Update:2003/1/26
2002/7/20
2002年8月8日、加治木町加音ホールにて京都大学とジョイントコンサートをします。
演奏曲目は
1.Symphonie Nr.5 c-moll op.76 L.V.Beethoven
交響曲第5番「運命」 ベートーヴェン
鹿児島大学管弦楽団
2.Symphonie Nr.1 e-moll op.39 J.Siberus
交響曲第1番 シベリウス
京都大学交響楽団
3.Finlandia J.Siberius
フィンランディア シベリウス
鹿大&京大
4.I Pini Della Via Appia Respighi
アッピア街道の松 レスピーギ
鹿大&京大
開場 18:30 開演 19:00
鹿児島大学管弦楽団 -- 京都大学交響楽団 -- 加音ホール
2002/8/10
ジョイントコンサートは無事終了しました。最後の「アッピア街道の松」は総勢約150名による大編成!忘れられない演奏会の一つになったのではないでしょうか?
2002/8/22
演奏旅行が9月2日から8日まであります。おおまかな日程は以下のとおりです。小中学校の公演は一般の方がお聞きになることが出来ません。小中学校以外は一般向けの公演です。
9/2 (Mon.)・・・菱刈町立南永小学校 *開演 10:00
9/3 (Tue.)・・・阿久根市立阿久根小学校 *開演 8:25
東町立獅子島中学校 *開演 未定
9/4 (Wed.)・・・出水市立大川内小学校 *開演 8:45
出水市立東出水小学校 *開演 10:50
出水市立米ノ津東小学校 *開演 14:10
9/5 (Thu.)・・・菱刈町立本城小学校 *開演 未定
宮之城町盈進小学校 *開演 14:10 15:15 (2回公演)
9/6 (Fri.)・・・大口市立牛尾小学校 *開演 9:25
大口市立大口東小学校 *開演 11:25
宮之城町佐志小学校 *開演 未定
9/7 (Sat.)・・・宮之城町公演 場所:宮之城町文化センター *開場 17:30 *開演 18:00
9/8 (Sun.)・・・出水市公演 場所:出水市文化会館 *開場 13:30 *開演 14:00
主な演奏プログラム(公演時間によって減ることがあります。)
Les Toreadors. No.5 (Introduction to Act 1) from "Carmen" Georges
Bizet
歌劇「カルメン」より 抜粋 ビゼー
No.1 Scene from"The Swan Lake" Suite op.20 Peter Irich Tchaikovsky
組曲「白鳥の湖」より「情景」 チャイコフスキー
Kinder Symphonie Leopord Morzart(Joseph Haydn)
おもちゃの交響曲(シンフォニー) レオポルド・モーツァルト
highlights from The Sound Of Music Richard Rodgers
サウンド・オブ・ミュージック リチャード・ロジャース
The Syncopated Clock Leroy Anderson
シンコペーティッド・クロック(狂った時計) ルロイ・アンダーソン
Finlandia op.26 Jean Sibelius
交響詩「フィンランディア」 シベリウス
*一口メモ*
まず、歌劇「カルメン」から。この曲は、Georges Bizet(1838-1875)、ビゼーによってかかれました。ビゼーはフランスの作曲家です。もととなっているのは、メリメの書いた「カルメン」という作品です。実話をもとに書かれたというこの作品は、「嫉妬」や「愛憎」という感情が描き出されています。主人公であるカルメンは自由奔放な生活を送り、許嫁のいる軍隊の男性、ホセを誘惑します。喧嘩をおこしてつかまったカルメンをホセは逃がし、ホセが牢獄に入れられます。ホセの上司もカルメンに誘惑され、そしてホセはカルメンの密輸団に入ります。カルメンは移り気で、次の男性の闘牛士に心はいっぱいで、もはやホセのことなど頭にありません。闘牛の日、カルメンとホセは再会し、ホセが「やり直そう」といいますがカルメンに冷たくあしらわれ、ホセは絶望し憎悪からカルメンを刺し殺してしまいます。初演は1875年、パリのコミック座にて行われましたが、不評に終わり、失意の中ビゼーは37歳の若さでこの世を去ります。主な要因は、当時としては過激な歌劇だった、と言われています・・・。その追悼公演においてこの作品が演奏され、大変好評を博しましたが、残念なことにすでにビゼーはこの世にはいませんでした。
次に、「白鳥の湖」。王子ジークフリードは、湖のほとりでオデット姫に出会い、恋に落ちます。オデットはロートバルトによって白鳥に変えられ、夜しか人間の姿に戻れません。 彼女を呪いから解くのは真実の愛だけと聞かされ、王子はオデットを救おうと決心します。しかし、ロートバルトの策略にかかり、翌日の舞踏会にやってきた彼の娘オディールに永遠の愛を誓ってしまいます。 もはや破滅を待つしかない恋人たちをあざ笑うロートバルト。王子は最後の力を振り絞って運命に立ち向かいます。最後は二人の気高い愛が、呪いをうち破ります。
2002/9/14
演奏旅行は全公演終了しました。小学校の皆さん、来場してくださった皆さん、ありがとうございました。
2002/11/21
次回演奏会のプログラムが決まりつつあります。
第69回定期演奏会
Symphonic poem "Finlandia" op.26 Jean Sibelius
交響詩「フィンランディア」 作品26 シベリウス
Consert for Viollincello a-moll op.33 Camille Saint-Saens
チェロ協奏曲 イ短調 作品33 サン=サーンス
Symphonie Nr.8(4) G dur op.88 Antonin Dvorak
交響曲第8番 ト長調 作品88 ドヴォルザーク
2003年1月26日
谷山サザンホール
開場 14:00 開演 14:30
全席自由 \1,000
2003/1/26
第69回定期演奏会は終了しました。ご来場くださった皆さんありがとうございました。
アンコールの曲は、ワーグナーのローエングリンより第3幕前奏曲でした。
Useful Links
Ludwig van Beethoven (1770-1827)
ベートーヴェンは、無名のテノール歌手ヨハンの息子としてドイツのボンに生まれました。ベートーヴェンの音楽的才能にいち早く気付いた父は、第2のモーツァルトにしようと音楽の猛特訓を行いました。1787年に彼はウィーンへ行き、そこでモーツァルトに会いました。彼はウィーンに登場したとき、ピアニストとして登場しました。当時ウィーンで活躍していた多くのピアニストたちと演奏試合を行い、相手を打ち負かしていったのです。
1792年、彼はハイドンにも会い、ハイドンもベートーヴェンの才能に感服したのです。ベートーヴェンはこれらの期待に応え、あらゆる分野において多くの傑作を生み出しました。1827年にベートーヴェンは亡くなりましたが、その葬儀にはシューベルトを含む2万人ものウィーン市民がつめかけたといいます。
ベートーヴェンはピアノでオーケストラと同様の効果を得ようとしていた。彼の教師はボンの宮廷オルガニストのネーフェでしたが、ネーフェは最初ベートーヴェンにバッハの『平均律クラヴィーア曲集』とオルガンと理論を教えることから始めた。ネーフェの指導の下、ベートーヴェンは恐るべき即興演奏者であり初見演奏者、そして12歳にしてボンのオーケストラのチェンバリストとヴァイオリニストを勤めました。
クレメンティやモーツァルトなどに比べて、ベートーヴェンの弾き方は荒削りであったかも知れませんが、ベートーヴェンのような力強いピアニストはそれまでにはいませんでした。
Symphonie Nr.5 c-moll op.67
この作品の愛称として親しまれている「運命」という愛称は、弟子に第1楽章の第1主題の意味を尋ねられたときに、ベートーヴェンが『運命がこのように扉を叩くのだ』と語ったという伝記によって伝えられています。しかしベートーヴェン自身は、意外にも陽気な性格の人物だったようで、それは作曲した9曲の交響曲のうち実に7曲までが長調で書かれていることにも現れているでしょう。この言葉も、もしかすると軽い気持ちで発言されたものだったのかもしれません。単に「ハ短調交響曲」といえば,この曲を指すことが多いようである。「運命」という愛称は、主に日本でしか通用しません。海外では「ハ短調交響曲」「五番交響曲」と呼ばれ親しまれているようです。ハイドンの第95番やメンデルスゾーンの第1番,ブラームスの第1番,ドヴォルザークの第1番,チャイコフスキーの第2番なども同じc-mollです。
ベートーヴェンはハ短調と変ホ長調の曲に傑作を残しています。有名なものだけでも,ハ短調ならばピアノ協奏曲第3番やピアノソナタ第8番「悲愴」、ピアノソナタ第32番など、変ホ長調ならば交響曲第3番「英雄」やピアノ協奏曲第5番「皇帝」などです。ベートーヴェンは、この調を好んでいたのだろうと思われます。
Jean Sibelius (1865-1957)
ヘルシンキ北方のハメンリンナにて父クリスチャン・グスタフ、母マリアとの間に生まれる。同年にはカール・ニールセンも生まれる。主な作品は交響曲第2番(1902)、ヴァイオリン協奏曲(1904)、フィンランディアなど。
フィンランディア・時代背景
シベリウスが生まれた1860年代に、そのころのフィンランドでは製紙が盛んになり、またフィンランドの自然を生かした製材業などもおおく営まれるようになりました。フィンランドの歴史はとても長く、最近の調査では10万年以上前からすでに人が住んでいた、ということだそうです。シベリウスの生まれた頃、フィンランドは1808〜1809年に起こった、フィンランドをめぐる戦争で、スウェーデンがロシアに負け、フィンランドは「大公国」つまりロシア皇帝を元首とする国になっていたのです。また、1899年には当時のロシア皇帝ニコライ2世によって発布された「二月宣言」に対し、フィンランドの国民は反発。以後、反ロシア感情が生まれてしまうことになる。このことは1917年のロシア革命後の独立まで続くことになる。
フィンランドという国は、世界ではじめて女性が男性と同じ選挙権・被選挙権を勝ち取った国だそうです。
1917年、ロシアで革命が起こり、ついにフィンランドはロシアから独立することになります。ロシアのボルシェヴィキ党ひきいる新政府が、同年12月31日に認め、正式に独立したことになります。
「フィンランディア」は、フィンランド第2の国歌として、現在親しまれています。
フィンランドの科学的見地から見た気候というものを見てみましょう。まず、気候は、「亜寒帯湿潤夏高温気候(Dfb)」というのだそうです。どれくらい寒いかというと、月の平均気温がなんとマイナスになるようです。年平均気温も5度とか、それくらい気温が上がりません。ただ夏は、月平均が18℃くらいまであがり、なかなか暑い。そして首都であるヘルシンキの緯度は、だいたい北緯60度。北海道の北端がおよそ北緯45であることを考えると、すごく高いことがうかがえます。
フィンランドという国は、当然のことながら寒い気候です。冬になると寒い寒いといいますが、日本の、特に西日本の方の寒いと、フィンランドのそれとは、ものすごく大きな違いがあります。だからこそ、長い長い冬を経たからこそ、「春」が訪れたときのその感動は、他の何にもかえがたいものがあるでしょう。それは、実際に冬を体験しなければ本当には決して分からないものなのかもしれません。
そしてフィンランディアには、もうひとつ、他国の支配を受けていたという歴史があります。これこそ、現代の「完全戦後派」世代の我々には「自分自身の記憶」としては何も残ってはいません。ただ知っているのは「伝えられたもの」でしかありません。
「フィンランディア」の曲中では、それをたたみかけるように訴えるさまざまなモティーフが次々と登場してきます。
厳しい気候と、歴史。二つのものを、その強固な意志によって貫いた、フィンランド。背景には、美しく雄大な自然。そんなフィンランドという国と、そこに息づく人々をたたえる。それが、フィンランディアという一つの曲であり、そんな曲だからこそ、歌い継がれ、第2の国歌とも呼ばれる所以であるのでしょう。(製作中)
フィンランディア・その詩
*原文*
-- Finlandia-hymni --
Oi Suomi, katso, sinun paivas koittaa,
yon uhka karkoitettu on jo pois,
ja aamun kiuru kirkkaudessa soittaa
kuin itse taivahan kansi sois.
Yon vallat aamun valkeus jo voittaa,
sun paivas koittaa, oi synnyinmaa.
Oi nouse, Suomi, nosta korkealle
paas seppeloima suurten muistojen,
oi nouse, Suomi, naytit maailmalle
sa etta karkoitit orjuuden
ja ettet taipunut sa sorron alle,
on aamus alkanut, synnyinmaa.
交響曲第1番 ホ短調 作品39
Symphonie Nr.1 e-moll op.39
1.Andante ma non troppo - Allegro energico
2.Andante(ma non troppo lento)
3.Scherzo Allegro - Lento(ma non troppo) - Tempo I
4.Finale(Quasi una Fantasia) Andante - Allegro molto
シベリウスは、純粋な交響曲を手がける前にも、「クレルヴォ交響曲」、「カレリア組曲」、「レイミンカイネン組曲」などの曲や歌曲などをすでに作曲していた。第1番作曲開始の前年、1897年であるが、シベリウスはフィンランド政府から年金をもらえることになった。このことで、教鞭をとっていたシベリウスは万障を配して交響曲の作曲に専念することになる。ただ作曲さえすればいいという条件、生活に困らないという条件がシベリウスの創作意欲をかきたてたようである。
そしてついに、1899年春、交響曲第1番は完成する。同年4月26日、シベリウス自身の指揮でヘルシンキにて初演された。
第1番の編成は、2管編成にハープ、打楽器を加えた比較的大きくはないものであるが、その中から繰り出される感情のほとばしり、そして力強い爆発は、聞くものを圧倒させる。チャイコフスキーやボロディンの影響を受けていると表されるその音は、例えば第1楽章冒頭のクラリネットの重々しい旋律に表れているだろう(という評があるようです)。確かにチャイコフスキーの交響曲第5番の冒頭のクラリネットのあの旋律を先に聞いてしまった私としては、あれ?と思ってしまいました(調性もなんとe-mollだし・・・)
ただ、シベリウスの音楽は、「美しいもの」をただならべるような、そんな音が書き込まれているようには思えません。中で流れているのは確かに、とても美しく、澄んでいるものですが、ただ、「恐怖」というものも内包しているのではないだろうかと思ってやみません。それはきっと、容赦せずに毎年襲ってくる厳しい厳しい冬、それにフィンランドのもつ歴史、さまざまなものが互いに折り重なって編みこまれているものではないかと思います。
ただ、なぜかアマチュア・オケでは終わりがピッツィカートである、というのがあまり好まれないようです。なぜでしょうかね。
シベリウス・フィンランドのリンク
Portrait of Jean Siberius -- シベリウスの情報がぎっしり詰まったサイト。
Linux -- 1991年にフィンランドの学生 Linus Torvalds によって開発されたOS。
シベリウスの一番有名な曲はやはり「フィンランディア」ではないでしょうか。フィンランドの第2の国家として歌い継がれている曲です。しかし練習場所に冷房のないアマチュアオケは汗だくになりながらシベリウスを演奏することに・・・。
レスピーギについて
レスピーギ(1879-1936)
管弦楽法をリムスキー・コルサコフに師事。
ローマの松(1924)は「噴水(1916)」「祭り(1928)」とともにローマ三部作のひとつ。バンダの使用や、テープの使用など珍しい手段も用いられている。
「アッピア街道の松」は、朝霧の中を軍隊が進軍する様子を描いた。レスピーギ自身による説明がある。「霧に包まれたアッピア街道の夜明け。高い松並木の陰に、静かな平原の景色が見える。突如として、多数の兵士の足音の響きが、絶え間ないリズムを取って聞こえてくる。古代の栄光が詩人の幻想によみがえる。トランペットの音がとどろき、太陽の光が射すとともに、執政官の軍隊が現れ、聖なる街道を目指して、首都へ凱旋していく。」
本物のアッピア街道とその松
ブラームスについて
Brahminen -- ブラームスのパーソナル・データを中心としたブラームス・サイト。
Symphonie Nr.1 c-moll -- ブラームスが20年かかって書き上げた曲。ブラームス代表作の一つと言えるでしょう。
Symphonie Nr.4 e-moll -- ブラームス作品の中で私の一番のお気に入りです。
ショスタコーヴィチについて
Shostakovich, Dmitri D. (1906-1975)
ドミトリ・ドミトリエヴィチ・ショスタコーヴィチは、旧ソ連に生きた、歴史の証人であり、20世紀を代表する作曲家です。
Shostakovich Home page -- ショスタコービチについての略年譜や主要作品など。
Symphonie Nr.7 -- 交響曲第7番「レニングラード」。初演は1942年。クイビシェフにおいてサムイル・サモスード率いるボリショイ劇場管弦楽団によって初演される。現在のサンクトペテルブルクである「レニングラード」は、ペトログラード・レニングラード・サンクトペテルブルクと歴史の波により名を変える。初演は、空襲がだんだんと激しさを増す中、行われた。管弦楽団は皆軍服。物資もあまりない中で演奏会は行われた。
Symphonie Nr.4 -- ショスタコーヴィチの交響曲全15曲のうちで、作曲された年と初演がかけ離れている曲。レーニンによって行われた「血の粛清」はショスタコーヴィチの作曲活動にも影響を与えた。続く第5番は当局の要請による作品。長い間眠っていたこの交響曲は幻であった。
Antonin Dvorak (1841-1904)
皆さんは子供の頃キャンプファイヤーを囲んでこのような歌を口ずさんだ経験はないだろうか?「遠きー山にー日は落ちてー・・・」このメロディー(交響曲第9番第2楽章のモティーフ)の作者が、ドヴォルザークである。ドヴォルザークは、チェコの当時ミュールハウゼン(現ネラホゼヴェス)と呼ばれた村に生まれる。父の肉屋兼宿屋を継ぐためにズロニツェなどの町に出てドイツ語を勉強した。チェコはそのときドイツの支配下にあり、職を得るためには必ずドイツ語が必要であった。ドイツ語の先生はみな音楽であり、作曲やオルガンの手ほどきを受けた。ドヴォルザークの音楽家としての道はここに開かれたのである。最初父親は音楽家になることを反対したが、結局は折れた。交響曲第3番がブラームスの目にとまり、正式に楽壇デビューすることになる。
ドヴォルザークが16歳のとき、プラハの音楽学校に入学する。卒業後はプラハの一流のホテルやレストランなどで演奏していたカレル・コムザーク楽団にヴィオラ奏者として入団する。
ドヴォルザークは40歳くらいになってから生活は安定していたが、まだ不本意な作曲もしなければならなかった。そのためいらいらすることも多かったが、妻アンナの支えにより芸術家に見られる奇行などはなかったらしく、よき家庭の夫であったようである。
1892年にドヴォルザークはニューヨークの大富豪の夫人ジャネット・サーバーの経営するアメリカ音楽院の校長に破格の待遇で迎えられ、渡米する。3年間の滞在の間に、交響曲第9番や、チェロ協奏曲、弦楽四重奏曲第12番「アメリカ」などの傑作が書かれた。チェコからの移民は多く、彼の作品はよく演奏された。とりわけ第9の初演は好評だったようである。特に第2楽章では演奏を聴きに来ていた人々の間からはすすり泣く声が聞こえてくるほどの感動を与えた。
アントニン・ドヴォルザークは、ドイツやフランスのロマン派の流れを受け継ぐ「国民楽派」の作曲家である。その作品は旋律にすぐれ、例えば交響曲第9番「新世界より」の第2楽章のモティーフにあるように、誰にでも親しまれ口ずさまれるものが多い。旋律の美しさは他の追随を許さないといえるだろう。ブラームスやチャイコフスキーとも親交があり、互いに刺激しあっていた。ブラームスの影響から絶対音楽志向であった。ドヴォルザークの故郷はチェコであるが、チェコの旋律を多く使用し、それが同じ絶対音楽志向のブラームスとは大きく異なる点である。
主なドヴォルザークの作品は、シンフォニーが9曲、コンチェルト3曲、序曲、ピアノ曲、声楽曲など。コンチェルトは「ドボコン」の愛称で親しまれるチェロコンチェルト、それにヴァイオリンなどである。
ドヴォルザークの交響曲は、はじめ本人が8曲だけだと思い込んでいた。しかし最近本人が破棄していたと思い込んでいた現第1番「ズロニツェの鐘」が発見され9曲となった。
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Symphonie Nr.8(4) G-dur Op.88(B163)
「新しい方式の、個性的な曲想のこれまでとは異なった交響曲」と、ドヴォルザーク本人が述べる交響曲である。1889年に夏の避暑に出かけた時に書かれた曲である。そういえばブラームスの交響曲第2番も夏に避暑に出かけて書かれた曲である。ブラ2はD durだから、やはり人間広大な自然に触れ休暇を過ごすとdurな気分になるのであろうか?
ボヘミア色の薄い第7番に対して全面的に民族色を打ち出した作品となっている(特に2・3楽章)。副題には「イギリス」とあるが、これは当時チェコのジムロックという出版社ともめたドヴォルザークがイギリスのノヴェロ社から楽譜を出版したことが主な要因である。この曲は絵画的な部分が多い。また冒頭ではg mollから始まる。4楽章はバリエーションとなっている。初演は1890年。成功に終わったようである。
第1楽章 Allegro con brio
第2楽章 Adagio
第3楽章 Allegretto grazioso
第4楽章 Allegro ,ma non troppo
おすすめ音源・・・ラファエル・クーベリック指揮 ベルリンフィル
リンク
ド・ヴォル・ザーク・・・こんなドヴォルザークもあります!おすすめページ。
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