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上野千鶴子の「市民権とジェンダー―公私の領域の解体と再編―」(『思想』2003.第11号、岩波書店)という小論を読んだ。上野千鶴子は東大の教授で、有名なフェミニスト。 この論文によると、暴力が非犯罪化される二つの領域がある。公的な領域での暴力と、私的な領域での暴力。国家による暴力(戦争と死刑制度)は前者に入り、家庭内、あるいは親しい男女間でふるわれる暴力は後者にあたる。軍隊による殺人は犯罪と見なされず、夫から妻への暴力も犯罪と見なされない。警察が私的な領域での暴力に介入しないということは、私的な領域での暴力を合法化しているということである(最近はDV法などにより、私的な領域での暴力もある程度問うことができる)。 男のホモソーシャル homosocial な社会は、暴力を軍隊と家庭内という限定した領域で合法化することによって、市民社会一般の暴力を非合法化している。
では、フェミニズムの側からこれをどう解決するか。アメリカで主流のリベラル・フェミニズムは、簡単に言えば女性の男性化を主張する。例えば、女にも兵役を、という主張。つまり、差別される側から差別する側に移ることによって、解決を図ろうとする。差別を生み出すシステムそのものは問わない。
思うに、差別を生み出すシステムを温存して解決を図るのではなく、システムそのものを問い直すときにだけ、ある特殊な立場に基づいた思想(女の立場、フェミニズム)は、普遍的な方向に押し出される。1968年を前後して生まれた新しい流れ(フェミニズム、黒人公民権運動、マイノリティー、環境保護団体、人権NGOなど)はすべて、システム全体を問うことによって、その特殊性を普遍性に向かってひらく。弱い側は常に、問題解決の方法において、強い側より賢くなければならない。 もう一つ考えたいのは、差別する側に立っている人間のことである。誰でも、程度の差はあれ、抑圧されるものであると同時に、抑圧するものである。例えば、明らかな差別の意識を持たなくても、男であれば、男に有利なシステムがあり、先進国の人間であれば、後進国を抑圧することによって先進国が存在するシステムがあり、それらははじめからその人の条件として与えられてしまう。反対をしなければ、そのシステムの保存、維持に役立つだろうと思う。そこまで話しを広げなくても、一人の人間のもつ二面性の例は、普段の人間関係の中から、たくさん見つけることができるはずである。
その解決は、これも1968年の流れ(特に学生運動)に位置付けられると思うが、特権の放棄、という考え方である。自分に有利で、他人に不公平な特権を、自ら放棄する。おそらく、日常の中で出くわした問題から、少しずつ、行動によって、ということが大事。
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特に用事もなくインターネットを見ていたら、Edward Said 1935-2003 という生没年に行き当たった。この所、彼の名前を目にすることは多かったし、本も次々と出版されていた。そんなに年でもない。 何のことだろうと思って、彼に関するサイトに行ってみると、二日前に亡くなっていた。 チョムスキーなどとともに、9月11日以来注目されることが多く、精力的に活動している印象があったので、びっくりしてしまった。1990年代の始めごろから白血病だったようだ。BBCのインタビュー番組の中の彼は、確かに息をするのがつらそうだった。病気をおして出演していたのかもしれない。 サイードは、知識人を周辺的存在、故郷喪失者であると定義していた。このような捉え方は僕にとってはなじみのある考え方だった。日本人でもなく、朝鮮人でもない、日本における故郷喪失者であるといえる在日朝鮮人の作家、李恢成の中にそのような知識人の姿を感じていたから。 周辺に身を置くということは、自由な視点を獲得することである。そのような精神の自由こそ、サイードから李恢成までをつなぐ、普遍的な知の在り方だろう。
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パレスチナ自治区のガザを扱った番組をNHKでやっていた。パレスチナ問題を考えるときには、映像を見るとよく分かることがある。
池澤夏樹もまた周縁からものを見る作家のひとりである。『静かな大地』(朝日新聞社)は明治以後のアイヌと和人の関係を扱った作品である。日本近代の歴史は、アイヌの地(アイヌモシリ)、沖縄、朝鮮、と 領土を拡張し、そこに住む人たちを排斥してきた歴史である。豊かな言葉の文化を築いてきたアイヌは、武力にまさる日本におし潰され、その後その存在も忘れ去られていく。 日本の、軍事力、経済力にたのむ姿勢は今も変わってないように見えるし、異なるものを排除しようとする姿勢も同じ。周縁からしかそのような日本の姿は見えてこないのかもしれない。
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川島武宜は戦後の著名な民法、法社会学者。この本は1950年前後の論文を集めたもの。内容は、戦前の全体主義国家を支えた、「家族制度」イデオロギーに対する分析と批判。家長の権威と構成員の恭順を特徴とした旧武士層の家族関係が、上流階級、庶民の家族関係の中だけでなく、日本社会の様々な面で現れ、ヤクザから(親分・子分、兄貴分・弟分、伯父、姉さん)、国家における権力・天皇と人民の関係にまで拡大される。戦前の日本社会の分析として非常に面白かった。 戦前の日本の社会組織に貫通する(擬似)家族的構成は、日本の全体主義の独特の特徴であるように思う。これはドイツにもイタリアにもない(と思う)。ドイツにおける全体主義においては、ゲルマン民族の優位性が、日本の「家族制度」イデオロギーに比較できるだろうか。もしそうだとすると、たとえ全体主義的な政権が崩壊したとしても、それを支えたイデオロギーの克服は、日本におけるほうがより困難であるように思える(民族という捉えどころのない、あいまいな概念よりも、家族という人間間の基本的な関係の中に根をおろした、またはそこから出て来た思想の方が、隠蔽された形で、しぶとく生きのびるだろう)。戦後の日本とドイツの歴史認識の差は、このことをある程度反映しているのかもしれない。 現在では、戦前の家族関係(戦後もかなりの間持続したと思われるけども)は明らかに崩壊してしまったが、戦前の「家族制度」イデオロギーと同じ根をもつと思われるような主張は生き残っているし、教育基本法改定の動きはその復活のように思える。 もちろん戦前の「家族制度」イデオロギーを支えた家族関係が変わってしまった以上、現在の「家族制度」イデオロギーの復活は前とまったく同じものではありえない。その特徴づけは、川島武宜がした様に、現在の実際の家族関係、それをとりまく社会経済関係から導きだされないといけない。
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これは、ナチスによるホロコーストの歴史を若い世代に伝えるための、スウェーデン政府のプロジェクトの一つとして書かれた本。現在では中立国や被害国の戦時中の加害の歴史をも問い直すことが大きな流れになっている。スウェーデンは第二次世界大戦のときは中立国だったが、政府のプロジェクトではあっても、自分の国の加害の側面に目をつぶるようには書かれていない。侵略戦争に無反省な日本政府とは、大きな違いがある。 このようなホロコーストの歴史を真摯に学ぶ、わかりやすい入門書が、スウェーデンではベストセラーとなり(販売の仕方は特殊だが)、いくつかのヨーロッパ諸国の学校でも使われているようである。 日本では、自国の加害の歴史を歪めてえがく本がベストセラーにはなっても、加害・被害の歴史をきちんと理解しようという歴史書はあまり読まれることはない。このような違いはどこからくるのだろうか?
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アラブ諸国の反アメリカ・反イスラエル感情は、パレスチナ問題と深く関わっている。中東地域に起こっている問題をいくらか正確、公平に理解しようと思うならば、イスラム世界対キリスト教世界、文明の衝突といった単純な図式に頼るよりも、パレスチナ問題をよく学んだ方が役に立ち、現実的な解決の方向を探るうえでも有効だと思う。 この問題に関しては、パレスチナの作家であるガッサン・カナファーニーの小説『ハイファに戻って』や、映画『プロミス』などが、僕の記憶に残っている。やはり、実際に行かないまでも、映像を通して目で見ておくことが大切。また、1冊しか読んだことがないけれど、アメリカ在住のエルサレム生まれの作家エドワード・サイードも、読んで見たい作家の一人。
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トルコのクルド人を扱った映画。 トルコ人の青年がクルディスタンへの旅を深めるにつれ、クルド人の生活の悲惨さを目の当たりにしていく。 とても美しい映画で、その余韻は長く続いた。 イラン、イラクの国境地帯に住むクルド人を扱った『酔っぱらった馬の時間』という映画も、遠い国の人たちの生活を理解する想像力を培うためにはいい映画だと思う。 |