と、その作品を“叙述”と呼ぶだけの小説への認識があったと言えよう。」と述べている。
 また、この「わたし」という表現の仕方は、「佳人」の四年後に書かれた自身初の長編「白描」の中で初めて捨てられている。


六.疑問点

 安藤始氏は「第三章 「見立て」と「やつし」ー「普賢」」(「石川淳論」)で、作中に登場する女性達について、「女性像の原点となっているのはマリアそのものである。」と述べているが、果たして「佳人」に登場するユラとミサからもマリア像は窺い知ることが出来るだろうか。また、石川淳はそのように見立てているのだろうか。
 【マリア】…(1)イエスの母マリア。新約聖書ルカ福音書によれば、ヨセフとの婚約中、天使から受胎告知を受けた。五世紀前半から神の母、無原罪の女性とされ崇敬の対象とされてきた。
(2)マグダラのマリア。マルコ福音書によれば、イエスによって七つの悪霊を追い出されイエスの処刑・埋葬に立ち会い、天使からイエスの復活を最初に知らされた。ルカ福音書の伝える、イエスの足に塗油した罪深い女と同一視されてきた。