第一章 ニーチェの生涯とその思想あっここの章では、今回この論文を書くにあたり、私の読んだ参考文献の中から、ニーチェの生涯とその思想を紹介する。多様にあるニーチェ解釈だが、この論文の中では、この章で紹介する形で、ニーチェが解釈されている。
■ ニーチェの生涯ここでは、三島憲一著『ニーチェ』を参考に、ニーチェの生涯を簡略的に追ってみたい。ここで紹介するニーチェの生涯は、『ニーチェ』を私見により要約・引用したものである。 ・青年期〜ヴァーグナーへの心酔 ニーチェの生涯は、意欲と波乱と悲哀に塗れたものだった。19世紀半ば、プロテスタントの牧師の家という厳格なキリスト教徒の家に生まれ、幼少期はニーチェ自身も「神童」と囁かれるほどの敬虔ぶりだった。後の反キリスト思想の歩からすると、なんとも皮肉な出だしである。大学へ入学するまでは、彼自身牧師を目指していたものと思われる。それゆえ神学科を専攻したが、段々とキリスト教への懐疑を深め、神学からは離れていくこととなる。幼少からの敬虔な信仰生活が、後のニーチェの思考活動に、大きな影響を及ぼしたことは間違いない。この信仰による禁欲的・規則的な生活があったからこそ、逆にそれへの批判も激しいものになったのではないだろうか。 大学へ入る以前より、芸術や学問へ多大な関心を向けたニーチェは、幼馴染の学友と共に文学・音楽研究会を結成し、毎月評論や創作活動に勤しんだりもする。ヴァーグナーに陶酔していったのも、この時期の活動が大きなきっかけとなっている。信仰への懐疑と芸術への熱い眼差しが培われたのが、ニーチェの青年期である。 多大な著作活動を続けながらも、ニーチェの作品は好評を得ることはまれだった。処女作である『悲劇の誕生』では、「アポロ的/ディオニュソス的」という概念から、古典ギリシアから同時代人ヴァーグナーへ通ずる芸術批判を展開する。優れた文献学者としての仕事を期待されていただけあって、周囲からは否定的に扱われ、不評に終わる。これを肯定的に評価してくれたのは、ヴァーグナーとその周りの人々および親友達のみであった。 ・ドイツ嫌いの始まり 『反時代的考察』が書かれた頃より、ニーチェのドイツ嫌いが始まる。現代までに、ナチス・ドイツに利用されたり、優生思想に通ずるとして、非難を浴びてきたニーチェだが、その実ドイツ批判を激しく論じたのもニーチェである。確かに1870年に普仏戦争に従軍した頃は、完全なプロイセン主義者であったが、圧倒的勝利が確実になった頃から、「勝利が文化の優性を証明する」という短絡的な思想に懐疑的になる。ドイツ軍の勝利は、勇敢さと指導者への盲目的忠誠によってもたらされたものであり、文化とは何の関係もないと言い放つようになる。後には更にその辛辣さを増し、「ドイツ人には、自分たちがいかに下品かがいっこうにわかっていない。……彼らはドイツ人であることを恥じることすらしないほどだ。」(『このひとを見よ』)とまでこきおろす。 ・ヴァーグナーとの訣別 あれほど心酔していたヴァーグナーとの訣別がなされたのは、1878年夏に行われた、バイロイト祝祭劇場でのヴァーグナーの作品『ニーベルンゲンの指輪』の上演が原因だった。ここには、新生のドイツ皇帝ヴィルヘルム一世自らが特別列車でやってきた。試演の段階でも、バイエルン国王ルートヴィヒ二世やヴァイマール大公、また、ブラジルの皇帝も臣下を従えてバイロイトを訪れた。ヴァーグナーは得意の絶頂であり、社交と上演の成功に精根を傾けていた。試演の段階からバイロイトに来ていたニーチェは、この芸術と権力の癒着に、激しい嫌悪を抱いた。健康状態の悪化もあったが、心理的な違和感に耐えがたいものを感じたニーチェは、総試演を待たずにバイロイトを発つ。体面を気にする妹の説得もあって、いったんは戻るが、初演にまたも愕然とし、早々とバーゼルへと引き上げる。ヴァーグナーも忠実な賛美者の離反に気付き、両者の関係は決裂する。 ・思想の最盛・ルー体験 晩年のニーチェの生活は、いくばくかの年金を頼りにした、一所不在の漂流の生活だった。四十を過ぎて定住地もなく、「ドイツでは暮らしたくない」ため、原則的にはスイスと地中海を転々としていた。相変わらず著作への反響は乏しかったが、それでも何人かの思想家と論を交わし、親交を持ち、時代の動きや新しい本にも反応していた。この時期のニーチェの思想活動はめまぐるしいほどの勢いがある。1881年から狂気に倒れるまでの7年間の内で、10冊以上の著作を書き上げている。その中では、「力への意志」「超人」「永劫回帰」等の、ニーチェを代表する思想達が展開されている。 このような中で、ニーチェはルー・ザロメというロシア女性と出会う。1882年、ローマのサロンで彼女を紹介された。このサロンは19世紀の知的野党がひしめいていた。政治的亡命者、芸術家、若い知識人等が絶えず出入りするこのサロンで、21歳の若さで臆することなく議論し、遜色のなかったこのルーに、ニーチェは虜になってしまうのである。少し前までニーチェと共にジェノヴァで暮らしていたパウル・レーも、同じく彼女の魅力に惹かれることになる。両人とも結婚の意志を示すが、ルーににべもなくはねつけられる。しかしこの不思議な三角関係は意外に続き、三人でスイスに旅行に行ったりもする。途中モンテ・サクロという山では、二人だけでハイキングをし、なかなか戻ってこなかったというエピソードもある。ニーチェは聡明なルーの中に、弟子性を見出しているとも言われている。まだ若い思想であった「永劫回帰」の感触を、熱心にルーに説いたりもしたそうである。しばらくこの奇妙な三人での生活が続くが、何時しか妹や母親の横槍が入り始め、またレーとの仲もぎこちなくなり、やがて妹とルーが熾烈に衝突をし、ついにルーとレーは連れ立ってベルリンへ行き、同棲生活を始める。ニーチェは敗れた。しかしこの「ルー体験」は、永劫回帰思想へと大きな影響を及ぼすことになる。ルーとふたりで過ごした山でのピクニックは、ニーチェにとって何度でも巡って欲しい、大きな悦びの時間だったのだ。 ・ヴァーグナーの死と終わらない闘争 『ツァラトゥストラ』第一部を書き終えた頃、1883年2月、ヴァーグナーはヴェニスで急逝した。しかしヴァーグナーとニーチェとの戦いは、これで終わったわけではない。「ロマン主義的ペシミズム」の徒ヴァーグナーとの対立は、その後も『ヴァーグナーの場合』『ニーチェ対ヴァーグナー』などの著作で続けられる。最晩年のニーチェの仕事は、ヴァーグナー体験の総決算と言っても過言ではない。(※ここでは、ニーチェの初期作である『悲劇の誕生』が深く関わってくる。「アポロ的とディオニュソス的」というギリシア文献学からの思索を軸とし展開される思想だが、論文内容により、この箇所は割愛する。) ・狂気、そして死へ 1888年の終わりには、ニーチェは狂気へのドアに既に手をかけていた。思想最盛の時期の終わりは、そのまま休む間もなく直接狂気へと続いていた。1888年の終わり頃から1889年の初めにかけての数日間のうちに、ニーチェは何人かの友人や知人に、正常を逸した手紙を送りつける。書き出しのみで中途半端に終わっている手紙や、同日付で同じ宛先へ出した手紙には、「私が人間だというのは偏見です。私は既に幾度も人間達の中で暮らしましたし、全てのことを知っています。私はインドでは仏陀でしたし、ギリシアではディオニュソスでした。アレクサンダーとシーザーは私の化身です。最後にはヴォルテールとナポレオンでした。ひょっとしたらヴァーグナーであったかもしれません。今回は勝利に輝くディオニュソスとしてやってまいりました。私は十字架にかかったことがあります。」等と書かれていた。他の手紙にも、「ディオニュソス」あるいは「十字架にかけられたもの」と署名がされていた。 こうして1889年の1月に、ニーチェは狂気の闇に閉ざされる。当時いた北イタリアのトリノの下宿から道路に出た時に、御者が馬を鞭で殴りつけているのを見て突然の興奮に襲われ、馬をかばい、抱きしめ、激しく泣いたのだ。これが先の手紙を書いたのと同日の1月3日の出来事である。後に奇妙な手紙をもらった友人達が心配して駆けつけ、ニーチェをバーゼルへと連れ帰す。バーゼルおよびイエナの病院で診断を受けた後、ニーチェは母親のもとに引き取られ、正気に返ることはなかった。その母も1897年には世を去り、夫が事業に失敗し自殺した結果、パラグアイからドイツへ戻ってきた妹が兄ニーチェを引き取り、ヴァイマールにて暮らすことになる。1900年8月25日、ニーチェは次第に名声が高まりつつあることも知らずに、この世を去った。 ニーチェの狂気には様々な説があるが、学生時代にうつされた梅毒による進行性麻痺症説というのが、一番の通説である。 ■ ニーチェの思想何人かのファンを持ちながらも、ニーチェの著作活動は「不評」の粋をなかなか脱することはなかった。ニーチェは、自分が理解されるとは思っていなかったが、理解されることを望んでもいた。ある手紙には、「私の作品は時間がかかる。ひょっとすると50年もたてば、私によって何が為されたかに気がつく者が幾人かいるかもしれない。」と書いている。また、「私の物語るのは、次の二世紀の歴史である。私は、来るべきものを、もはや別様には来りえないものを、すなわちニヒリズムの到来を書き記す。」とも遺稿の中で述べている。 自分があまりに「先取り」し過ぎているため、理解されることを恐れ、拒否する気持ちが渦巻いていたニーチェだったが、理解されたいという渇望、承認されたいという熱望は強かった。ニーチェの得た理解の徴候は、最晩年にして少しずつ現れはじめた。1888年末、つまり狂気の闇に閉ざされるほんの数日前、ニーチェはある手紙にこう書いている。「このところ私は、まったく未曾有なかたちで有名になりはじめています。私が現在受け取っているような、選り抜きの知性の人々からの手紙をもらった者が、かつてこの世の中にいたとは思えません。」引き続いてニーチェは、フランスのテーヌやスウェーデンの劇作家ストリンドベルクとの交流を自慢している。些か発狂寸前の匂いもなくはないが、ようやくこの頃からニーチェの名が広く注目されはじめていたのは事実である。しかもドイツ以外でのヨーロッパで評判を博していた。「今では私は世界中に読者を持っています。ロシアにすらです。私はドイツ語で書くことを不幸に思っています。これまでのどんなドイツ人よりも上手いドイツ語を書いてもです。私は一切の本能において、ドイツに対する宣戦布告をしたのです。」というテーヌ宛の手紙は、後のドイツの歴史において非常に皮肉的である。まさにニーチェが宣戦布告したドイツ精神こそが、ニーチェを自分の都合の良いように切り刻み、好き勝手に接合し、英雄にたてまつり、ニーチェが最も克服しようとした近代的な政治的現実の枠内で悪用したからである。 このように「不評」「誤解」「悪用」と、三拍子そろっているニーチェの思想なので、後の思想家達によってされた解釈も、多様を極め、その研究は今尚終点を見ないと言うのも頷ける。それでも、この多様な解釈群の中から、今回ニーチェを読むにあたって重要な思想をいくつか紹介しておきたい。 ・「神は死んだ」―― キリスト教への反発 「神は死んだ」。ニーチェと言えばまずこの言葉が浮かんでくる、代表的な言葉である。これは、反キリスト教思想のニーチェの言葉に相応しいものだ。宗教に対し大きな懐疑を抱いたニーチェであったが、その宗教に対する非難の思想を紹介しておきたい。著作『善悪の彼岸』の中では、「宗教的残酷」という形で論じられている。この宗教的残酷というのは、宗教の持つ軸のようなものである。この軸には多くの横木がついているが、その中の3つの横木が最も重要である。この横木は「犠牲」である。かつて人々は神のために人間を犠牲に捧げた。それもおそらくは最も愛している者達を。やがて人類の道徳的時期になると、人々は神に自分の持つ最も強力な本能を、つまりは自分の「自然」を犠牲に捧げた。最後に尚犠牲に供すべく、人々はついに慰めになるもの、聖なるもの、癒してくれるもの、全ての希望を捧げることとなった。隠された調和、未来の至福と正義への一切の信仰を犠牲にしたのだ。神さえも犠牲にして、自己に対する残忍から、石を、愚鈍を、重力を、運命を、虚無を崇拝しなければならなくなった。この宗教的残酷の中で行われる犠牲は、信仰故のものである。宗教に含まれる「禁欲主義」故の行いを、このような言い方でニーチェは非難しているのだ。宗教の持つ「禁欲主義」は、ひとの抱く欲求、望み、希望、それらを戒め、定められた「正しい」姿勢に従わせる。そこでひとは、「欲」に類するものをことごとく排除する。「欲」とは即ち「悪」であり「罪」である。そこで人々は、自分達の欲する心を否定するあまり、自分達にとって素晴らしいものを投げ出すあまり、ついには「神」をその犠牲にしてしまう。 また、この禁欲主義的な宗教の中の徳目である「誠実さ」を推し進めることによって、人々は「神の不在」を段々と立証していく。信仰の厚さから派生していった真理を求める知的誠実さによって、神が殺されるのだ。この「神の殺害」は、著作『悦ばしき知識』の中で語られる。ニーチェの文章の中でも最も有名なシーンである。真っ昼間に提灯をつけて、市場で神様を探している男がいる。その市場にいる人々は無神論者であったので、男が神を探していることに対して嘲笑する。「神がどこかへ行ったのか?」と嘲笑う群衆に向けて狂った男が言う。「神がどこへ行ったかって?俺がお前たちに言ってやる!俺たちが神を殺したのだ――お前たちと俺がだ!俺たちはみな神の殺害者なのだ!」神を葬ったのは、宗教的徳目である誠実さである。その誠実さは、ついには神へと向けられたのだ。誠実に考えれば、神などいない。いれば殺せばいい。ここで語られているのは、まさしくキリスト教のことだが、こうしてキリスト教は、自分自身の美徳の故に解体する。「神は死んだ」のだ。 ・ニヒリズム こうして神が死ぬということが、ニヒリズムを到来させる。ニヒリズムを邦訳すると虚無主義であるが、それは神の死によって、諸価値が無効化することから発生する。この表現そのものは前からあった。しかしここに哲学的な意味内容を与えたのはニーチェである。ニーチェの定義ではニヒリズムとは、「従来の最高の価値がその価値を失った」状態である。人々は禁欲主義的な信仰心で以って、まずあった諸価値を悉く覆してきた。それは、単純に一次的な価値感覚である。つまり、単純な強さや、嬉しさや、温かさや、辛さ、そこから逃げたいという欲求や、向上心や、痛みや、気持ち良さ、恐怖、肉欲などである。それが一度転倒する。禁欲主義的宗教は、この諸価値をほぼ逆転という形で新たな価値を提示――それはニーチェの言うところの捏造――する。戒めを基本とした、まさしく禁欲的な価値である。これが体系的に現れるものが宗教である。次に、先に見てきたように、神が死ぬ。捏造された価値達は、結び目を解かれ、また転倒が起こる。この転倒は、更なる価値体系が生み出されたという転倒ではない。敢えて言うならば、「無価値」という価値観が生まれたのだ。この体系をはずれた価値の混沌状態は、「誠実さ」によってもたらされたものであり、それはつまり、人々の飽くなき「真理の追究」の意志の結末なのである。こうして「真理」というものが崩壊してしまった状態が、ニヒリズムである。一次的に単純な価値達は、次なる禁欲的価値によって滅ぼされ、禁欲的価値は、その禁欲さゆえ滅んだのだ。最早価値と言う価値は、フィクションという枠内から外れることはない。これが形となってあらわれたのが、「ロマン主義」「感傷主義」「相対主義」「懐疑論」「機械論」「無神論」「ペシミズム」「デカダン」であるとニーチェは言う。 ニヒリズムは、けれどニーチェによっては肯定的に説かれている。それを表すのが、先に出た「神は死んだ」と叫ぶ男の後の語りにある。市場で神の死を、殺害を叫ぶ男は、その叫びの中で言う。「これよりも偉大な諸行はいまだかつてなかった――そして俺たちのあとに生まれてくるかぎりの者たちは、この所業のおかげで、これまであったどんな歴史よりも一段と高い歴史に踏み込むのだ!」。この所業とは言わずもがな「神の殺害」である。既存の最高価値が転落することにより、ニヒリズムが訪れる。弱者による価値体系――つまり道徳が崩れるのだ。それは、ニーチェの求める強者の道徳を復活させる絶好の転機となるのだ。大いなる転倒、強者の価値を軸とした世界像転回、一切の価値の転倒を起こすチャンスなのだ。 ・「道徳」と「善悪」の2種類 大いなる転倒によってもたらされるべく、ニーチェの描く強者の道徳とは、しかし道徳的価値からの離脱をも意味している。まずはここでニーチェに分けられる強者・弱者像のもととなる、「道徳」と「善悪」の2パターンについて説明する。この二種類とは、強者のものと、弱者のものとの二種類である。 道徳の二種類は、「奴隷道徳」と「君主道徳」である。このふたつは、その道徳のもとに生きている者達の類型とリンクしている。奴隷道徳に従う僧侶型人間と、君主道徳に従う貴族型人間である。貴族は自発的な自己肯定を行い、僧侶は反動的な(相手を否定すると言うことを基盤とした)自己肯定を行う。ニーチェは、貴族を肯定的存在として位置付け、僧侶を否定的存在として位置付けている。ここに、「善」「悪」を直接リンクさせているところに、ニーチェの解りづらさと面白さがある。 僧侶のつくりあげた奴隷道徳が体系化されたものが、つまりキリスト教である。差異を嫌悪し、敵をも愛するのは、ルサンチマンが基になっている証拠だとニーチェは説く。敵を愛すると言うのは復讐である。敵は強く、力では敵わない。敵(強者)の価値観に則ることなく、自分の土俵に引きずり込んで、相手を裁く方法として「愛する」ということを持ってくる。この愛がどこからきたのかというと、ニーチェは「復讐と憎悪という木の幹から」と述べている。この価値転換を行う基になる感情こそがルサンチマンだ。哀れみ、愛するというのは、自分が精神的に、立場的に高みにいるということを表している。 これらの道徳の基となる「善」「悪」にも二種類がある。まずはニーチェの肯定する「本来的・本質的」な意味としての<よい(優良)><わるい(劣悪)>。もうひとつは、捏造された価値観である<善><悪>である。 <グートよい(優良)><シュレヒトわるい(劣悪)>と<グート善><ベーゼ悪> ※gut(独)=good(英)⇔schlecht=bad、bose=evil @<グートよい(優良)><シュレヒトわるい(劣悪)> <よい>という判断は、<よいこと>をしてもらう人々からおこるのではない!その判断のおこりは、むしろ<よい人>たち自身にあった。すなわち高貴な者たち、強力な者たち、高位の者たち、高慢な者たち自身にあった。こうした者たちが、あらゆる低級な者・下劣な者・野蛮な者・賤民的な者に対比して、自分自身および自己の行為を<よい>と感じ、<よい>と評価する、(略)この距離のパトスからしてはじめて彼らは、価値を創造し価値の名を刻印する権利を自らに獲得したのである。(『道徳の系譜』:377〜378) ここで言われていることは、<よい>という価値判断は、直接的・自発的に(高貴な者から)沸き起こってきたものである。ということだ。そしてまず<よい>があって、そこからの対比として<わるい>が(下層の者の中に)見えてくるという、この順序が、ニーチェの最も強調している部分である。 ここでの価値方程式は「善い=高貴な=強力な=美しい=幸福な=神に愛される」となる。 A<グート善><ベーゼ悪> 僧侶的民族であるあのユダヤ人は、おのれの敵対者や制圧者に仕返しするのに、結局はただこれらの者の諸価値の徹底的な価値転換によってのみ、すなわちもっとも精神的な復讐という一所業によってのみやらかすことを心得ていた。(ibid:388) @で説明したものとは逆に、この場合の価値の成り立ちは反動的なものであり、最初に<悪>が指摘され、そうではないもの・その逆を指して、<善>が生み出されている。復讐の目的が先に立っていて、その為の創造(捏造)なのである。 ニーチェは、この価値転換を、「道徳における奴隷一揆」と表現している。そしてそれは勝利を得てしまっていると断言する。 価値方程式は「善い=貧しい=無力な=醜い=惨めな=賤しい=神に愛される」となる。 ニーチェの目指す大いなる転換は、もちろん弱者の価値世界から強者の価値世界への転換である。禁欲主義やルサンチマンによる捏造価値体系によって貶められてきた強者の価値観が、ニヒリズムで崩壊した価値世界の次なる、真なる支配者になるのだ。ニーチェが望むのは、ニヒリズムを克服する、ひとの持つエネルギーを発揮する者の到来なのだ。これは著作『ツァラトゥストラはこう言った』の中心的な物語軸として描かれている。主人公であるツァラトゥストラは、大いなる転倒の草分けとして任を負っているのだ。 ・考察と思想のズレ 以上に見てきたように、ニーチェの思想は、強者による強者の価値世界への転回が、ひとつの達成点として展開されている。現代に於いてニーチェの著作や解釈を読むと、それは些か弱者・強者の対立項を大袈裟に描きすぎているきらいもある。弱者像を如何に強烈に描かれても、それは現実味の薄さが拭えない。ニーチェの敵視する道徳の在り方も、ニーチェの描く当時のものと現代では、その存在意義からしてズレが見られる。 ニーチェの考察は、基本的には個人に視線が注がれている。ルサンチマンも、弱者の持つ感覚も、強者の持つ力も、個人的な者たちのニーチェ流の切り取り方での解釈であり、共同体である社会を斬ったのではない。しかし一方、ニヒリズムや、道徳の問題等は、個人ではなく共同体へ視線を向けての考察である。このあたりは、ニーチェの思考の方向性が一点に絞られず、この両者を少々混同しながら考察されたという感想を抱いてしまう。確かに考察は個人に目が向けられているのだが、思想は共同体に対してなされているのだ。このような問題点も踏まえながら、次章より考察に移りたい。この章で紹介されなかった「ルサンチマン」「永劫回帰」については、それぞれの章にて詳説する。 |