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永井均「これがニーチェだ」 要約

まさ

■1 第一空間 ニヒリズムとその系譜学

○1 神の死とニヒリズム

 神の死により、これまで人生に意味を与えていたものが嘘であることがわかる

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 人々をニヒリズムに陥れる

 人生は無意味になり、生きる甲斐もなくなる

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 だがそれは、無であるものを誠実に無であると認めたことであり、悦ぶべきこと、誇るべきことである。真実を受け入れる用意のある誠実な強者にとって、それはむしろ正常な状態の回復なのだ。認識者のあらゆる冒険がふたたびゆるされるのだから。

○2道徳の系譜学

 ルサンチマンについて

 貴族的価値評価とは、自分で自分をよいと感じる、力ある者の自己肯定の感覚、為した業績や他人による評価に基づかない自分の存在そのものに対するこの自己肯定の感覚である。一方の僧侶的価値評価とは、それができない弱者の羨みと妬みと僻みにある。だから、その本質は他者を否定することによる間接的な自己肯定である。「あいつらは本当は力がない」といったかたちで、すでにある価値空間の内部で相手を貶すのではなく、「力がある−ない」といった価値空間それ自体を実質的に否定できるような、別の空間をつくりだすのである。ぶどうに手の届かなかった狐が「あれは酸っぱいぶどうだ」と言ったとしても、それはすでにある価値空間の内部で対象の価値を引き下げているにすぎない。そこではまだ価値の転倒は起こっていない。価値の転倒が起こるのは、「ぶどうを食べない人生こそがよい人生である」と、人に言いふらすだけでなく、自分の内部で実感したときである。

 キリスト教的「原罪」の観念→ゆがんだ債務−債権関係と、良心のやましさ

 身に覚えのない借金を勝手に(いや愛ゆえに)返済してもらっていた

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 良心のやましさ→神に対する精神の奴隷

 「これまで人類の頭上を覆っていた呪いは、苦悩そのものではなく、苦悩に意味がないということであった。しかるに、禁欲主義的理想は、人類に一つの意味を提供したのだ。だが、この解釈は新たな苦悩をもたらした。より深い、より内面的な、より有毒な、より生を蝕む苦悩である。それはあらゆる苦悩を罪というパースペクティヴのもとに引き入れたのである。、、、にもかかわらず、人間はそれによって救われたのだ。」

 こうして、(転倒したパースペクティヴの内部ではあるが)僧侶は力への意志に活路を与えた。その土壌の上で、真理への意志、誠実さが育てられた。キリスト教によって学問的良心にまで鍛えられたこの真理への意志、真理へのこの誠実さこそが、キリスト教の虚偽を暴き、それを打ち倒すことになる。自分に嘘をつかずに、誠実に考え直してみるならば、神などじつは存在しない。神の国もじつは到来しない。こうして「神」は死ぬ。

 第一空間とは、真理と虚偽の対立ではなく、誠実さと嘘の対立である。ここでは誠実さが力の強さとして解釈され、およそすべての価値対立が強弱の対立に一元化される。

■2第二空間力への意志とパースペクティヴ主義

○1力への意志

 何かを欲求し、目指すこと、それはすべて力への意志の発現である。存在するのは、すべて力への意志という一種類のものだけなのである。「強者と弱者は全く同じように振る舞う。どちらもできるかぎり自分の力を拡大しようとする。」ニーチェの力への意志説は、キリスト教的ニヒリズムの系譜学的研究から学ばれた。

○2パースペクティヴ主義

 理解するとか認識するといったことは、本質的に価値評価することであり、自分の固有のパースペクティヴ(観点)から世界を秩序づけ、外界を自分の価値評価にあわせて裁断することである。各々のパースペクティヴは、自分の世界解釈を押しつけようとし、他のパースペクティヴをおのれのパースペクティヴの内部におさめて位置づけ、評価しまた断罪することによって、より大きくなろうと鎬を削りあう。パースペクティヴの強さはその大きさである。

 この闘争で勝敗を決する共通のそして究極の基準はただ、どちらが生き残りどちらが消滅するかだけである。

 弱者はどうしてもこの事実を認めることができず、じぶんのパースペクティヴの特権的真理性を僭称せずにはいられない。そういう手段によってしか勝てないからである。

 (第一空間において、その虚構を明らかにした。)

 しかし、すべては解釈であるというパースペクティヴ主義の真理性は、本来、語られることではなく、示されることなのだ。実際に別の解釈を提示し、真理とされていた解釈を凌駕してみせるという実践のうちに「どんな認識も解釈である」ということの真理性がおのずと示されるのである。強者はただ示すのみである。

○4「弱さ」としての「力への意志」

 金持ちが贋金を必要とはしないように、強者は自分に合わせて世界を解釈しようとはしない。むしろただ真理を知ろうとするはずである。ただ真理を知ろうとする者と、自分に合わせて世界を解釈しようとする者と、どちらが強く高貴で、どちらが弱く卑小であるかは明らかであろう。何ら力への意志のあらわれではない、たんに力のあらわれにすぎないような、真理への意志というものがあるはずなのである。

 だがそれは第一空間にもどることではない。なぜなら、真の強者は決して誠実などではないからである。誠実という徳にはどこか力への意志の臭いがする。その出自からみても、それは恐らくルサンチマン的な価値なのである。力ある者は、誠実などではなく、ただ率直であるはずだ。おそらく、誠実さは下品な徳なのだが、率直さはそうではなく、自己に対する自信から生まれる高貴な徳なのである。この差異に感度を持つ人なら、第一空間が、第二空間を経て、さらに第三空間へといたらざるをえない必然性を、その差異の中に読みとることもできるに違いない。

 貧乏人のパースペクティヴからは、すべての人間がもっと金持ちになりたがっていて、それには例外がないように見える。人間の行動のすべてはそれで説明がつくように見える。そう見えるのはじつは自分が貧乏人であるからにすぎないという真理は、そこからは見えない。同様に、力なき者のパースペクティヴからは、世の中すべては「力への意志」で説明がつくように見える。

 力への意志は力を語る、力はただ示される。

■3第三空間永遠回帰─遊ぶ子供の聖なる肯定

○1永遠回帰の襲来

 人生はこの一回で終わり、ということを強調している。

 生が回帰するとしても後悔しないように生きよ、などと説教をたれているのでもない。たとえどれほど惨めな人生であっても、それがたまたま自分の人生であり、それがなぜか存在したということ、そのことに外部からの評価を加えることはできない。それがそのように存在したこと、そうであったこと、それがそのまま価値なのである。

 これは、人々に向かって語ることが社会的に意味のあるような主張ではない。この上ない孤独の中でのみ、つまり群棲の様態でなく独在の様態で捉えられた人間にとってのみ、それはかろうじて意味を持つ考え方である。

 過去の「そうあった」を「そう欲した」に創造し変える。意志を事実に一致させる。意志をそこまで強くすること。

 →やせ我慢ではないか?ルサンチマンの最高の形態ではないか?

 ↓

 この思想は、最後の審判や神の国の実現といった視点から「現在」を位置づけるような、すべての目的論的世界解釈を否定する。つまり、永遠回帰思想の最大のポイントは現実肯定にある。

 そしてそれは、意志の力によって強く肯定されてはならない。この人生を、それ自体として、奇跡として、輝かしいものとして、感じるがゆえに、おのずとなされる肯定でなければならない。

○2意志の否定

 第三空間におけるニーチェの主張では、意志は存在しない。

 「意志が弱い、というのは人を誤らせがちな一つの比喩にすぎない。なぜなら、意志というものは存在せず、したがって強い意志も弱い意志も存在しないからである。衝動が多様で分散しており、それらの間の体系が欠如しているとき、それが結果的に『弱い意志』となってあらわれ、単一の衝動の支配のもとで、それらが調和しているとき、それが結果的に『強い意志』となってあらわれる。」

 何かをしようという私の意志は、私の意志によって作られたものではない。意志は結局は湧き起こってくる意欲にすぎない。それは起こすものではなく起こることなのだ。

 第三空間には、背後に隠された「欲望」などは存在しない。遊ぶ子供には、意味は存在するが意味づける主体はどこにもない。世界と自分は、分離されない形式そのものであり、それがすなわち内容なのである。

 第二空間から見れば、第三空間はまるで力の衰弱現象であるかのように見えるはずである。力への意志の哲学からは、力の充溢からもはや何も意志しないという可能性が、視野に入らないからである。

 

 超人は、本質的に社会的存在ではない。超人は決して連帯しない。多くの人が超人のイメージをうまくつかめないのは、暗黙のうちに、世界の本質を多数の人間が織りなす社会と感じているからだろう。ニーチェは世の中をよくしようとしたのではない。むしろ、世の中がよくなることがよいことなのではないということを教えようとしたのである。

 超人は、文字どおり越える人である。彼は空間を越えていく。だから彼は、肯定するための否定であり、意志をなくすための意志であり、もはや何も目指さないことを目指す、矛盾した形象であらざるをえないのである。

○3運命愛と〈神〉の復活

 すべての出来事は、そして世界は、ただの偶然、ただそうであるだけのことである。現にこうであることに、何の根拠も、何の理由も、何の意味もないのだ。

 だが、もしそのすべてが繰り返すとしたらどうだろうか。すべてが、その偶然性を維持したまま必然と化すことになるだろう。なぜなら、それ以外の出来事は起こりえなかったのであり、また決して起こりえないからである。

 どんな悲惨な出来事も、どれほど深い苦悩や不幸も、それが生成した、つまり唯一の「偶然=必然」として現に起こったというそのことにおいて、それ自体としては、光り輝いている。究極のところは、生成の世界から取り除かれるべきものなど、ありはしないのだ。

 存在するすべてが肯定されるのは、究極的な価値基準によってそれらが肯定されるからではない。「よし」とする裁きがなされるからではなく、およそ裁きなどなされえないからこそ、存在するすべては端的に肯定され、それ自体で輝くのだ。

 永遠回帰は、目的なき無意味な日々の繰り返しのうちで、世界と一体になって遊ぶ子供の、現在の肯定感そのもののうちに自ずと示されるほかはない。選択的欲望の、すなわち力への意志の、対象とはなりえない。

 永遠回帰とは、主張ではなく祈りではないか?

 「汝なすべし」より高いのは「われ欲す」、「われ欲す」より高いのは「われ在り」

 駱駝の「汝なすべし」、獅子の「われ欲す」に次ぐ子供の段階が、「われ在り」と表現されている。もはや他律でも自律でもない、無垢であり、忘却であり、遊戯である「黄金の自然」がそこにあらわれる。




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UPDATE 2002/10/17