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「世間」という視座から

としき

はじめに

今回は「世間」の現象学(佐藤直樹:青弓社)をテキストとして選んだ。選択の理由は僕の過去の発表に参加してくれた人は知っていると思うが、僕の個人的な関心として、「個人」とは、「共同体」とは、「世間」とはという問いを長年持っていたためであり、このテキストがその問いに対して新しい方向性を示唆してくれたからである。

本レジュメを作っていて、僕は良くも悪くも日本という「社会」で暮らしているのだなと強く思った。そしてその「社会」という世界はより厳密に言うと「世間」という呼び方をしたほうがしっくりくるなと実感した。文章化の作業においてはついつい自然に「社会」という言葉を用いるがイメージとし想定しているのは「世間」のほうなんだなということだ。数年前に「世間」について発表した際には、その時間の多くを「世間」と「社会」の違いを説明し、共有化することに費やしたように思う。今回もそのような作業が必要であると思うが、そこから少し進んで、「世間」に暮らしていることがどういうことなのかを議論したいと思う。

「世間」とはなにか?

「世間とは身内以外で自分が仕事や趣味や出身地や出身校などを通してかかわっているお互いに顔見知りの人間関係のことである。したがって世間は一人一人にとって異なっており、世間が広い人もいれば狭い人もいる。しかしいずれにしても日本人の交際範囲が世間を出ることは稀である。」(阿部謹也)

日本における「世間」とは西欧の社会と異なり、「個人の集団=社会」という図式では語れない面が存在する。社会が個人の集合に還元可能なのに対して、「世間」はそれそのものが分割不可能な存在となっているのである。「世間」が分割不可能な存在であるのは、「個人」という輸入の言葉が明治以降に導入される以前から「世間」はずっと日本の社会システムとして機能しており、周知のとおり近代以前の日本には「個人」と呼べるものが存在していなかったためである。

現代日本の社会が近代以前の「世間」の土台の上に、輸入した概念である「社会」や「個人」を適用して成り立っていることは改めてここで言い返せずともよく言われることである。日本における社会学等は、現実にあるこの「世間」を無視し、架空の「社会」にばかり目を向けていると佐藤は言う。もちろん「個人」や「社会」という視点からいくつもの優れた仕事がなされたことは確かだろう。しかし「個人の集団=社会」という視座からでは説明できない、または見えてこない面が我々の日常には確実に存在するわけであり、「個人」に分割不可能な「世間」という視座を明らかにすることにより、そういった日常レベルでの「社会」学が成り立つだろう。

佐藤はフッサールの現象学で使われる<生活世界>という用語を柱にし、「世間」とは何かを説明する。簡単に述べると主/客の対立という土台をもつ西欧的な「社会」と、主/客そのものが明確に分離していない日本的な「世間」とではそもそもの土台が異なるという。

簡単に<生活世界>を説明すると、主観的に経験されるものや、記憶においてそれ自体として想起されるもののみを元に構築された世界のことを<生活世界>という。これは一般的な学問領域で扱われる客観的な世界(社会)とはまったく異なり、個々人の経験や環境によってそれぞれ別の主観的な世界があるという考え方だ。このような<生活世界>のあり方は我々が日常経験する「社会」の捉え方に近いように思う。この<生活世界>の視座は明らかに西欧的な「社会」の視座とは異なる。西欧的視座では「世界」を「個人」との対立項として立てることが可能だか、<生活世界>においては「世界」と「個人」は分割不可能な関係として成り立っている。佐藤はこのような<生活世界>の視座を「世間」の理解に持ち込むことにより、西欧的社会観とは異なる「世間」の見方を示した。

「世間」の構図

佐藤は阿部謹也の「世間」の構造にのっとって「世間」には贈与・互酬の関係、長幼の序、共通の時間意識という3つの原理が働いているという。その3つの原理は我々日本人の関係のあり方の原理でもあり、また行動の規範となるものである。またその特徴として、「世間」には呪術性、排他性、権力という特徴があるという。以下に個々の用語の概略を説明し、「世間」というものが一体どういうものなのか明らかにしたいと思う。

贈与・互酬の関係

基本的にはもらったら返す関係。対等の関係にある人の場合には、同じような価値のものを返す。お中元、お歳暮、年賀状などがその端的な例としてあげられる。そもそも贈与・互酬の関係は全世界的にある関係だったが、ヨーロッパでは11,12世紀にあらかた排除された。その理由としてはキリスト教の告白というシステムにより対人間の贈与・互酬の関係から個人と神との契約関係にシフトしていったとする。このシフトによって西欧では個人が確固たる存在として成立した。なぜならどれだけ親しい人との関係にあろうと絶対の神の前では一人の人間としてまず存在しなくてはならないからだ。

日本においては現代まで個人が成立するためのそのような土壌が存在しなかった。 確かに近代以降の日本でも個人という概念は広まり、逆に個人が成立していないという意見に我々は違和感が生じる。しかし日本人の「個人」と西欧の「個人」とではその成立や土台においてかなり異なるものだというのは納得できると思う。 西欧社会の契約関係は人格にとって部分的なものだが、贈与・互酬の関係は全人格的なものであると佐藤はいう。贈与・互酬の関係がどれだけ強力な拘束力を持つかについて佐藤は阿部謹也の以下の例をあげている。

日本の強盗殺人の特徴は借金を返すための強盗というのが一番多い。サラ金に金を返せないから強盗をする。これが豪華客船で世界一周をしたいという強盗だったら大変楽しいと思いますけど、そうではないんですね。

このように贈与・互酬の関係の強制力は殺人を起こす動機として立派に成り立っているのである。発表者は欧米の犯罪に関してはそれほど知らないが、映画やTVを見る限りにおいて借金を返すために人を殺したり、強盗を企てるというパターンは日本に比べてかなり少ないように感じる。

長幼の序:身分(所属)の重要性

身分とはつまり「世間」のなかで自分がどのような位置を占めているかということである。 簡単な例としては長幼の序があげられる。この長幼の序の関係は一見、最近はあまり見かけなくなったというが、「世間」のウチにおいてはいまだおおきな力を持っている。たとえば、暴走族はソトに対してあれほど傍若無人に振舞っているが自分達の「世間」の内側では先輩・後輩の厳格な関係が貫かれている。または体育会系の部活、もちろん会社組織にあっても先輩・後輩関係は依然としておおきな力を持っている。また「世間」のソトに関しては身分(所属)の関係がおおきな意味を持っている。例として佐藤は村上春樹の文章を引用する。 アメリカと日本のマラソンレースのもっともおおきな違いはアメリカの場合当日参加が可能であるのに日本の場合は一ヶ月くらい前から参加申し込みをしなければならないという点にあるという。それは村上の想像によれば選手名簿を作成しなくてはならないからで、10キロ程度の草レースにおいても本当に几帳面に作成されるらしい。村上はなぜこんなに手間をかけなくてはならないのか理由はわからないとしているが、続く文章で、名簿には必ず所属団体名が明記され、大抵みんなどこかの団体にきちんと所属しているということを書いている。村上の場合、[村上春樹・××歳・東京・所属なし]と記載され、そのような人は本当に数えるほどしかいなくて複雑な気持ちがするらしい。そんな時「ああ、俺は結局この世界のどこにも何にも属してないんだな」と実感するということだ。

共通の時間意識

西欧においては個人はおのおのが別の時間を生きている共通認識があるが、わが国においては共通の時間意識の了解があるから別々の時間を生きるのは難しい。たとえば発表者の場合を例にすると職場で自分の仕事が早く片付いた時でも、なかなか早く帰ることができない場合がある。それは誰かに強制されたり、嫌味を言われるからではなく「なんとなく」帰りづらいのである。どうしようもなくやることが無くなった場合や他の仕事を引き受ける事ができない場合は帰ってしまうが、なんとなくその場を出るときには申し訳ないような気持ちがする。これが欧米なら自分の仕事は自分の仕事と割り切って、終わったらさっさと帰ってしまうだろう。もちろん全員がこのような気持ちを持つわけではないだろが多かれ少なかれこの「なんとなく」という気持ちは分かってもらえるだろう。そしてこの「なんとなく」で表現される部分が日本人の道徳や規律といったものに関係があるように思われる。

呪術性(「迷信」、「俗言」、「しきたり」)

佐藤は「世間」は呪術性が貫かれているという。「迷信」、「俗言」、「しきたり」という呪術的な面が日本の「世間」にはいたるところに見当たるとする。呪術的というのはやけに前近代的なように思えるが、実はわが国では多くの場でこの呪術性が垣間見れる。例をあげれば、運動会のスピーチや参加するだけでも苦痛な結婚式、卒業式などの儀式など、多くの公的な場において、また、これといった親しい間柄でなくても当然のように取り交わされる年賀状やお中元、お歳暮などなど。これらに共通していることは決まったパターンに則って行われ、そのパターンにのることが当然としてまかり通っていることである。またそうしなければならないという暗黙の共通認識の上に成り立っている制度だといえる。 たとえば年賀状などは、別に出さなくてもいいやと思いつつ、出さないと「なんとなく」気分が悪いものだし、義理を欠いた気がする。最近は年賀状からメールに移行しているとはいえ、その根本にある、出さないと義理を欠いたような気がするという感覚はやはりあるだろう。だれもなぜ年賀状が必要なのか(バースデイカードではなく)?とかその社会的な意義は?など問うことはない。「世間」に生活する我々にとってはそのような問いを問うこと自体意味のなさないことなのである。なぜならそれは明確な意味のあることというよりはそうする決まりであるからそうするものなのである。

排他性と差別

「世間」にはウチとソトがあり、ウチの人間は身内であり「相互扶助共生感情」が働くが、ソトの人間は他人であってそういう感情は生じない。我々にとってウチとは助け合う仲間であり、場合によっては自分以上に大切にしなくてはならないものとなる。公共の場で周りの迷惑を気にしないでふるまう高校生などに一番大切なものは?と質問したらきっと「友達♪」と答えるだろう。そしてその言葉は嘘ではないと思う。我々はウチにたいして非常に強い共生感情を持っている。それは助け合ったり、思いやったりする感情である。その強力な感情に対しソトに対しては極端に無関心である。場合によってはソトの人を人とは思っていないのではないだろうかという場面さえ多くあるだろう。これは何も最近の高校生だけに当てはまるものではない。居酒屋におけるサラリーマンにしかり、井戸端会議に熱中するおばちゃんにしかりである。要は世代や身分に関係なく「世間」とはそういう排他性なり差別性なりを有するものなのでということだ。

「世間」の権力

日本人にとっての権力とはなにかについて佐藤は以下の山本の文章を引用し説明する。

この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人々には全て、それを無謀と断ずるに至る細かいデータすなわち明確な根拠がある。だが一方、当然とするほうの主張はそういったデータ乃至根拠はなく、その正当性の根拠はもっぱら「空気」なのである。 従ってここでもあらゆる議論は最後には「空気」で決められる。最終的決定を下し、「そうせざるを得なくしている」している力を持っているのは一に「空気」であって、それ以外ではない。それは非常に興味深い事実である。--山本七平「「空気」の研究」

以上の文章が日本人の意思決定の仕方を端的にあらわしていると佐藤はいう。「世間」の「空気」がいったん決まってしまうと、その決定に「世間」の人間は従うしかない。人々は「世間」からつまはじきにされ、「世間」を離れては生きていけないからだ。またその決定は特定の誰かからなされたわけではなく、自分も含めた場の決定として存在するため、明確な「敵」として反論することもできない。このように「世間」は一種の権力であるといってよい。この権力は国家や政治権力のような上から降りてきて法律や暴力によって命令し、抑圧するような権力とはまったく異なる権力である。それはまさに「空気」のように全員の暗黙の了解の内に決定され首謀者が誰だという明白な決定者がいない。外国人が日本人には意見が無いというが、日本人にも意見はあるのだ。それが「個人」の意見ではなく場の「空気」から発した意見であるという点が違うのだが。

「世間」の裏と表

前章において「世間」の3つの原理とその特徴をいくつか説明した。 この原理が我々の日常の規範や行動原理となっているというのはある程度の異論もあるだろうが大筋納得がいくと思う。この原理が日本人の美徳と呼ばれるものに深く関係しているだろうことも想像がつく。我々が日本人の良いところを挙げろといわれたら、大筋、上の原理から派生する事柄を挙げるように思う。ためしにWEBで「日本人 美徳」と検索してみたところ、思いやり、謙遜、助け合い、などなどの言葉が出てきた。たしかにそのような日本的美徳には良い面も多くあるだろう。 自分の意見ばかり押し通さずにしっかり相手の話も聞いてくれるとか、しゃべらなくても意思が伝わる関係とか、ああやっぱり日本人だなーと思う。 だがこれらの美徳は日本人の考えが優れているとか、良い民族だから持っているのではなく、「世間」に生きる人はよくも悪くもそうせざるをえないという点を忘れてはならない。思いやりや謙遜は実際のところそうしたくてしている以上にそうすることが求められているのである。そしてその傾向は現代においてより強くなっている。これは「自己コントロールの檻」においても言われていたことだが「近代人は相互に相手の人格に敬意を払い、傷つけないよう配慮しあうことは望ましいだけでなく、義務でもあるという道徳にもとづいている」ということだ。

佐藤は赤面症や対人恐怖などが日本に特有の心的現象で、家族でも、他人でもない中間的な場面でしか現れないという。これは「世間」という中間的な場でしか現れないものであって、絶えず思いやりをもちつづけ、世間体や恥の感情を感じることによって起こるのだとする。発表者自身、まったくの初対面の人やかなり親しい人とは何の問題も無く話せるが、少し知っている程度の人と長く話すのは結構気を使うことが多い。この気を使うことが過度になれば赤面症や対人恐怖の状態になるだろうことは自然に想像できる。欧米では赤面症のような症状はほとんど問題にされないほど少ないことであるらしい。これは欧米人が気を使わないからではなく、気の使い方の質が違うからだと思う。西欧においては個人と社会の間に「世間」というものが存在せず、気を使うのがあくまで「個人」と「個人」との関係においてであって、日本人のような「空気」を壊すことに気を使うのとは質が違うからであろう。「個人」を傷つけないことと、「空気」を壊すこととは似ているようでやはり異なったものであると思う。

以上のように「世間」に生きると言うことは何事においてもそうであるが、良い面と悪い面がある。我々が息苦しいとか窮屈だと感じる関係は逆にいえば思いやりのあるすてき関係だともいえるし、また、ミウチ同士を信頼し助け合うという関係は逆に、ソトの人間に対し無関心にである関係であるともいえる。これらの関係はどちらかを生かしてどちらかを切るというわけにはいかないコインの裏表の関係であるだろう。

「世間」の道徳に関して

また佐藤は、一般に日本人にとって道徳やモラルは普遍的なものではなく、「世間」の内部でしか通用しないような特殊なものなのであるという。わが国においては道徳というものの絶対的な基準があるのではなく、その場の「空気」として暗黙のうちに所与されているという佐藤の指摘は的確であると思う。赤信号みんなで渡れば・・に代表されるような日本的モラルとは、ここでも場の「空気」や「関係」によって決まってくるようなものなのである。

感想

以上でおおよそ書きたいことは書いたつもりである。

佐藤の分析(というよりは阿部謹也の分析だが)は少し単純化しすぎている感があるが概して的を得ている。日常体験する公共の場での他人への無関心や仲間に対する強い信頼を説明する理論としては納得のいくものだ。日本に住んでいる僕が漠然と規範としているものや気まずさなどに対して「世間」という視座から見るとなるほどと思うことが多くあった。「なんとなく」習慣で出している年賀状や「なんとなく」帰りづらい職場の雰囲気にたいして、または電車で席を譲るのに勇気のいることにたいして、僕は日本の「世間」に暮らしているのだからそう感じているのかと思った。それは場合によっては窮屈で息苦しいものである。しかし同時に人に対してやさしくありたいという気持ちの元となるものでもある。もちろんこれは愛情とは違う種類の優しさだ。愛情というものがより激しく、ユニークな種類のものだとすると、「世間」のウチに対するやさしさとは相手をおもいやったり、助け合ったり、困ったときに頼ったり「空気」を読んだりそういう日常の何気ないやさしさである。そしてそれは何も日本にだけあるものではなく世界中いたるところにあるやさしさだろう。ただその「空気」はすこし別のものであるようにおもうのだが・・

僕はどちらのやさしさも大切であると思う。何度も繰り返すが、どちらにしても「世間」に生きている限り、よいにせよわるいにせよ、そういったシガラミやら親切やらは着いて回るものであるし、それをどうこう言ってもしょうがないことだと思う。ただそういう「世間」に対して、より確信的に付き合い、理解していくことは意味のあることだろう。少なくとも「社会」といわれるものを理解する際に実感としてしっくり来る「世間」を一枚かましたほうが見えるものも増えるだろうと思う。

また佐藤は「世間」というものが変えることができないものだといっている。正確にいうと変えることができないものとして「世間」に属する人間には思われているといっている。確かに「社会」というものなら変えることは可能でありそうだが、「世間」は変えるとか、変えないとかというものでは無いように思われる。我々は世の中が少しでも良くなるように、自分や周りにとって生きやすいようになったらよいと思うだろう。そしてそれはとても自然な考えだ。しかし変えることができるのは表面の「社会」であって、日本のシステムの土台となっている「世間」の方ではないという事はなにか重要なことのように思う。 「はじめに」で書いたが、自分が「社会」についてイメージするときは実際は「世間」についてのイメージであったことが多い。しかし変えることができる世の中という点に関しては「世間」よりはやはり「社会」の方である。ここらへんのあいまいさが日本人らしいといえばらしいのだが・・これは僕だけであるのだろうか?




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UPDATE 2002/10/17