丸山眞男氏が1946年の論文『現代政治の思想と行動』において、日本が第二次世界大戦へと至ったのは政治家などの個人の責任というよりもむしろ日本の政治、権力の体系にあると述べたことは極めて意義深い。それはただ単に今まであまり議論や研究が十分になされていなかった領域だからというのみではなく、1946年という時期が、日本が第二次世界大戦を終えて、その国家体制が根本的な変化を遂げるという時期のまさに出発点だったからである。丸山氏も述べているが、旧体制をしかと知らない限りはこれから始まろうとする改革において国民精神の真の改革にまではならないであろう。それゆえに丸山氏の挙げる戦前の日本の国家体制の問題点を吟味し、その後の日本がいかにして歴史から学んだのかを検証してみることは非常に有意義であり興味深いことだと思う。

丸山氏は日本の大戦参戦について、天皇を頂点とした日本の国家体制において誰かが煽動したわけでもなく、また誰かが責任を感じるわけでもなく大戦へと突入したと述べた。少し言い方を変えると、大戦に参戦した他の諸国家と近似的な要素を数多く持ちながらも、日本は極めて特異な存在であったということができる。その特異性は大戦直前と大戦中の一時のものではなく、明治に国家としての機構が誕生してからずっと存在し続けてきたものである。そしてその日本の体制こそが日本を第二次大戦へと追いやったというのである。以下ではその具体例を述べる。

近代国家に特徴的な倫理の内容的価値に対する中立性、国家機構の基礎を法に求めるという姿勢、そして「私」の保証というものが日本においては出現しなかった。法は制限を加えるという性格のものでなく、天皇を長とする権威のヒエラルキーにおける具体的支配の手段にすぎなかった。また、近代諸国家の支配根拠は常にその正当性を監視された一方、日本においては国家そのものが倫理の内容的価値の実体であり、国体において真善美の価値を占有するために、国家が価値内容の独占的決定者であった。その結果、「私的」なものは悪であり否定されるものとなってしまったのだ。逆に言えば私的性格を持つものでも国家的意義に結びつけさえすればその正当性は守られた。そのため国家的といった名のもとに無制限に私的利害が流入することになったのだ。そして国家への大義という名の下で多くの不条理なことまでが正当なこととして行なわれた。

ここでさらに大戦突入における日本の状態に触れてみたい。丸山氏は日本軍が戦争中に捕虜に対して行なった殴打などについて述べている。ここで丸山氏は、日本兵の行なった残虐行為は自我意識からではなく国家権力との合一化に基づく地位的優越性から来るものだと指摘した。そもそも真善美の極致である日本国家本質的に悪為さないためにいかなる暴虐的な振る舞いも背信的行動も許容されるのである。そして、国家機構の精神的機動力は究極的価値である天皇への近接度である。よって天皇直属の軍隊である軍部というのは、天皇という権威の下でセクショナリズムの問題も相まってその優越的地位と法の単なる支配的性質から、残虐行為をたいした自我の意識なくやってのけてしまったのだ。またこうした日本の残虐行為の原因としてもうひとつ挙げられているのが、丸山氏の言葉を借りれば、「抑圧の移譲による精神的均衡の保持」とでもいうべき現象である。上からの圧迫感を下への恣意の発揮によってバランスが保持されているということだ。簡単に言えば「ガス抜き」とでもいえると思うが、つまりは出兵先の外国で日本人、そしてその多くが一般兵、があれほどに残虐になれた理由として、国内での地位の低さ、すなわち上から圧力を受ける立場であった者が戦地では皇軍としての優越的地位に立ち、今までの重圧を一気に開放した結果が残虐行為となって現れたというものだ。

そして最後に、上記の問題の責任、つまり戦争の責任がとどのつまり誰にあるのかという問題を考えたいが、丸山氏はこの日本の明治から第二次大戦へと続く日本を、「無責任の体系」と述べている。まず、多くの軍隊や日本を戦争へと導いた国政を動かしていた寡頭勢力が全くその意識や自覚を持っておらず、被規定的意識しか持っていなかったのだ。意識や自覚がないということは当然責任というものを軍部も官僚も持っていなかったのである。つまり、上からの圧力や命令、大義などとして行なった行為は客体的な様相を帯びながらその実は主体的なものであり、そしてその責任は被規定的意識によって無視されたのである。彼らの行動は全て天皇という絶対的価値から生じたものであるゆえに責任は天皇にあるとするのである。しかし、それでは天皇が無よりの価値の創造者であるのかというとそうではない。天皇もまた伝統の権威を背負っており、2600年におよぶ皇祖皇宗の統治の洪範に基づいて統治を行なっているというのだ。これによって日本の国家主義の価値の妥当性が半永久的な拡大を保障されたのである。これ日本超国家主義と呼ばれた所以である。そして、原因を過去にまでさかのぼることによって現在の誰にも責任がないといったこのような状態を作り出した日本の構造こそが、丸山氏の述べた「無責任な体系」なのである。

そして、戦後GHQによる大々的な日本の改革において、戦前もっとも権力を持っていた天皇が国家の象徴となり事実上の権力を放棄し、さらに平和憲法の制定により戦力をもたなくなり軍がその力を失ったことは大きな前進であると思う。しかし大戦直後の体制が主にアメリカによって規定されたこと、そして日本の対外政策が極めてアメリカを配慮して、極端に言えばアメリカのために行なわれているかのごとく見える現実は、日本が決して同じ過ちを繰り返さないと断言できない不安材料である。たしかに今日では民主制のもと国民が国政を常に監視しているために前のような極端なことは起こりえないだろう。しかし、絶対的な力としてのアメリカの存在と比較的盲目状態でそれに追随をする日本を見ているとなんとなく図式が似ているせいもあり、再び「無責任な体系」と述べられた時世のような事態に直面する可能性が全くないとは言えないのではないか。