忘れえぬ轍
なぜ、私が1998年のシーズンにこんなにも、こだわりを持つのか、といいますと、それは、そのシーズンが、F1がなんたるかを、あまりにも際立たせていたからです。まず、ミカ・ハッキネンとミハエル・シューマッハーの対決、そして、フェラーリとマクラーレンというチームでの対決、グッドイヤー対ブリヂストンのタイヤ戦争、ミカとミハエルは、F3時代からのライバルであり、F3の最高の舞台、マカオGPでの2人のクラッシュは、あまりにも有名です。このレースは、2ヒート制で行われ、1ヒート目はミカが制しました。しかし、2ヒート目、トップを走るミハエルに、ミカが追突、リタイア。総合成績で、ミハエルの優勝が決まりました。ミハエルは、この時、わざとアクセルを緩めて、ミカに追突させたと言われています。このクラッシュがその後の2人の境遇を暗示していたようでなりません。ミハエルは、ジョーダンチームからF1にデビュー、同じシーズンに、ベネトンに引き抜かれ、94年、95年には、ドライバーズタイトルを獲得します。そして、96年にフェラーリに移籍、3年でフェラーリを再びチャンピオンに導くという公約を掲げ、その約束の3年目が98年でした。ミカは、ロータスからF1にデビュー。その後、マクラーレンへ移籍するも、チームは次第に衰退期へ入り、ミカ自身も、マイケル・アンドレッティに割を食う形で、テストドライバーになったり、95年には大クラッシュを経験します。97年からマクラーレンは復活の兆しが見え始め、その年の最終戦、ミカは、初優勝を遂げました。フェラーリ、マクラーレン共に、言わずと知れたトップチームです。マクラーレンにエンジンを供給するメルセデスは、世界初のガソリン内燃機関を発明した、まさに元祖であり、対するフェラーリは、イタリアが誇るカーブランド、F1で走ることがそのまま同社の広告となり、唯一、F1に1950年から参戦し続けるチームです。そして、長期にわたって、ワンメイクタイヤ状態のF1を担ってきた老舗、グッドイヤーと、97年より参戦し、98年に、マクラーレンにもタイヤの供給を開始したブリヂストン。対決図式が非常にはっきりしたシーズンでした。
シーズンを占う上でも重要なテスト。フェラーリは、合同テストには一切参加せず、自社のムジェロのテストコースや、フィオラノのサーキットでマイレージを重ねました。一方マクラーレンは、他チームとの合同テストにも参加、際立った速さを見せつけ、98年シーズンのチャンピオン有力候補に躍り出ました。
そして迎えた、シーズン開幕、フロントロウはマクラーレンの2台が独占。続いてフェラーリのミハエル・シューマッハーというオーダーでした。決勝レースは、マクラーレン勢が独走、なんと全車周回遅れにしてしまうという、まさに異次元の速さでした。ミハエル・シューマッハーが駆るフェラーリは、5周目のホームストレートでエンジンが音を上げてしまいます。しかし、マクラーレンにもトラブルが発生。無線コミュニケーションでハッキネンとチームの間で誤解が生じ、トップを快走していたハッキネンが、ピットストップの準備のできていないピットに入り、その間に、チームメイトのデビット・クルサードがトップに立ちます。しかし、最終ラップで、クルサードが速度を落とし、2位のハッキネンを先に行かせて、ハッキネンを優勝させました。マクラーレンは、レースがスタートする前に、すでに順位を決めていたのです。すなわち、第1コーナーに最初に飛び込んだ者が、このレースを制すると。それで、第1コーナーを先に通過した、ハッキネンに、クルサードが進路を譲ったということだったのですが、これが、後々まで、議論を巻き起こしました。
続いて、ブラジルGPで、フェラーリがマクラーレンのブレーキバランスシステムは、レギュレーション違反ではないかとのアピールがなされ、マクラーレンを始めとする数チームは、このシステムを手放すことになりましたが、それでも、マクラーレンの速さは変わらず、予選でフロントロウ独占となりました。そして、レースでも2戦連続のワンツーフィニッシュを飾りました。続く、アルゼンチンGPでは、グッドイヤーがニュータイヤを投入し、ミハエル・シューマッハーが予選2位、決勝レースでは、今季初優勝を飾り、マクラーレン勢に一矢報いました。
F1サーカスはヨーロッパラウンドへと移り、サンマリノGP、ここでは、ハッキネンが、リタイアを喫し、クルサードがシーズン初優勝、フェラーリはここで、サイドポンツーン上にセンターウイングを投入してきました。しかし、このセンターウイングも、次のスペインGPで禁止されてしまいます。表向きには、アルゼンチンGPで、ジャン・アレジがこのウイングにインパクトレンチのホースを引っ掛けたため、この種のウイングが危険である、とされましたが、実は、このウイングによって、マシンの外観が崩れるので、FIAが言いがかりを付けて禁止したかったのではないか、とも言われています。そのスペインGPでは、ハッキネンがポールトゥウィン、そしてファステストラップ記録で、ハットトリックを達成、続く、伝統のモナコGPも制し、チャンピオン獲得に向けて死角なしの状態でした。
しかし、ミハエル・シューマッハー、フェラーリも反撃を開始、カナダGPから、イギリスGPまで連勝し、ポイントランキングで、ミハエルは、ハッキネンから2点差にまで詰め寄ります。イギリスGPは、本来、マクラーレンが得意とする高速コースなのですが、決勝当日は雨。ハッキネンは、トップに立ち、2位との差を広めるも、セーフティーカーが入り、その差が帳消しになります。そして、セーフティーカーが抜けた後、ミハエルに交わされ、2位に転落。ところが、ミハエルに対して、黄旗無視のペナルティー(ピットで10秒静止)が言い渡されます。ミハエルはこのペナルティーを最終ラップに履行、ハッキネンがコース上で、トップでチェッカーを受けました。しかし、ミハエルは、ピットに入る際に、ピットレーン上でフィニッシュラインを通過していたことになり、結局、ミハエルが優勝と言う扱いになり、その後、ペナルティーそのものが、無効ということになりました。
オーストリーGPでもドラマは起こりました。当時、ベネトンのジャンカルロ・フィジケラが、ウェットコンディションの中、自身初ポールポジションを獲得します。予選2位はアレジ、と、顔ぶれがガラリと変わったフロントロウでした。しかし、この2人は、レース中に接触、結果を残すことができませんでした。スタートでトップに立ったハッキネンは、追うミハエルと壮絶なバトルを展開。ミハエルは、予選と見紛う走りでハッキネンに食らいつくものの、17周目の最終コーナーでコースアウト、ハッキネンに軍配が上がりました。ミハエルの地元、ドイツGPで、フェラーリは、ロングホイールベースシャシーを投入、しかし、フリー走行で、ミハエルが、ニューマシンでスピンしてしまい、決勝は、ノーマルホイールベースで挑むことに、結果、5位が精一杯でした。
オーストリー、ドイツと2連勝したハッキネンでしたが、ハンガリーGPで、トラブルに見舞われます。ミハエルは、鬼人の走りで、3ストップ作戦を敢行し、まさにチームワークの勝利を収めます。次のベルギーGPは、まさに混沌でした。ベルギーのスパフランコルシャンサーキットは、1日の中に四季があるといわれるとおり、天気が非常に変わりやすいこと、そして、オールージュをはじめ、名コーナーを多く擁することで有名です。予選はマクラーレン勢が制しましたが、決勝前のウォームアップは、雨の中、フェラーリ勢がワンツーを占めました。そして迎えた決勝レース、予選2位のクルサードが、排水溝の蓋の上でアクセルをオンにしたためスピン、それに後続のマシンが巻き込まれ、10台以上のマルチクラッシュとなってしまいました。赤旗中断ということで、レースは1時間後に再開され、今度は、ミハエルと軽く接触したハッキネンが同じ場所でスピン。しかし、後続のマシンは、これをよけて、赤旗は提示されず、ハッキネンはリタイアとなり、ミハエルが、トップを独走するという形になりました。ところが、ドラマはこれで終わりません。ミハエルは周遅れにされようとするクルサードに追突してしまいます。ミハエルは、これで左フロントタイヤを失い、クルサードはリヤウイングを失います。2人同時にガレージに入り、ミハエルは、マシンを降りるなり、スタッフの制止を振り切りクルサードに詰め寄ります。レースは、ジョーダンのデイモン・ヒルがトップに立ち、2位は、同じくジョーダンのラルフ・シューマッハー、2人の差は切迫するも、そのままの順位でチェッカー。ジョーダンチームにとって初優勝となりました。
F1は、フェラーリの地元、イタリアは、アウトドローモ・ナッツィオナーレ・ディ・モンツァへとその戦いの舞台を移しました。この時点で、ハッキネンとミハエルのポイントの差はハッキネンリードの7点。予選でミハエルがポールポジションを獲得し、かくしてモンツァは赤に染まりました。しかし、スタートで、マクラーレン勢が前に出ます、ハッキネン、クルサード、エディ・アーバイン、3周目、ハッキネン、クルサード、ミハエル、というオーダーでレースが立ち上がりますが、クルサードがペースの上がらないハッキネンを7周目に交わし、トップに立ちます。ところが、そのクルサードのエンジンが突然ブロウ、それによって2位ハッキネンは、アクセルを一瞬緩めますが、ミハエルからその隙にオーバーテイクされてしまいます。さらにレース終盤、ハッキネンにブレーキトラブルが発生し、ペースダウンを余儀なくされました。これで、フェラーリのエディ・アーバイン、ジョーダンのラルフ・シューマッハーにも抜かれ4位でフィニッシュ。これで、ミハエルとハッキネンのポイントの差は0点、ラスト2戦を残し、両雄が並ぶというかたちになりました。
2週間後、第15戦は、ミハエル・シューマッハーの生家に近い、ニュルブルグリンクで行われました。ここで初めて、フェラーリ勢がフロントロウを独占します。決勝当日は、フェラーリが予想していたほど気温が上がらず、グッドイヤータイヤを履くフェラーリにとって、少々分が悪くなってしまいました。レース序盤は、3位ハッキネンを2位アーバインが抑えている間に、トップのミハエルが逃げる、というフェラーリにとって理想の展開となりましたが、ハッキネンは、14周目にアーバインをパス、その後、ファステストラップを更新しながらミハエルを追い上げ、ついに、ピットストップで逆転、その後は、トップを誰にも譲ることなくそのままチェッカーを受けました。これで、両者の差はハッキネンリードの4点、残すは最終戦日本GPのみとなりました。
1ヶ月のブランクを置いて、開催された日本GP。ハッキネンが勝てば文句なしでチャンピオン決定、ミハエルが勝っても、ハッキネンが2位には入れば同点となりますが、年間勝利数により、ハッキネンがチャンピオンとなるため、ミハエルがチャンピオンになるには、優勝して、なおかつ、ハッキネンが3位以下でなければなりません。予選は、ミハエルがポールポジション、ハッキネンは2位とフロントロウ対決となりました。決勝レーススタート直前にヤルノ・トゥルーリがストール、これにより、スタートディレイとなります。ところが、2回目の、フォーメーションラップスタート前にミハエル・シューマッハーのマシンがストール、レギュレーションに従い、ミハエルは、最後尾のグリッドに回されます。決勝スタート後ハッキネンは危なげなく、トップを守り、2位アーバインとの差を着実に広げます。一方、ミハエルは必死で追い上げを図るものの、31周目、タイヤがバースト、そしてコース脇にマシンを止めリタイア。コース上に残存していた、マシンの破片が原因と思われますが、激しいタイヤ戦争を象徴するような結末でした。これにより、ミカ・ハッキネンのチャンピオンが決定。激闘のシーズンは鈴鹿で幕を閉じたのでした。
こんな具合に、シーズンの経過をダラダラと書き綴ったのですが、「だからなんだ?」と言われそうですので、このシーズンを通して、私が何を思ったのかを書こうと思います。
まず、開幕戦の放送を見て、ミカがポールポジションだったことに驚きを感じました。なぜなら、私は、ミカが、よくてセカンドロウという状況になれきっていたのです。しかし、98年からはミカにとってPPが当たり前でした。マクラーレンの技術力と、フェラーリのチームプレイ、チームワークとの戦いでした。フェラーリは、マクラーレンに技術では、ほんの少し遅れをとっているものの、完全無欠のピットワークや、ロス・ブラウンの優れたレースストラテジーによって勝利を収めました。マクラーレンのピットストップ時は、なにか起こるんじゃないかと、ヒヤヒヤしながらTVの画面を見つめていたものです。98年当時、私は、レースを見ることに、まさに全霊をかけていました。録画放送なので、結果なんてとうに出ているにもかかわらず、スタート前は正座をして、過去のデータからはじき出した予想や、新聞などから得た予選順位を眺めつつ、「神よ・・・・」と祈っていました。近年まれに見る接近戦だったにもかかわらず、ミカとミハエルは、スタート前や、記者会見のときに、握手をしていました。大体、シーズンも中盤を過ぎると、チャンピオンを争うもの同士、互いをバッシングしあうのですが、この2人は違いました。ミカはもう引退してしまい、あのバトルをもう見ることはできません。チャンピオンを獲得できたのは、マシンのおかげだ、と口にする人がよくいます。たしかに、当時の完成されたマクラーレンMP4/13がなければミカは勝てなかったかもしれません。しかし、本当にマシンが100%ならば、あの年のチャンピオンシップはミカと、彼と同じマシンをドライブする、デビッド・クルサードによって争われたはずではないのでしょうか?
ミカは、クルサードよりも予選においても、決勝においても、優れていました。つまりそれは、ミカがマシンの持つ性能を100%引き出すドライビングができたということであり、それゆえ、フェラーリのサポートを一身に受けたミハエルに対峙することができ、勝つことができたのです。それに、あのマシンは、ミカが、チームの低迷期も、耐え忍んだからこそ得ることのできたマシンではないでしょうか?もし、ベネトンや、その他のチームに移籍していたら、あのタイトルはなかったでしょう。そういった意味では、フェラーリ以上の結束力がマクラーレンの中に生まれていたのではないでしょうか?1998年のシーズンを私は、忘れることはありません。そして、ミカ・ハッキネンを忘れません。