自分らしさを生きることについて
えりこ
今回の発表では、蔦森さんの考え方をわかりやすい形で発表し、その後に自分なりの考え方を少しずつ書いていけたらいいなと思っている。蔦森さんというのは、去年、和光の非常勤講師だった人である。主に、男女の区分とか性別のアイデンティティにこだわって話をしている魅力的な先生であった。私も『正常と異常の境目』とか『男らしさ女らしさ』とか『男女という境目のこと』という事にはとても興味を持っていたので、蔦森さんの話を私はいつもとても興味深く聞いていた。
蔦森さんの発言の中で、一番心に残っているのは『去年外国(おそらくチベットだったような気がする)で、小さな男の子に出会った。その時その場で、私はその男の子に非常に非難された。それがとても悲しかった』という内容である。
蔦森さんは、普段、女の人がするような格好をしている。具体的にいうと、化粧をして、スカートや女物のブラウスを身にまとっている。しかし、生物学的にいえば、蔦森さんは男である。そしてセクシャル的には女の人が好きだという。
初めて蔦森さんに逢った時は、全くの女の人に見えた。しかしずっと蔦森さんを見ていると、私は次第に違和感を感じるようになった。男の人…だけど女の人??その感覚は独特なものがあった。普段、私たちは人に出会った時、出会った相手を瞬時にカテゴライズする。しかし、蔦森さんのありようは、瞬時にカテゴライズされることを拒む姿なのだ。
最初は違和感を抱えていた感覚も、次第に慣れていった。その感覚は、言葉にするのならば『蔦森さんは蔦森さんである』といった感覚だった。だから別にわかりやすく、男化しなくても女化しなくても、別にいいじゃない、という感覚だった。そして、自分はそのような自分の感覚がとても好きだった。自由な感覚だった。
しかしそれは私がこの日本で生まれて、今和光という比較的枠組みの緩い大学にいることが出来て、自分自身も不登校をして自分なりの価値観を身につけてきた…等の歴史や環境が、今の自分のこの感覚を持つことを許してくれているような気がした。そのチベットの男の子が、蔦森さんの風貌を見て非難したというのは、その子が周りの価値観を強固に吸収した結果であるような気がした。その子のいる文化の中では、男が女の格好をすること=変態(マイナスなもの)=悪ということになっているのだ。子どもはとても大人の価値観を吸収しやすいから、周りの大人の価値観を、タオルがこぼれた水をすっと吸収するように、その子は吸収してしまっているのだ。
蔦森さんは、その子どもに対して悲しくなったというよりも、その子どもを通した大人達の価値観に対して悲しくなったのだと思う。『何故、そんなことになってしまうのだろう…と悲しく辛くなった』と蔦森さんは言っていた。
私もそういう子どもの存在が悲しかった。しかし私だってその子どもと全く分けられた存在とは言えない。私だって数々の思いこみから、人を差別したりしているはずなのだ。ただ、出来る限り自覚していたい。自分が差別したりしていることに対して。そして出来る限り思いこみで差別するようなことはしないで生きていきたい。その人がその人らしくあることを(自分が自分らしくあることも)出来る限り受け入れていきたい。その[受け入れるか否か]の境界線も、自分の中でどんどんはっきりとしていきたい。それが、私が正常・異常をテーマにやりたいと思った出発点であったのだ。
蔦森さんは、もともとは髭をはやしたガッシリとした男的な格好をしていたという。しかしある日、そのような自分の姿が嫌になってしまった。自分は女的な格好が好きなのだ…ということを除々に実感していった。華やかな女の子のような格好がしたい!しかしそれは社会的に制限を受けたり(仕事などの面で)、白い目で見られたりしてしまう。それがとても辛いものであったという。
私は税金も払っているし、ゴミ捨てだって規定通りきちんと出している。『悪いこと』はしていないはずだ。なのに何故?何故否定的な眼差しで見るのか…?
- 何故男は男のものとされる格好をしなくてはならないのか?
- 女は女のものとされている格好をしなくてはならないのか?
- 何故男は男らしくしなきゃならないのか?
- 女は女らしくしなくてはならないのか?
等の疑問を、蔦森さんは強固に抱えていたと言えよう。好きなことをして、何が悪いのか?
女が女のものとされる格好を何故しなければならないのか?と問われれば、深い根拠なんてないんだろうな…と思う。(似合う、似合わないはあるかもしれないが…)
女がその昔『女の生き方は専業主婦になって子どもを生んで夫と生涯暮らすこと』と言われていた事と同じくらい、根拠なんてないことなのではないかと思う。社会的な『とりきめ』なのだと思う。この世には本当に多くの『根拠なきとりきめ』がある。私もその昔、自分が不登校をしていた頃、不登校者であるというだけで否定的な視線を受けたことがある。昔は不登校者に対する風当たりは厳しかった。私は自分の不登校体験から、この世には多くの根拠なき社会的とりきめがあるのだという事を悟った。そしてそのことにゾッとしてしまった。
自分の感情にすら信頼できなくなってしまった。なぜなら昔自分が不登校になる前は、私は『登校拒否者』に対して[嫌だなぁ…]と思っていたからである。それはひいては自分の親や周りの大人が持っていた感情であった。何故そんな感情を持ったのかというと、その当時の私の価値観の中に『学校を辞める者はおかしい者』という価値観があったからである。根っこにある価値観で、人に対する見方も感情も変わってしまうのだ…。私はその事を、自らの不登校体験でつかみとったといえる。
『私に対して、中には嫌悪感でいっぱいになる人もいる。否定する人も困惑する人も当然いる。ただ単に興味や好奇心を持つ人もいる。そして好意を感じる人も肯定する人も、また多くいるのだ。いずれにしてもそこで見えてくるのは、各々の人が内側に抱え込む男らしさ女らしさと定義するものや人の捉え方の差でしかない。私にとって受け入れやすい反応も、受け入れがたい反応も、それらはすべて反応したその人の問題であり、私の仕事ではないのだ』(引用>参考文献A p22)
レジメの最初の方に書いた男の子の捉え方でいくと、蔦森さんは『拒絶されるべきもの』とされる。それはその男の子自身が、自分の中の女の子らしさを否定しているからである、と私には思える。具体的に言えば[男が女の服を着ていることは絶対におかしい]と思っているから、蔦森さんのありようを拒否するのである。
しかし何故[絶対におかしい]のだろうか?と根拠を探っていくと、私にはピッタリした答えが見つからない。例えば男がスカートをはく文化圏の中に育っていたなら、蔦森さんのありようは、なんらおかしい所はないはずだ。逆に女がスカートをはくなんて!と問題視するようになっていただろう。
社会にはたくさんの[女ならこうするべし、男ならこうするべし]という取り決めがある。はじめはピンとこなくても、よく一つ一つ見ていくと、私たちはかなり教育されてしまっているのだ。
たまに○○らしさの枠にはめられる事(それは他人からだけでなく、自分で自分を枠にはめようとする行為も含まれる)がうざったくなることがある。私は私で好きなように生きていいじゃないか!と言いたくなる時がある。無意識的に教育されてしまった事はある程度は仕方ないかもしれないけど、出来る限り、男とか女とかそういうことにこだわらずに生きていきたい。男が女らしく生きたっていいし、女が男らしく生きたっていい。
私はたまたま女の格好が好きなので、あえて男らしい格好をすることはないけど、自分がたまたま男らしい格好が好きだったら、男らしい格好をしていたかもしれないと思う。(でも女が男の格好をすることは、男が女の格好をすることよりも抑圧性がないので、男の人の方が大変だなーと思う。精神的な力がいる)逆に男が、蔦森さんのようにどうしても女の格好がしたかったら、別にしてもいいと思う。
そのような価値観になると、人の細かなありようは、そんなに気にならなくなるのだ。好き嫌いはあっても、相手(や自分)の存在を否定するようなことはない。自分に対して緩やかになれるし、他人に対しても緩やかになる。人に対して危害を加えること以外は、様々な人が自分のしたいように、自分のやりたいやり方で生きていくことを肯定した方が、きっとギスギスしなくてすむと私は思う。
●男・女という区分のこと
蔦森さんはまた著書の中で『男・女という性の区分、性自認、そのものを問うこと』を主張している。
私たちは普段自然に『男・女』という区分をしている。人を見て『この人は男だな』とか『この人は女だな』とか、言語化はしないまでも無意識的に判定し、分類している。そして分類している時は、男だったらこうなはず…とか女だったらこうなはず…というような類型を頭の中で瞬時に描いているはずだ。
だから、蔦森さんのような、どちらの分類にも入らない人を初めて見たときに、私は違和感を持ってしまうのだと思う。そして、あなたはどちらなの?と私はつい判定したくなってしまう。
しかし蔦森さんは、私は『男』というカテゴリー(類型)にも入りたくないし、『女』というカテゴリーにも入りたくないと拒み続ける。拒み続けることは並大抵なことではない。辛いこともたくさんあるはずだ。しかしどうしようもなくカテゴリーに入ることを拒み続ける。蔦森さん自身がどうしようもなくカテゴリーに入りきらない自分を強く持った人だからだ。
例えば私がどうしようもなく男の人的な格好をすることが好きであるとする。しかし、社会的にはそれは異端であり、認められない。高校の制服もスカートを着るしかない。それは『自分が自分であることを拒否されている』というような感覚を抱くであろう。蔦森さんもこういう気持ちをたくさん抱いただろう。そしてそれは、社会的に認められないことに事に自分を見いだしている人達(例えば同性愛者)も同様だと思う。
なにかカテゴリーを作り出して、そこにあてはまらないものを異端視したり、排除したりすることは危険なことなのだ。蔦森さんは、自分がどうしようもなくカテゴリーに入りきらない自分を持って、それを通したから、カテゴリーすることの怖さをたくさん見たのだと思う。
ある類型に入るものを『正常』としたとたん、『異常』なものがでてくる。『正常』とされる類型に自分がうまく入り続けられればいいけど、そこに自分が入りきれなくなったときに、初めて類型化の怖さを知る。そういう仕組みになっているのだと思う。
今たまたまうまく正常とされるカテゴリーに入っていても、それで安泰という訳にはいかない。常に意識的にせよ無意識的にせよ『正常』に入らなくてはならないというプレッシャーが生じてくるのだ。
みんな、実は大変なのだ。
●では、男・女とカテゴライズすることも、やはり危険なことなのか?
と問うと、蔦森さんはイエスと答えるだろう。なぜなら、そこからはずれる人もたくさんいるからだ。私だって例外ではない。あなただって『女』と分類されて周囲から期待される事で、窮屈なことたくさんあるでしょう?というような事を、蔦森さんは答えるような気がする(憶測ですが)。
ではどのような考え方をすればいいのか?蔦森さんは以下のように語る。
『90年頃にわかったんですけど、SRYっていう精巣引導因子というのがあります。要するに、男の人はY染色体があるから精巣ができるとされていたんですよね。それが違ったんですね。Y染色体が理由ではなくて、SRYという精巣引導因子があれば、精巣ができ男の体になるんだそうです。なければ女の体になります。だからオリンピックでセックスチェックがあって、必ず誰かがひっかかるでしょ?あれがそうなんですね。男の体になるには染色体が理由ではないんです。びっくりしますね。科学というのはこういう風にどんどんどんどん理解が変化していきます。
さっきの人間の形ですけど、基本的には人は女性形なんです。女性形というと引っかかる人もいると思います。人間形と言えばいいのですが、たまたま私たちの文化の中に出てきている形が女性と言われる形だから女性形と言います。それが基本なんです。男も女も女性形で一つだとわかってしまえば、全員女になるかというとそうではないです。
私たちの文化は男と女の二つに分かれている認識を持っているので、体のセックス(性)が二つあるという生物学の前提もきわめて社会的に作られている。二次性徴で体の感じが男と女で異なってくる。それを絶対的二型としてフィックスしてしまう。問題はそこなんですね。私たちの男と女の理解という時に、まずは性の二元性以前に、女性形で体は一つなんだという理解がとても現実的ですね』(参考文献B p43)
『私はこうだからという自分の生き方の自由があればいいんです。私たちは女性形で一つよ。その上に表現があるのよ、男の表現とか、女の表現とか。そういう見方をすると、人は多種多様の違いを生きながら、そういう『私たち』がいるという認識で一つになれるんじゃないかと思います』(参考文献B p47)
つまり、もともと男と女は一つなものなのだから、男はこう…とか女はこうしなきゃならない…とか性別によって規定するような事は意味をなさないのではないか?という事を蔦森さんは言いたいのではないか。もともとは男も女も一つ。ただその人一人一人の表現ややり方、好み…があるだけなのだと。それはどれが正常でどれが異常だとか、規定し合うものではないのだと、蔦森さんはいいたいのではないかと思う。
確かにその考え方は、○○らしさの押しつけから自由になる考え方で、私はとてもいいと思う。そのような見方でいくと、いろいろな『男はこうで女はこう』と規定するものが、溶けていくようだ。
しかし、そう考えても、私はまだ男女の区分が全てなくなる訳ではない…と思ってしまう。もとは一つでも、やはり(精巣引導因子がある人とない人、と分けるとしても)男と女は成長すると色々な違いが出てきてしまうし、女性(男性)とされる多くの人が同じような傾向をしめすことが色々あるとしたら、分類化されることからはなかなか逃れることができないだろうと思う。
男女という区分がなくなることは『男・女』という言葉そのものが自然になくなることである。そしてそのかわりの言葉が登場し、使われていくことだと思うが、そういう風になった世界観が、私にはどうもまだわからないのだ。全て個人個人と、出来る限り類型化しないで物事をみていきたいけど、では完全に類型化しないということが出来るのか?と自分に問うと『いや、出来ないだろう』と感覚的に思う。
では、どうすればいいのか…?
今のところ、私はまだここで立ち止まっている。人間はもとは一つなんだという蔦森さんの考え方に魅力を感じながらも、そこに乗り切れない私がいる。『男/女という区分そのものがフィクションである』という蔦森さんの考え方にかなり同調しながらも、まだ論理化できない自分がいる。次回発表では、そのあたりのことも、もう少し詳しく書けたらいいな…と思っている。(後は出来たら、正常/異常の線引きの成り立ちも調べられたらいいなと思っている)
参考文献
| A「男でもなく女でもなく 本当の私らしさを求めて」 | 蔦森樹 | 朝日文庫 | |
| B「セックス・性・世界観 新しい関係性を探る」 | 伊田広行編著 蔦森樹他 | 法律文化社 | |
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