はじめに
| ベトナムは紀元前から中国の影響下にあったため,その歴史的な政治形態や文化は多く中国に倣ったものになっている。しかも中国と陸続きのため,その影響は日本に比べてはるかに強く,かつ連続的なものであった。 近代以降も、ベトナムはフランスや日本軍の支配化に置かれる状況が続いた。そしてアメリカ軍とのベトナム戦争を勝利に治めたことにより、苦難の末ついに祖国を統一することが出来た。近世の建築様式を見ると、日本やフランス、そしてまた中国のそれが大きく関わってきていたのが良くわかる。ここでは、これまでベトナムがたどって来た歴史をベトナムの建築文化が分かる世界遺産を参考にしながら紹介していこうと思う。 |
1、ベトナムの歴史と民族
ベトナムが現在の国土を実効支配するのは19世紀初頭からである。周知のようにインドシナは多民族が混在する地域である。ベトナムはキン族が全体の90パーセント、あとは53もの小数民族が共存している。( ベトナムの少数民族は、かなり大雑把であるが2つの傾向に分けることができる。ひとつはキン族の国ができる紀元前500年頃よりもはるか前から、ベトナムの地に住んでいた諸民族である。これにはザライ族・チャム族・クメール族などが含まれ、現在は主にベトナムの南半分に住んでいる。もうひとつは、キン族が国を建てた後に、中国南部から南下してきてベトナム北部の山地に定住した諸民族である。これにはターイ族やモン族などが含まれる。こうした、あとから南下してきた民族のなかには、19世紀までベトナムへの移住が続けられていた場合もある。)
キン族・・・ベトナム総人口のおよそ9割を占める圧倒的な多数民族。キン族はベト族とも呼ばれている。キンとは漢字で「京」であり、自らを「都の住人」「都市の住人」と称する表現である。 ベト族のベトとは漢字の「越」であり、ベトナムの「ベト」である。キン族の発祥の地は、古くは中国南部に求められるが、ここ2000年あまりの間は、ベトナム北部の紅河デルタを本拠として、ベトナムの中部、さらに南部へと居住地を拡大していった。ベトナム北部本拠時(紀元前から6世紀にかけて)に、中国雲南に起源をもつドンソン文化と呼ばれる青銅器文化が成立。
一方、中部ではインド文化の影響をうけたチャム族が2世紀にチャンパ王国を、南部ではドンナイ文化(金属器文化)の扶南国が成立していた。チャンパ王国は海洋貿易で栄え、日本との交流もあった。南部はその後クメール人の国家に変わる。
チャム族・・・現在、チャム族の人口は約10万人にすぎないが、かつては北方のキン族とベトナムを二分する勢力を誇った民族であった。チャム族はおもに中部のニントゥアン省とビントゥアン省に居住するほか、南部のメコンデルタの一部やホーチミン市周辺にも住んでいる。チャム族はオーストロネシア語族に属しており、言語学的にはマレー人やインドネシア人と親戚関係にある。
チャム族は、中部を本拠として断続的にキン族と争ったが、15世紀末にキン族に滅ぼされた。現在メコンデルタに住んでいるチャム族は、王国を滅ぼされたあとに、当時まだカンボジア領だったメコンデルタに逃れたチャム族の子孫だといわれている。
チャム族は現在では民族人口でベトナム14位の少数民族であり、強盛を誇った昔の面影はないが、ニントゥアン省ファンラン市の周辺などでは、今なおチャム族を見かけることが多い。またダナン以南の各地には、チャム族が造ったヒンドゥー教の遺跡が多数残っている。チャム遺跡のある場所としては、ユネスコ世界文化遺産に登録されたミーソン聖域のほか、ニャチャン(カインホア省)やファンラン(ニントゥアン省)があげられる。
北部は10世紀にはいり、中国からの独立をはたし国家統合・民族意識が強まるにつれて中国文化の摂取が積極的になされる。11世紀後半には科挙制度が導入され、大乗仏教、儒教などの漢字文化の繁栄をみる。
こうして文化的創造力の高まりを背景にチュー・ナン文字(字喃)が13世紀に発明されベトナムの民族的独自性は強まった。中央集権が強化され、諸制度が完備するにつれて生産の増大から人口増をみた。過剰な農村人口を抱えた政府は以前から行われていた中部・南部への移民(「南進」政策)を本格化し、15世紀末には中部のチャンパを併呑しさらに17世紀末には南部に達する。内部抗争ののち、タイ、フランスなどの支援を得たベトナム最後の王朝、グエン(阮)朝によって北部から南部までの統一がなされる。
南進運動の進め方は屯田兵的な開拓植民方式であり、農地を広げながら先住民族との戦いを繰り返すものであった。新しい土地では北部の厳しい自然環境から規定された農村集落の強固な結合の必要はなかった。肥沃で広大なメコン河流域地域では、むしろ、南国的な孤立分散というゆるやかな結合社会が可能であり、そうした状況下で女性たちは、性役割の厳しい儒教を離れ、大乗仏教やキリスト教への接近をこころみ、自らの解放を獲得していったのである。