雨の世界(前編)
灰色の雲が空を覆っている。
夜だというのに月も星も見えず、かわりにしとしとと雨が降っている。
空気は湿気ていて、息を吸い込むだけで心がよどむ。
「やっぱり、やめておけばよかったかもなぁ…」
暗鬱な気持ちで空を眺めながら、竹内直也はため息をついた。
背後には、黒い巨人のような夜の学校がある。直也は校門前に佇んでいた。
自分は何故、こんな時間にこんな場所にいるのだろう。
直也は部室での会話を思い出した。
「ようやく全員揃ったね。今日の夜、学校で幽霊捕まえるから。11時校門前に集合。よろしくね〜」
昼休み。部室の扉を開けた直也に、部長の冬月琴乃はいつも通りにこにこしながら声をかけてきた。
部室には琴乃の他にもう一人、黒い背表紙の本を読んでいる少年がいる。彼は驚いたように顔を上げた。
「それは……まさか、屋上のあれか?」
その少年――黒崎翔が眉をひそめて問い返した。琴乃が嬉しそうに頷き、直也に向き直る。
「直也君も知ってるよね?」
屋上のあれ。直也ももちろん知っている話だ。
直也の通う県立光陽高校には、こんな怪談がある。
『雨の夜に学校に来てはいけない。屋上に幽霊がいる』
たったこれだけの、怪談と言うにはお粗末すぎる話。
琴乃はそんな話を信じて、そのうえ幽霊を捕まえようと言うのだ。
普通ならばこんな事に賛成するはずがない。直也と翔も、普通ならば一笑に付しただろう。
だが、彼らは普通ではなかった。
悲しいかな。彼らは「オカルト研究会」に属しているのである。
こんな事は日常茶飯事。彼らはこれを『取材』と呼ぶ。
オカルトと言えば幽霊よね、とは琴乃の言だ――
「すまん。待たせたようだ」
直也の回想は唐突にとぎれた。
目の前に翔が立っている。翔の横には「ごめんね〜」と手を合わせる琴乃の姿もある。
時間は11時ジャスト。琴乃はともかく、翔はいつでも時間に正確だ。
「いいよ。僕が早く来すぎただけだから。」
直也はいつも集合時間の15分前には到着してしまう。
待つことを苦にしない性格だが、さすがに雨の夜は辛かった。
「カメラの方は万全か?」
翔が直也の首から下がったカメラを見ながら聞く。
取材にカメラは欠かせない。
取材に関して、直也達三人は各々役割を持っている。
直也は『カメラ係』だ。昔ほんの少し囓ったことがあるので、三人の中で写真を撮るのが一番上手い。また、直也はよく心霊写真を撮ってしまう。翔に言わせれば『お前は一番呪われやすい』そうだ。普通のカメラマンとしては失格だが、取材にはもってこいの能力だ。
翔は『怪奇現象対策係』。翔は三人の中で一番オカルトに造詣が深い。取材で何か問題が起こったとき、その知識を使って対策するらしい。幸い、今のところ問題が起こったことはないが。また、魔除けのアイテムなどをどこからか調達してくる。
琴乃は『部長』で、おもに煩わしい書類仕事などを引き受けている。取材を文書に起こすのも彼女の仕事だ。ただ、彼女の仕事はそれだけではないと直也は思っている。取材現場では、彼女の明るさがどんなライトよりも心強い灯りとなるからだ。
「もちろんだよ。手入れは欠かしてない」
直也の答えに、翔だけでなく琴乃も頷いた。
「それじゃ、レッツゴー」
無駄に嬉しそうな琴乃の声を合図に、3人は行動を開始する。
校門を乗り越え、部室棟へ。校舎の窓は生徒が帰った後に閉められてしまうが、部室の窓が盲点で、開けたままに出来るのだ。部室から校舎に侵入する。
夜の校舎はかなり恐い。暗くどこまでも続く廊下がまるで不気味な異界のようだ。外から響いてくるしとしとという雨の音が、さらに不気味さを増している。
それぞれ持ってきた懐中電灯で足下を照らしながら、屋上を目指す。
無言で先頭を進む翔。恐怖を感じないのか、にこにこしながら後に続く琴乃。いつもながら、直也は二人の神経がどうなっているのか疑問に思う。
「夜の学校って、まるで異界みたいだと思わない?」
恐怖を和らげるため、直也は二人に声をかけた。
「そうだね〜。今にも幽霊がでそうだよね〜」
明るい声で琴乃が乗ってくれた。琴乃と会話するだけで恐怖が消える気がする。
「だろ?夜の学校が幽霊のたまり場なのも分かる気がするよ」
「うんうん。こんな雰囲気だもんね〜」
「もしかして本当に異界なのかも。僕たち、知らないうちに異界に来ちゃってたりして…」
深い意図があって言ったわけではなかった。しかし
「………確かに、俺達は今異界にいるな」
唐突に、それまで無言だった翔が口を開いた。
内容が内容だけに、直也と琴乃は口をつぐむ。
二人を気にした様子も見せず、翔の言葉が暗い廊下に響く。
「そもそも、異界とは『異なった世界』だ。読んで字の如くな。だが、ここで考えて欲しい。異なったと言うからには何か『異なっていない』確たる基準があるはずだろう?一体何を基準として異なっているんだろうな」
翔が言葉を切る。こちらの意見を求めている。
「人間界とか?」
琴乃が首を傾げながら答える。翔がゆっくりと首を振った。説明が続く。
「確かにそれも一種の基準だろう。人間界と異なる世界、俗に精霊界や魔界などと呼ばれる世界だな。確かにそれらも異界ではある。だが富士の樹海や、あるいは異国の地などではどうだ?それらも異界と称したりするだろう。人間界であるにもかかわらず、な」
翔の言葉に、琴乃はしばし考えて
「う〜ん、それじゃ自分が普通だと思う世界とか」
と言った。ずいぶんと抽象的な答えだが、翔は満足したようだ。軽く頷く。
「大雑把すぎるが、有り体に言えばそうだ。普通だと思う世界、正確に言えば『異分子のない世界』だ。精霊や悪魔、密林や文化の違う建物が異界を構築する異分子だ。普通とは違う、と認識するわけだからな」
「普通と違うと認識する物が異分子なの?」
直也には翔の話が最初からサッパリ理解できなかったが、琴乃は理解していたようだ。首を傾げながら質問している。
「いや、むしろ認識するだけで異分子足り得ると俺は見ている。たとえ家の中にいても、『自室』を認識してしまえばそれが異分子となる。まぁ、異分子が弱すぎて異界とは呼べないが……」
理解したのか理解しなかったのか、琴乃はコクコクと頷いた。
「どうも幽霊という物は異界が好きなようでな…。いや、幽霊そのものが異分子なのかも知れない。例えば、トイレの花子さんという怪談。あれは『学校』と『トイレ』と『花子という名の女子生徒』と言う異分子で構成された異界なのだろう。その異界に運悪く足を踏み入れてしまった者が、トイレの花子さんという現象に遭遇する」
コツコツと、翔は足音を響かせている。まるで異界の地を踏みしめるように。
「最初の話に戻るが、ここには『夜』と『学校』ついでに今は『雨』という異分子がある。だから俺達は今、異界にいるんだよ」
不気味なことを言って締めくくる。直也はぞっとした。ここにはやはりいるのだろうか?
「屋上の幽霊、やっぱり本当なのかな?」
直也の問いに、翔は珍しくニヤリと笑って答えた。
「『夜』『学校』『屋上』『雨』…かなり強い異界が構成できそうだ。信憑性は高いだろうな。まぁ、すぐに分かることだ。………着いたぞ」
翔の向けた懐中電灯の光に、屋上へ出る扉が照らし出される。
「開けるぞ。用意は良いな?」
翔の言葉に、直也は慌ててカメラを構える。琴乃も心持ち表情を引き締めた。
そして、さらなる異界へと続く扉は、ゆっくりと開かれた。
翔を先頭に屋上へ出る。
そこには―――いた。
白い。
黒く、長い髪を持っている――それなのに白い。
制服を着ている。紺色のセーラー服――それなのに白い。
その女は白かった。
屋上には、長い髪の、白い女が立っていた。
こちらを向いているが、顔は見えない。長い髪に隠れている。だが、直也には分かる。あれの顔を見てはいけない。あの女の顔は見ちゃダメだ…
「直也。写真を」
翔の声が響く。写真――?あんな物を、撮れと言うのか?
のろのろとレンズを向ける。女は動かない。じっと立っている。まるで観察されているようだ。
『パシャリ!』
屋上がフラッシュで一瞬白くなる。その途端、女が顔を上げた。
「―――――――――!!!」
直也は見た。見てしまった。見てはならないものを。
女は嗤っていた。白い唇で。
女はこちらを見ていた。黒目のない、白目ばかりの眼で。
そして、女はくるりとこちらに背を向け――――
屋上から、飛び降りた。