報告書
今回、私は、雨森芳洲という人物と、対馬の日韓交流について調べました。それを、今回行われた、ネットミーティングにて、発表しました。何で、このテーマにしたかというと、この間、対馬の役場主催の新芳洲外交塾という交流会に参加したことがきっかけでした。この外交塾にて、私は、対馬に息づいている韓国文化や、当時の史跡などを、直接肌で体験することができました。しかし、残念ながら、実は、この外交塾の名前にも出ている、芳洲という人物について、詳しいことは、よく知りませんでした。そこで、彼について調べてみようと思い立ったのが、まず第1の動機です。また、この外交塾に参加した後、この塾生の集まる掲示版があるのですが、そこで、多くの方々との日韓交流についての意見の交換などを、行っています。その中で、今盛り上がっているのが、対馬学を作ろうという動きです。私自身、対馬の独特な日韓交流にとても魅力を感じているし、また、自分の住んでいる地域のことだから、対馬学に向けて、自分でも、色々と調べてみようと考えたことが、第2の動機です。多分、今後も、対馬学創設に向けて、色々と調べていくことでしょう。
さて、ネットミーティングでは、色々と質問が出たんだけれども、その中で、付け加えておきたいと思ったことを、レジュメの最後のほうに載せています。余談だけど、彼のように、3ヶ国語が達者だったら、どんなにいいだろうと思う反面、彼だって、成人してから、外国語を学んで、自由に扱えるようになったのだから、私もこれからだよなあと思う、今日この頃です。
後、この間、こちらで放送があった、日韓の若者が集まって話し合うNHKの番組の中でも、対馬について面白い話題が出ていました。対馬の在日の人のことや、このレジュメにある、対馬枠のことなど。これにより、ますます対馬への興味がかきたてられた私でした。
以上
略年表
1668 (寛文8) 誕生
1679 (延宝7) 京都で、医者修行をはじめる。
1683 (天和3) 江戸に下り、木下順庵門に入る。
1689 (元禄2) 師の推挙で対馬藩に仕える。中国語を学び始める。
1693 (元禄6) 対馬に赴任
1702 (元禄15) はじめて釜山に渡る。
1703 (元禄16 釜山、草梁倭館に滞在して、朝鮮語を学ぶ。
〜 〜 この頃、「交隣須知」作成。
1705 宝永2)
1711 (正徳元) 朝鮮通信使に随行して江戸を往復
1719 (享保4) 上に同じ
1721 (享保6) 朝鮮方佐役辞任
1728 (享保13) 「交隣提醒」
1755 (宝暦5) 対馬日吉の別荘で永眠
日韓学生フォーラム レジュメ
雨森芳洲という人物
~我々が、一人の外交官から学べるもの~
1.はじめに
対馬への興味
2.芳洲の生い立ち、その人格
*略年表参照
*対馬の位置付け
・地形 上下に細長く、山がち→水田に適さない
収入源がない
貿易立国
*対馬藩の特殊性
2重服属
朝鮮 徳川幕府
対馬
・儒学者の必要性 当時の外交交渉の文書は、全て漢文。
朝鮮側は、日本側の詩文により、評価。←外交にも影響
*芳洲の業績
1)語学者
・「交隣須知」 語の用例辞典。
単語を上げ、その単語を例文を通して覚えるもの。
朝鮮語教科書として、明治初年まで使用される。
2)外交官としての体験から
・「2つの国の関係というものは、歴史の推移によって変化する」
=一方がいつまでも強く、一夫がいつまでも弱いのではない。
歴史、社会制度、国際関係は可変的であり、国民性も変化する。
Ex.その1 文禄・慶長の役後の日朝関係
日本:朝鮮側の日本を恐れる気持ちをいいことに、高飛車な態度.
しばらく経つと、…
朝鮮:日本を恐れる気持ちが薄れていった.
Ex.その2 白石との朝鮮観の相違
白石:朝鮮は、信義に薄い国
もっと日本に対して、恩を感じるべきでは?
朝鮮を軽視
芳洲:秀吉の乱は、朝鮮に被害をもたらした.
近隣の国と親しくすることは、防衛上「国の宝」
偽りが多ければ、国は成り立たない.
・誤解を生み出さないためには?
相手国の風俗、習慣、言語,文化に精通し,相手の事情と心情を理解することが,国際関係を円滑に進める.(「交隣提醒」)
3)芳洲のたどり着いた外交官
「誠心と申し候は,実意を申すことにて,互いに欺かず,争わず,真実を持って交わり候を,誠心とは申し候」
3.まとめ
・H.2 盧泰愚大統領の来日 「両国が神聖な歴史認識に基づいて過去の過ちを洗い流し,友好協力の新たな時代を開くこと」
「270年前,朝鮮との外交に携わった雨森芳洲は,“誠意と信義の交際”を信条としました.中略今後の我々両国関係も,このような相互尊重と理解の上に,共同の思想と価値を目指して発展するでありましょう」
*民間という視点に立つ
ex.芳洲外交塾 日韓両国の有志が集まって、討論し,交流を深める.
長崎県の事業として,「芳洲外交塾」スタート.
対馬の各町廻りで運営
今回,2002.2.8〜2.10、厳原町にて開催.
日韓各25名が集まり,交流
・我々のグループでは…
文化の差(親族関係中心)
結論:「ウリ ハナダ」=我々は,みんな一緒だ.
「家和萬事成(家和して万事成る)」=我々は,文化の差はあるが、皆一つであり,我々の家が平和であれば,そこから平和は国境を超えて,広がってゆく.
*その他の対馬の取り組み…対馬枠:釜山の国立大学釜慶大学に、今年、対馬から、2人の高校生が進学。募集枠は、10人。同大総長からの発案により、実現。外国の大学が、特定の日本の地域から高校生を受け入れるのは、珍しい。
きっかけ;去年の歴史教科書、靖国問題による日韓交流の悪化から。
→こういったふうに、進学先として、韓国が考えられていくことも、いい国際交流のあり方では、ないだろうか?
4.参考文献
・「雨森芳洲」 上垣外健一 中公新書
・「日韓200年の真実」 名越二荒之助 株式会社国際企画
・ http://isweb41.infoseek.co.jp/area/temado/
・ http://www1.ocn.ne.jp/~kurose/
*質問とその回答
1)なんで、師匠の一言で、医者を辞めたのか?
彼は、高森正因という医者の下で、勉強をしていたが、その先生が、ある時、こう言ったとある。「書を学べば紙を費やし、医を学べば人を費やすと言っているが、およそ医者と言うものは何十編となく薬を誤ってその度ごとに死ぬほどの心痛を繰り返して、やっと良医と言われるようになるのだ。」これを聞いた彼は、「どうして人を費やすことができようか。志を絶つのは辛いが、その痛みには耐えよう。」と考えたのだ。
2)プサンの倭館の位置づけ
いわば、日本の在外公館のようなもの。
3)対馬側の交渉の場
以酊庵が、対馬にある。秀吉の乱のために、一時中断された、日朝関係修復のために、大きな役割を果した所。宗氏の朝鮮外交機関。