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ルサンチマンの現代検証U

あっこ

現代にもルサンチマンはある。というより、きっとニーチェが否定したがるだろうルサンチマン的構造を、専ら奨励しながら、私たちはソレを行っている!という感覚を検証するのが、論文の目的である。結構便利で否定し難いものとして、誰もが価値の顛倒を行い、その根底に抱えているのではないでしょうか。「ルサンチマン」。

前の発表で「ルサンチマンの現代検証T」を書いた。でも多分みんな忘れていると思うので、概略を示そうと思ったのだが、余りに間違った部分や浅い考察があったので、改良版で要約する。内容はこんな感じ。

<ルサンチマンの現代検証T改訂版要約>

■ルサンチマンの説明

 ルサンチマンとはニーチェが定義づけをし、自説を語る上で使用した言葉。これはフランス語で、「ル=反復」+「サンチマン=感情」である。英語表現でこれに相当するものは「resentment:憤慨、憤懣、恨み」。日本では、「恨み、妬み、怨恨」または「反復感情」と訳される。使用される時と場合と使用する者によって、その意味の解釈は異なることが多い。ここでは、次のように定義づけたい。

「ルサンチマンは、復讐を目的とする価値顛換・価値捏造の基になる、恨みや妬みの反復感情のことである。」

 キリスト教思想の中に、ルサンチマンを見ることができる(むしろ、ルサンチマンによって作られている)とニーチェは言う。「貧しきものは幸いなるかな」に代表される思想は、本質は他者や現状を否定することから発する自己肯定である。この肯定は、ニーチェの推奨する直接的自己肯定ではなく、反動的に行われる。

■「道徳」と「善悪」の2種類

 ルサンチマンは、ニーチェの「道徳」や「善悪」観を語る文脈の中で登場する。

<道徳の2種類>

 「奴隷道徳」と「君主道徳(貴族道徳)」にわけられる。奴隷道徳に従う僧侶型人間と、君主道徳に従う貴族型人間という、それぞれの道徳の下に生きている者達の類型とリンクしている。この類型は、「力への意志」の質を表している。

 貴族は自発的な自己肯定を行い、僧侶は反動的な自己肯定を行う。『道徳の系譜』の中では、奴隷道徳のほうを主に取り上げ、そこにある「禁欲主義的思想」に対して、ニーチェは激しく非難する。この「禁欲主義的思想」が、人々をニヒリズムに埋没させ、ルサンチマンから発する道徳に従わせ、それによって人間を凡庸化させる。

<善悪の2種類>

これらの道徳に含まれる善悪には2種類がある。ニーチェの肯定する「本来的・本質的」な意味としての<よい(優良)><わるい(劣悪)>。もうひとつは、顛換された価値観である<善><悪>。ここで使われる善悪(カッコなし善悪)は、一般的に使われる価値観の善悪。<三角カッコ>は、ニーチェの思想による2種類の善悪を説明するものとする。

@<グートよい(優良)><シュレヒトわるい(劣悪)>

<よい>という価値判断は、直接的・自発的に(高貴な者から)沸き起こってきたものである。まず<よい>があって、そこからの対比として<わるい>が(下層の者の中に)見えてくるという、この順序をニーチェは強調する。 ここでの価値方程式は「善い=高貴な=強力な=美しい=幸福な=神に愛される」

A<グート善><ベーゼ悪>

 @で説明したものとは逆に、この場合の価値の成り立ちは反動的なものであり、先ず最初に<悪>が指摘され、そうではないもの・その逆を指して<善>が生み出される。ここでは価値が顛倒されており、これを指してニーチェは「道徳における奴隷一揆」と表現している。 価値方程式は「善い=貧しい=無力な=醜い=惨めな=賤しい=神に愛される」

■考察

 私たちが生きている世界は、ニーチェの否定したような構造を持っているのではないだろうか。現代においては「価値の絶対性」はそれ自体が否定されている。そうなると、「捏造」という言葉は最早相応しくない。では現代においては「価値顛倒・生産」は、誰でも行うことであり、むしろ肯定的に語られる節もある。と言えるだろう。例えば、「元気に明るく楽しく幸せに生きていく為に、自分独自の価値観を形成していく」という言い方は既に市民権を得ているし、耳障りも悪くない。精神上で果たせる復讐ならば、例えば何かの力では敵わないものを「軽蔑する」等、(キリスト教では「敵を愛せよ」というものがソレ)目に見えて反抗しない分スマートなやり方だし、行っているだろう。そしてニーチェが「キリスト教的」と評する「道徳」を使用して生活している。私たちが遵守しているありとあらゆるものは、おそらくニーチェに一旦は否定されたものだ。

 ただそれはそんなに悪いことだろうか?今私たちはルサンチマンをおそらく有用している。私達の「肯定」を生み出している下地に、ルサンチマンはあるのではないだろうか。有用できる、しかも肯定できるあり方として有用できるのではないだろうか?このような仮説を、ニーチェが非難した視点を使って仔細に見ていきたい。

なんていう感じが「T」の要約。それについでに色々盛り込んだものが以上。これはUの考察へと続くハズ。

<ルサンチマンの現代検証U>

◆ルサンチマンについて竹田青嗣が書いていることに意見

 今回は竹田青嗣の『ニーチェ入門』から色々抜粋して、「ルサンチマン」にまつわることをより明確に出していこうと思う。(以下より『』内は抜粋)

『ルサンチマンの思想が現れる根本の理由は、この世に強者と弱者(あるいは優れた人間と劣った人間)が存在しその序列が存在するという動かしがたい事実を、否認することから始まる。つまりルサンチマンの思想は、「願望と信仰」から、すべての人間が「平等であったら良いのに」とか、「平等であるべきだ」という考え方から身を起こすのだ。そしてこの考え方を追い詰めると、見てきたように必ず「生の否定」まで行き着くことになる。』

この文に含まれる「平等」から「生の否定」までを説明しているのが以下である。

『支配されていた弱者達のイデオロギー上の勝利(ヨーロッパにおけるキリスト教の勝利)は、「人間は神のもとに平等である」というイデオロギー、そして、「人間は生まれつき平等である」というイデオロギー、これらは「優れたものと劣ったものが存在する」という事実の否認から生じるルサンチマン思想のイデオロギーに他ならない。この人間の「平均化」は何を意味するか。互いにその「自由」を拘束しあうこと。そのことによっていっそ凡庸化し、虚弱化した人間を制度的に作り出すことである。』

『ヨーロッパの歴史では総じて、大多数の人間のルサンチマンを巧みに組織した者のみが支配者となりえた。このため、社会全体が潜在的にルサンチマンの量を増やし続け、しかもそれを打ち消す為に一種の平等主義を強く押し出すという性格をいっそう濃くすることになる。 この平等主義、平均化の思想は、一方で他人の幸福を妬む心性、他人がより積極的により大きなエロスを味わうことを許したくないという心性の、現実的な制度化を意味する。隙さえあれば自分こそが上に立ちたいという競争機会の制度化を意味する。こうして近代的な平等主義は、総体としてますます人間の「凡庸化」の制度となる。

 平等イデオロギーは、自分達は貧しい、ゆえに苦しい、だから貧富の差は存在すべきでないと主張する。それは元を正せば、強者と弱者の秩序自体が不当なものであって存在すべきでない、したがって人間は全て平等であるべきだ、というキリスト教的、ルサンチマン的推論をその源泉としている。またそれは、強い人間と弱い人間が存在するという動かしがたい現実を否認することによって、個々人が人間として持っているはずの真の課題を取り逃すのである。』

 平等を志向することが、差異を認めない・無いものとする為の思い込みとしての平等思想であれば、それはニーチェの説通り、否定的に語られるルサンチマンであると言えるだろう。しかし、「差異を埋めたい」という欲求自体が、ルサンチマン的平等思想に毒された結果とは決して断言できない。「差異を埋めたい」という欲求は、弱者とは別の場所から発せられることだってある。違いを見ようとする視線があれば、ひとどうしは全て違う。ただそこにはおそらくかなり自然に、仲間や、親子や、敵や・・・というカテゴライズが行われることになるだろう。そもそもひとりひとりが、個々人として違う者達としてカオスに存在しているということは在りえない。必ずなんらかの枠を認知している。その枠内に対する「同等」(「または逆の」)意識が芽生えるのは自然なことだと言えるのではないだろうか。これはそのまま直接「平等」意識へとシフトしていくだろう。そこには、ルサンチマンを解消し埋め合わせるような「同じであるはずなんだ」という権利意識が先にあると言うより、「同じだ」という当然意識の方が先に来ているのではないだろうか。(もしくは「(敵と)違う」という欲求)ここで自然と言われる「同じだ」も、認識である以上「価値判断」を含む(※)。現状をそのままカオスとして写し取ることが不可能なのだから、「実際を否定する」というルサンチマンの要素を持っているといえる。

 また、平等が弱者の目線で切り揃えられた場合、ニーチェの危惧するような「課題の取り逃がし」が発生してしまうだろう。愁うはずの現状を無理矢理納得させるストーリーを作ることによって、その現状を脱することを永久に不可能にするからである。けれども、平等は何も強者が下に下りていくとは限らない。むしろ弱者をその能力に不相応に引き上げる作用があるのではないだろうか。そこでは課題の喪失はなく、平等の権利を受け取る為に、弱者は責務を果たさなければならない。「生の否定」方向に働かない現状打破だとしても、「現状の享受・全肯定」を条件とする永劫回帰思想とはズレが生じる。

『ルサンチマンとはつまり、自分がこうしか生きられないという事実に対する心理的な反動形式に他ならない。「凡庸な人間」は、自分の存在のみすぼらしさの「原因」を過去(=「そうあった」)にたずね、それが「動かしえない」ものであることに怨恨を持ち、復讐しようとする。』

『ニーチェによればルサンチマンはいつでも人間における「人間的なもの」をスポイルする最大の原因なのだ。』

以上の竹田氏が抜粋するニーチェ説は的を得ている。ただスポイルに関して言えば、やはり別のケースだって考えられるだろう。ルサンチマンの効果は多々あれど「正当化」や「悦びを取り出す作業」でもある。ルサンチマンを解消するやり方が不明確であり、不可能であるならば、この作業を「しない」ということも「人間的なもの」に対する反逆でありうる。


 ※「認識である以上「価値判断」を含む。」を説明する文章を紹介する。 『哲学において「認識」とは、つまり「現実の打ち消し」というモチーフを隠している。それは、生が本来孕んでいる「無秩序と矛盾」を直視しないで、常に世界を整理されたものと見ようとする一種の「弱さ」からきているのである。ドゥルーズはこれを「認識と生の対立」と呼ぶ。』

◆永劫回帰を竹田青嗣から紹介して意見

(永劫回帰へ至る為)『「ニヒリズムを徹底すること」。それはつまり人々から「何の為に」を永久に剥奪することを意味する。この世のどこかに「真なるもの」が存在するわけでもなければ、何者かが世界の「目的」や「統一」を伺っているわけでもない。 ニヒリズムの果てに現れる「聖なる虚言」すなわちこれまでとは全く異なった新しい「価値創造」の原理でなければならない。何故「永劫回帰」が「価値創造」へと転化するのか・・・。』

『「永劫回帰」は単なる「救済の物語」ではなく、ひとつの生への深い「了解」。』

ニーチェの説には大きな穴が沢山ある。矛盾やジレンマを多分に含んでいる。私がニーチェ本・及び解釈本を読んでいて感じたことは、「ルサンチマンは捨てきれない」ということだ。確かにルサンチマンを抱かずに生きる方法として、ニーチェは永劫回帰を示したのだが、可能か不可能かと考えると永劫回帰は不可能である。ニーチェ的な文脈からいっても、以前の説との不一致が見られたりする。また現代は、永劫回帰まで辿り着くためのニーチェが示したプロセスとは、ズレた所に既に来ているのではないだろうか。永劫回帰へと至るまでは、まず「ニヒリズムの徹底」がなされなければならない。完全なる無価値の受け止め、「ただそうある」という価値判断を含まない大いなる肯定が、果たして可能だろうか。永劫回帰という、「聖なる虚言」(つまりニーチェとしても嘘なのだ!)へと辿り着く前に、人間の歩んだ道はニーチェの予言したものとは違う方向へと進んだのではないだろうか。確かにニーチェの危惧する「キリスト教的思想」は下敷き的にあると思われる。善悪や真実(とされる良いものや悪いもの)や道徳を、そのフィクション性にそこまで自覚的にならずに私たちは使用して生活している。永井均『ルサンチマンの哲学』で示された例に「ハンスト」がある。兵糧攻めならわかるが、ハンストがなぜ抗議になりうるのか。そこには私たちが敷いている、染まりきっている善悪の観念があるからだ。自分を弱い立場へ無理矢理追い込むこと(飢えること)によって、敵に対して強者になりうるというのは、かなり特殊なストーリーに乗った価値であり、「貧しきものは幸い」なキリスト教的思想に他ならない。キリスト教思想に代表される平等思想が根底にあるからだ。自覚せずに、ルサンチマンを携える生き方を私たちはしている可能性は大きい。それで私たちは果たして「凡庸化・虚弱化」にむかって突き進んでいるだろうか。誰かその自覚はあるのだろうか。(ニーチェによって)一体どこを非難されるというのだろうか。このような疑問を抱くように、ニヒリズムは人々の中に部分的に張り付くのみに終わり、徹底されることはなかったように思う。

 以上のように既にニーチェの予想を外れた位置にいる現代が、永劫回帰を果たすのは不可能に近いし、まずもって永劫回帰が社会的になされるとはとても思えない。では個人の内部で果たされるものだろうか。これも些か困難だろう。ニヒリズムの徹底が、個人の一人生の内で成され、そこから永劫思想に達するには、ひとの生涯は短い。それではこの永劫回帰思想から何が汲み取れるか。永劫回帰の達成ではなく、永劫回帰思想の了解である。ニーチェ自身も、ある湖水のほとりでこの思想に「襲われる」のだ。この了解が、ルサンチマンからの開放を果たさせてくれるのだろうか。

◆ルサンチマンと永劫回帰について考えたこと

 誰かから指摘されて、痛さや羞恥を感じるルサンチマンは、確かにニーチェの言う通り、抱くことに問題があるだろう。問題点は、ニーチェの指摘通り、自分にもたらされた課題を、解くことが不可能な場所(つまり別の・ないものとしてしまった価値空間)へと追いやることになるということだ。課題を忘れることも出来ずに、苦難を直視できない自分の在り方を、結局は否定することにしか繋がらないからだ。それは、ルサンチマンの隠蔽という表現が当てはまるだろう。

 では、指摘されてもそれを直視できるルサンチマンであればどうだろうか。取れなかった葡萄に対して、「あんな甘いもの身体に良くない。葡萄を食べないことの方が良い人生だ」と価値顛換を行った狐が、「葡萄に手が届かなかった腹いせでは?」と指摘されて、「確かに本当は食べたい。でも食べない方が良いと本当に感じている」という状況だったとしたら。ここでもルサンチマンは働いている。狐は「葡萄を取れない未熟さ」という課題を取り逃してはいるが、その課題は既に認められ解消されている。ルサンチマンそのものは隠蔽されていない。ここではルサンチマンは解決はされていないが解消されている。

 ニーチェが指摘したルサンチマンの代表「キリスト教思想」は、この後者に当てはまる。神の教えに背くようなことを信者は望まない。ただ、「金持ちになりたいか」という問いに対して、果たして「幸いである貧しさ」を強固に訴える者が全てだろうか。これは想像に過ぎないが、おそらく「より貧しくなりたい」のではなく、「貧しいことは良い」に過ぎない。現代の日本人である私から見ると些か強引なこの価値は、狐の生産した価値とは異なっている部分がある。狐は「本当は食べたい」けれど、身体に悪いものを食べて病気になったり、ひいては死んだりしたくない。それは目先のものに対する欲求を抑えることで、自分の生全体を通しての、もっとマクロな欲求を叶えようとする意識がある。欲求が高次に移ったのである。キリスト教思想も、現世(目先)を自制し、彼岸(今後)を達成しようとする意識がある。この二つの違いは、その欲求が現生に関わっているかどうかである。ここにニーチェの永劫回帰思想が関わってくる。キリスト教思想では、原罪を背負った業の現世の次には、めくるめく彼岸が設定されている。これを信じている人間にとって、現世は彼岸に至る為のステップに過ぎない。天上へ辿り着くまでの道であり、全ての現象は神の思し召し、つまり、来世の為にひとは生きている。しかし永劫回帰思想では、現世の次に用意されているのは、今まで辿ったものと寸分違わぬ現世である。ひとはあくまで現世の為に生きなければならない。ニーチェのルサンチマン非難は、キリスト教思想に見える、現世を越えた価値を捏造することに大きくかかっていたのではないだろうか。 以上の考察はニーチェの説を説明したものではない。あくまで私の考察に留まる。ニーチェが永劫回帰思想で説明しようとしたものが何なのかは今となっては解らない。こめられたメッセージを正確に読み取ることは、ニーチェ亡き後は不可能になってしまった。言葉を鵜呑みにした解釈では、永劫回帰は不可能としか言いようがない。やはり永劫回帰は達成ではなく、了解という形で扱う思想なのではないだろうか。ツァラトゥストラがかつて悪魔からこの思想を告げられたように、私もニーチェからまるごと受け取る以外ないように思える。

◆ニーチェに対する文句と最近考えたこと

 ニーチェの(多分)指摘していないことがある。現代において、「強い」や「金持ち」という高貴さが、他の低さを関係としない完璧な直接的自己肯定をしていると言えるだろうかという点だ。確かにここには何かの否定を必要としない肯定がある。もしくはあっただろう。しかしニーチェの言う「顛倒した価値・道徳」を敷いて生きている私たちは、ニーチェの言う「直接的自己肯定(誇らしい自己肯定)」も、「奴隷一揆」で勝利した価値を「否定」しないと獲得できない。私たちが敷いている世界は、既に顛換した後の世界なのだ。既に一揆の起こった世界で、ルサンチマンを抱くのは一体誰なのだろうか。 強者が、自分の都合にあわせて世界解釈をしない(ルサンチマンを抱かない)というのは、それが「強者だから」ではなく、現時点の世界解釈の方法に沿った生き方をしていると言うことにならないだろうか。価値判断の様式にあわせて生き方が決定されているのではないだろうか。自分に合わせて世界解釈をしようと試みる方が、ずっと生に忠実で、自分の生に確信を抱いていると言うことが出来そうである。己の生感覚に確信を抱くこと、即ち、価値を顛倒・生産することを厭わない自信と、価値に沿っていることで自動的に力を手にするものと、どちらが「ルサンチマン」的存在なのだろうか。

最近気が付いたことは、ニーチェの思想の中で、同情という感情が大きなポイントとなるのではないかということだ。それは読み返してみれば、ツァラトゥストラが永劫回帰へと至る為の一番の難関であり、捨て去らなければならないもので、最終的に本文では達成されない唯一の行いだった。ルサンチマン解決の可能性を遮り、ニーチェの放つ問題点の根幹を成しているのは「同情」ではないだろうか。そして、私の立てた仮説である「現代におけるルサンチマンの有用」に、この「同情」が深く関わっているのではないだろうか。

◆最後に。そしてそれは最初に書いたこと

卒論は、ニーチェが思い切り否定的に斬った「ルサンチマン」が、現代においては肯定的な存在としてあるのではないか?という仮説を立てて、それを検証していこうという流れです。そうなる予定。具体的な検証の対象をこれから考えるというのが、今夏の一番の課題でネックでした。進行具合は芳しいとは言えないです。 大まかには「ニーチェが畜群道徳と呼んでいる現代で支持されている「道徳」」をとりあげて、そのルサンチマン性を示したり、なぜ肯定されているかを示したりしようと思っています。また、現代手放しで肯定されているものに、ニーチェの思想を借りてメスを入れていこうとも思っています。オルタナティヴなものを目指してというより、あくまで現代検証で。 ひとつ大きなテーマは「平等」。

長々お付き合い有難うございました





依拠・参考文献
「これがニーチェだ」永井均講談社現代新書1998
『<子ども>のための哲学』永井均講談社現代新書1996
「ルサンチマンの哲学」永井均河出書房新社1997
『実存からの冒険』西研ちくま学芸文庫1996
『ニーチェとの対話』西尾幹二ちくま新書1978
『ニーチェ入門』竹田青嗣ちくま新書1994
『現代思想からの冒険』竹田青嗣ちくま学芸文庫1992
『哲学と人生』原佑東京大学出版会1962
『道徳の系譜』(『善悪の彼岸/道徳の系譜』)ニーチェちくま学芸文庫1993(1887)
『ツァラトゥストラはこう言った』ニーチェ岩波文庫1970



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UPDATE 2002/10/17