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マルシェ 映画「カンダハール」について (製作途中)

2002.2.9.作成
2002.7.10.更新

 

 新宿武蔵野館って言う、東口出てすぐの映画館でやってたんで、話題だし一応チェックしとくべきかなと思ってみてきたんすよ。
 つーか、実際にはこの映画の監督モフセン・マフマルバフっつー人の著作の中の「アフガニスタンの仏像は破壊されたのではなく、アフガンの悲惨さに対する国際世論の余りの無関心の前に、自らの偉大さなどなんの意味もないと言う、恥辱のあまり自ら崩れ去ったのだ」という言葉が印象的で、そんなもっともな人がつくった映画はどうなんだろうとか、結構やじ馬的に、きれいな使命感に燃える厨房的に見にいってきたんだけど、
 実際のところ正直言ってあまり面白い映画ではない、と思う。別に脚本がどうとかじゃなくて、根本的にそんなに面白くない。オチもはっきりしないし。
 そもそも、今さら「カンダハール」かって言う話もある。だから、見に来てたのはおっさんとおばちゃんのカップルとかで、ロビーではこの映画をフューチャーしたワイドショーみたいな番組のビデオをやってるし、のっけからなんかちょっとやっちゃったかなーって感じはしてた。
 「妹を救いにいく」っていうストーリーを主軸に据えた、アフガニスタンの窮状紹介フィルムって言う感じがした。
 別にそれを批判するつもりはない。ドキュメンタリータッチというか、フィルムに登場する飢えとか貧困とか地雷とか、惨状にはウソは感じられないし、真実だと思う。アフガンの容易に知り得ない問題が、フィルムには定着していたと思う。口減らしのために子供を、狂信的なゲリラ兵士を育成する神学校にやる母親や、「この辺は地雷が多いから念のため義足を持っておくといいよ」という台詞は考えさせられるべきである。
 自分として問題だったのは、登場人物の誰一人にも感情移入できなかったことだ。「ここ」と「カンダハール」は世界が違うのだ。だから、わからない。それはSF映画ということでさえない。SFは現実の自分が所属する社会のメタファーとしてつくられ、機能するから、実際にそこに表現されている社会はたとえファンタジー的社会だろうと、銀河帝国だろうと現代のアメリカ社会であり、その亜流としての日本社会である。悩んでいることは「自分とは」みたいな同じようなことだし、そもそも、根本がおなじだから、実際には異世界であることはあり得ない。
 しかし、僕にとって「カンダハール」で扱われている世界は「異世界」だった。置かれている状況が全く違う。僕が住んでいる世界とは全く違う設定がされている世界だからだ。僕は生まれてからずっと戦争が続いている世界や女の人が頭から布をすっぽりかぶっている世界や、山賊が出る世界で暮らした事はない。しかし、それらを想像する事はできると思っていた。別に想像するだけならもちろん簡単じゃないけどできない事ではないだろうと思っていたのだ。が、それは違っていた。僕は想像する事はできるけれど、僕の想像したアフガニスタンはおそらくもちろんカンダハールをみた後であろうと、全く実際のアフガニスタンとは違っている。
 地雷で足を失った妻のために義足をもらいにきた男が、「こんな大きい義足では妻には似合わない」とごねて赤十字から別の義足を持って行こうとするシーンを、僕は素でイライラしながら見た。何故なら、その男の行動にまつわる合理が全く分からなったからだ。僕は人は基本的に合理的に行動すると思う。もちろんその合理は人によって違うわけだから、「ブタを食べないなんて非合理だ」とか言っている人が非・合理的だと思っている。だから、件の男もそいつの合理に従って行動しているのだとは思う、のだが、その合理が全く想像できなかった。自分だったら、こんな時だからしょうがないなとか、そんな感じになるんじゃないだろうか。道徳的に言って。
 赤十字からなんとかして義足をもらおうとする男もうっとおしくてしょうがなかった。これも同じ理由。(続く)