杜甫
712〜770
キョウ(河南省)に生まれ、7歳で詩文を作り、14歳で落葉の文人の仲間に入ったが、24歳で科挙を受験して落第。以後は官史になるために奔走するという下済み時代の生活が続く。
35歳で長安に出た杜甫であるが、試験を受けても落第、高官に取り入ろうにも思うようにならなかった。そのうち玄宗は楊貴妃に愛を傾けすぎて政治を怠り、それに乗じて節度使の案禄山が反乱を起こした。杜甫はその年、待望の官史になったが、十分な働きはできなかった。
長安間落語、粛層の即位を聞いて行在所に向かった杜甫は、途中で賊軍に捕らえられて長安に拘留された。翌年の春、長安を脱出して粛宋のもとに駆けつけた杜甫は、左拾遺(天子を諫める官)に命じられた。しかし職務に忠実なあまり、粛宋に疎んじられてしまった。
賊の勢い調停は長安に帰ることができたが、杜甫は華州の地方官に左遷された。そのころ長安一帯を襲った大飢饉のために官を棄てた杜甫は、食料を求め、家族をつれて西へ移動し、ようやくの思いで成都にたどり着いた。そこには友人の玄武が節度使として赴任しており、人々の援助で、杜甫は生涯でもっとも幸せな数年を送ることができた。しかし、玄武の死によって成都を去り、家族を連れて長江を下っていった。それから数年後、洞庭湖に浮かぶ舟の上で、苦難の生涯を閉じた。
杜甫の願いは、玄宗を堯、舜以上の天子とし、その下で天下人民のために働くことであった。直接政治に携われないならば、世の不正に対する不満を詩や文に表現し、それが何らかの形で政治に反映され、やがて人民が幸福になっていくのだと、自分の詩人としての使命を信じて疑わなかった。杜甫の詩には、世の中の平和を願う誠実な思いが感じられる。
杜甫の詩
春望
杜甫
国破山河在
城春草木深
感時花灌涙
恨別鳥驚心
烽火連三月
家書抵万金
白頭掻更短
全欲不勝簪
口語訳
国都長安は破壊されたが、山河はしっかりと存在している。
町々には春が来て、草木は深々と茂っている。
このような時勢に心を痛め、美しい花を見ても涙が流れ、家族との別れを悲しんで、鳥のさえずりにも心をびくつかせる。
のろしの日はこの三月になっても続いており、家族からの手紙は万金にも相当するほどだ。
たまらなくなって白髪頭を掻きむしれば、今さらのようにその薄さが手にこたえ、
これでは全く簪もさせそうにないと嘆かれることだ。
<第一学習社カラー版新国語便覧より抜粋>