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『強者・弱者、力への意志』

たいち

 今回、『これがニーチェだ』で言われている「力への意志」が実際の生活の中でどのように解釈し、取り入れることが可能なのかということを、ニーチェ、永井氏、西氏、私の考えなどを織り交ぜながら考えていきたいと思う。そして、「力への意志」というものが少しでも明確になっていければ幸いである。

「力への意志」について。

 まず西氏の考えでは、ニーチェは、全ての生命体にはたえずパワーアップし高揚しようとする「力への意志」が存在していると考えている。そして、その「力への意志」の行き着く先にはルサンチマンにとらわれない「超人(末人)」というものを位置付けている。しかしこの「超人」というものは決して固定的な理想だけではなく、常に自分の中に新しい価値を見出し、それに向かって生きていこうとする姿を差した言葉である。〈つまり、ものすごい頑張屋さんと言えるのかも知れない。〉(伊藤)

 そして、「超人」は「憧れの矢」を放つ存在として描かれているが、「憧れの矢」を放つ人間だけが素晴らしいと言う訳では決してなく、新しい生き方を創造する人間が、周りの人間たちに希望を与えると言う発想がニーチェの中に確実にある。つまり、ニーチェはあらゆる最高の価値を否定したけれど、「人間」や「文化」というものへの関わりを捨て去ってはいない。(西研)

 また永井氏は「力への意志」は、もっとも弱い者においては「自由」への意志として、中間の者においては「公正」への意志として、そしてもっとも強い者においては「愛」として現れる!

つまり、その背後にはルサンチマンが潜んでおり、「弱者」がゆえに「超人」に憧れるのだ!(永井)と書いている。

 では次から私と「力への意志」との関係に移りたいと思う。

 私は、卒論のテーマでもあった「自我の格率」の中で、自分の生き方としての指標を探していた。もちろん自分勝手に生きるつもりもないし、人に迷惑をかけて生きるつもりもなかった。私が掲げたのは「楽しく生きる」である。

 「楽しく生きる」というのは、「いかに自分が周りの人達と共に生活をしていきながら楽しく過ごすか」と言う意味合いであり、先ほど行ったような、自分勝手に生きるつもりはない。でも今までに、自分勝手にしてきた時期もあるし、自分自身が嫌いになったこともある。しかし、そんな自分は嫌いだったし、つまらなかった。だから自分というものをいかにコントロールし、楽しむことが出来るのか。これが私の考えた生き方だったのである。そしてその、「楽しく生きる」ために必要になった考えが、私にとって「力への意志」だったのである。

 「今という時間をとても充実とした時間にするために必要なこと。」私にとっては今の自分を肯定することとした。今の自分を肯定するためにはそれまでの自分というものを肯定しなければならない。そしてそれまでの自分を肯定することとは、それまでしてきたことの責任を負うことであり、今後の自分の行動にも責任を持つことである。このときに、ルサンチマンに流されない、強い自我というものに憧れたのだと思う。

 でも、決して私は強者と言う訳ではない。むしろ、永井氏の言うとおり弱者だからこそ強者に憧れているのだろう。人一倍くよくよするし、落ち込む時はものすごく深く落ち込む。でも何時までもそうしていると、自分の掲げた「楽しく生きる」ということを実践できない。だから頭を切り替えて自分が楽しめることを考えようとする。そのために「力への意志」が必要だったのである。

 もちろん私が考えている「楽しい」というものには人道的、社会的、道徳的、といったものが含まれている。それを周りと共有していくために、話し合い、考えていくこと、そして考え続けていくことが必要なのだと考える。

 でもこの生き方は辛く、大変なこともある。間違いを起こしてしまうこともあるし、嫌な目にも合う。全ての人に向いている生き方とも思えないし、果たして自分自身でもいつまで持ち続けることができるかは定かではない。しかし、この生き方でとりあえず行ける所まで行ってみようと決めたのだから、最後までやってみようというのが私のスタンスである。

 ただの理想論に過ぎないという批判や、不完全であるという指摘もあると思うが、それを何とか成し遂げようと目指すエネルギーというのが大事であって、そのエネルギーを支えている考えが「力への意志」なのである。

 ニーチェの言う「力への意志」を良い所取りをしているようにも思われるかもしれないが、「力への意志」というものを狭義的に捉えずに、幅広く捉えることも部分的には必要であると思う。

 私の考えが少しでも役に立つことがあれば幸いである。




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UPDATE 2002/10/17