2004.1.14
『漱石文明論集』(岩波文庫)

本屋に行って、目当ての本がなかったため、ついでに買った本だが、なかなか面白かった。漱石の講演や日記、書簡などを収めた本。

「現代日本の開化」などは高校の教科書で読んだ覚えがあるが、他の論文とあわせて読むと、漱石の近代日本に対する考え方がよく分かる。日本の近代化の問題はほとんど漱石に言い尽くされてるように思える。漱石が鋭いのか、日本人が真面目に考えてこなかったのか、漱石の時代とはまた違った形で現れているのかは分からないけれども、漱石の考えた問題は今も残っているままである。簡単に言えばその中心は、自分の頭で考える独立した個人が育ってない、個人主義が根付かなかったということだろうと思う。

模倣をするという在り方と比較して、漱石が学生へ向けた言葉。「・・・益インデペンデントに御遣りになって、新しい方の、本当の新しい人にならなければ不可ない。・・・」(「模倣と独立」)。大江健三郎から引用しているみたいだ。

*************************

『中村哲 ほんとうのアフガニスタン』(光文社)

アフガニスタン、パキスタンで医療活動をする中村哲医師の講演録。数年前、名古屋に講演しに来た時も、立派な人だと感じたが、本を読んで、ますますそう感じる。「だれも行かないところに行く、人がやりたがらないことをやる」。こういう人が本当にインディペンデントで立派な人間である。自分の目で見て、自分の頭で考えるというのはこういうことを言うのだ、と観念的で頭でっかちな僕は反省するのである。

漱石に引き付けて考えると、日本は上滑りの、外発的な発展をして来たのであり、文明開化に失敗してきた国である。その過程で失ったものは大きい。アフガニスタンに「民主主義」を押し付けるのは、結局はアフガニスタンに同じ失敗を押し付けるものになるのではないだろうか。まあこういう感想は、この本の主題から言えば、的をはずしたものだろうけど。

******************************



『二百年の子供』
(大江健三郎、中央公論社)

2003.12.22

3人の子供たちが「「夢を見る人」のタイムマシン」で、この国の過去と未来に旅をする物語。この国の未来で、自由な精神のない管理された子供たちの世界に出会うことにもなり、時間の旅を通して、いまの中に生きる過去をふまえながら、いまに含まれる新しい未来を作っていく人間になっていこうと思う「三人組」に対して、大江健三郎は「ひとり自立してるが協力し合いもする、本当の「新しい人」になってほしい」と願う。

いまの憲法を変え、教育基本法を変えて行く方向には、おそらく「三人組」が出会ったような未来があるだろう。「国家」が個人を管理し、教育により「国家」に奉仕する「愛国心」を持った子供たちを作りだす。いつか来た道である。

おもえば、日本はアフガン戦争以来またもや戦争の加害国である。戦後世代の戦争責任は、間接責任から直接責任に変わってしまったのである。戦後世代には、日本を戦争をしない国にするという間接の責任が15年戦争から生じた。しかし今や戦争に参加する政府をもつことになった。選挙民には加害の直接の責任が生じていることになる。

事態はなし崩し的に悪くなる。いつのまにか、という感じである。しかし、反対できる時に反対しなければ、おそらく気づいた時には、自由のない世界になっているということになるのだろう。

いまはまだ、総理大臣の有無を言わせぬ語気の強め方は滑稽に映る。しかし、その戦争協力を求める狂気の主張が、反対意見を許さないものに変わる日がいつ来ないとも分からない。

******************************



『論理哲学論考』
(ウィトゲンシュタイン、岩波文庫)

2003.12.**

言語により分析できる世界の全体(=限界)を記述しようとした本。その結論が「およそ語られうることは明晰に語られうる。そして、論じえないことについては、人は沈黙せねばならない」。

もう少し引用しよう。「六・五二 たとえ可能な科学の問いがすべて答えられたとしても、生の問題は依然としてまったく手つかずのまま残されるだろう・・・・そのときもはや問われるべき何も残されてはいない。」、「六・五三 語りうること以外は何も語らぬこと・・・・自然科学の命題以外は何も語らぬこと」。

この本の中で述べられている命題が正しいかどうかは、記号論理学の基礎的な知識も持たない僕には判断しかねるが、論理的な厳密さを求めれば、日常生活の中で、はっきりと言えることは、おそらくほとんどないだろう。だからウィトゲンシュタインは、本書により哲学的問題がすべて最終的に解決されたと考えたが、「これらの問題の解決によって、いかにわずかなことしか為されなかったか」と書いているのである。

科学的に、論理的にものを考える、というのは、日常的な次元において、言葉の本当の意味では不可能であり、すべては不正確である。だから彼は、沈黙すべし、とした。

この行き止まりを越えるのは簡単で、厳密さを求めなければいいのである。分かる範囲で、不正確であれ論理的な過程を踏んで、言えることを言えばいいのである。論理性、科学性だけが大切なわけではない。

しかし、沈黙すべしという結論はおくとしても、20世紀初頭のこのウィトゲンシュタインの主張は、その後の科学の発展をみるのに便利だと思う。20世紀の科学の発展というのは、知識の増大ということだけではなくて、科学的な方法というものがどういうものであるかということを明らかにしてきた歴史でもある。科学的であるこということが満たすべき条件の明確化。科学の中から不正確な疑似科学を分離し、科学的な方法を整備する。

その結果として、科学が扱える範囲と、扱えない範囲がハッキリしてくる。科学の有用性と限界が認識されるということである。科学はある分野では非常に重要で、ある分野では役に立たない。役に立たないどころか非常に有害であることも多い(このあたりの考えは、加藤周一に負うところが大きいので、参考として『加藤周一セレクション1』(平凡社)の「科学と文学」を挙げときます)。

こういったことは初めからわかっていた訳ではなくて、このようなことが分かったというのが科学の発展だと思う。分かったといっても、その限界もまた科学の発展によって、そのつど見直される性質のものである。

結局大切なのはこういう考えがあるということを知っているということではなくて、自分がものを考えるのに際して、知識を得たり、そこから判断・決断したりするときに、実際にこういう考え方を使えるかどうかだと思う。科学的に考えることが必要な時もあるし、それだけでは足りないこともあるし、科学的な装いをした似非科学も多くある。

ウィトゲンシュタインを含んだ、こういう20世紀の大きな思想の一つを、論理実証主義、分析哲学というのだろうと思う(勝手にそう思ってるだけなのですが)。社会科学においては、社会科学がいかにして科学であるかということを考えたのが、マックス・ウェーバーやカール・ポッパーという人たちらしい、というのが今のところの見通し。

僕の属する社会ではやっているEvidence-Based Medicine という考え方も、医療の世界で急に起こってきたのではなくて、このような大きな流れの中で、医療の中に反映してきた考え方じゃないだろうかと、僕はひそかに思っているのである。医療をしっかりと科学的根拠に基づかせるのと同時に、医療の中の科学が扱える範囲を明らかにしていく。医療行為を、科学的に妥当なものにしていく仕事は、早急に行わなければならない仕事で、医療に必要なのは科学だけではないということを理論化していく仕事は、これからの課題である。

******************************



back