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7章 遠離・遭遇 ―介助について―

ともや

はじめに

 この7章は非常に長い。ましてや、立岩氏の書き方にはどうも慣れない。となると読むだけで精一杯なので、内容を読み込んで要約するだけの能力・気力・時間は私にはない。だけれども、テーマには以前から興味がある。正確には、この4月から「障碍者介助派遣事業」なるものをやっているために、ぶつかる問題が少なからずある。それを少しでも整理できたらと思って、この発表を引き受けた。(相変わらず文字にするのがものすごくへたくそだが)だから、今回の発表のスタイルは前回までとは幾分異なると思うし、本書の内容を網羅できないが、よろしくお付き合いを願いたい。

障害者の「自立生活」とは

 健常者が親から独立し、自立や独立していくというのは一般的である。(最近はパラサイト・シングルや引きこもりなどが問題化しているが)どんな職業に就こうが、どんなライフスタイルで生活しようがその人本人の自由であり選択可能な範囲が(人によってばらばらだが)多くある。その範囲は、障害者(ここで言う障害者とは主に身体障害者を指す)はかなり狭いといえる。特に日常生活で介助が欠かせない人たちや職業をもてない人たちは特にそうである。そうした人たちの「自立生活」とは、自分の生活を、自分ひとりではできない部分を、介助を得ることによって成り立たせていくことである。入所施設では日課があり自由度はかなり低い。親元にいたのでは家族が介助のほとんどを占め本人の自由度はおのずと低くなる。だから、親元からあるいは施設から出て暮らすことになる。そして、必要な介助はボランティアや有料介助者でまかなうことになる。となると、介助者を雇うための原資(資源)が必要になり、これまで税金によって現物・現金が支給されてきた。
 そうして得られた生活の中身はというと、各々によって違うので一概には言えないが、一例は示すことができる。

介助関係における自己決定・パターナリズムと利用者主体

介助関係において自己決定が大切なことは当然のように思える。しかし、その範囲が問題になることがある。障害者自身が自分の介助について他の人や機構に決定されないという意味での自己決定であるのが妥当だ。介助内容は豊富にしてもらいたいがそれによってかかる費用は少なくしたい、などという自己決定は介助者側からいえば受け入れられない。端的にいえば「わがまま」でしかない。だから、介助を受ける本人(利用者)は内容を変えてまた決定しなければならない。サービスを提供する側は「わがままだ」・「不適切」ととらえ介入し、利用者を「説得」し、ある程度のところで両者の落としどころを見つけていき、介助関係を継続させていく。それが責任であるとされる。つまり、利用者の主体性は尊重しながらもサービス提供ができる範囲の自己決定をするように導くのである。それは「関係の援助」ともいわれ、職務として実際に私が行っているのはパターナリズムである。「関係の援助」とはなんともいやらしい言葉だと思うが、おそらく、「その人自身の人間関係全体を援助するのではなく、その人自身が望む結果(方向性)へと導くために必要な人間関係を構築していく援助である。」ということになるのだろう。ここになんともいえない不全感が私に残る。

機構について

介助を支える機構について、その成立根拠を立岩氏は述べている。
 「それぞれの人の生きる権利を認めるとは、すべての人がその人がそれぞれ介助が必要であれば介助を得て生きるためのことをなす義務を負うことだと考えるなら、唯一強制力を有する国家が費用を集め配分する主体としての役割を果たす。すなわち、サービスは基本的に有償とし、税金等の再配分によってその費用がまかなわれる。それが介助を実際に行う人に支払われる。」(p256)
 そして、「基本的に直接選択の機構である。本人による決定、選択」であるという。さらに、どの程度の水準かといえば、「ノーマライゼーション」つまり、「『人並み』の生活をすることについて決定できる」経済的水準だ言う。
 これについて私は基本的に賛成であるのだが、私が知る数少ない「自立生活」をしている障害者の中には、「人並み」以上に遊んでいるが、「介助者を使う」ことを覚えずに、でも不満を訴え周囲の人間を引っ張りまわす人もいる。そういう人と関わっている時間が多いと思わず『自立しろよ。なんでも人任せがよければ施設がいいのか』と思うことは正直いってある。

(いきなり)障害者と健常者の関係論

 7章を読みながら、また、仕事をしながらでもふと湧き上がってきた思いがある。障害者の福祉は向上して来て、まだまだ足りないと思うこともあるが、果たして福祉サービスが充実していけば、『共に生きる』ことはできていくのだろうか、ということだ。障害者も健常者も便利さ・快適さを求める志向は変わらない。制度が両者を分断するとまでは言い切れない部分もあるが、そうでない部分は―便利さ・快適さを求めるがゆえに―大きくなっていくのだろうと思う。
 そうはいっても、世間で知られる障害者は『がんばっている人』や『ボランティア』の対象でしかないので、普通に障害者が暮らしていけるようになればいいとも思っている。

(いちおう)おわりに

なんとも歯切れが悪いのだが、致し方ない。立岩さんのように覚悟を決めれば、なかなか面白い仕事とはまだまだ思えないが地道にやっていこうとは思う。(めんどくせー)




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UPDATE 2002/10/17