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4月5日
「静けさ」
しばらくすると高速のような道へ。ただ、この道が周囲も真っ暗なら道路も暗い!車の量も少なく、危ないほど電灯がなかった。ただ、地平線が何かの電灯で染められていた。
最初の休憩までは起きて道を見ていたが、真っ暗か、山道、細い道、普通の(でもまっすぐな)一般道…。最初の休憩は1時間弱あったか。長すぎっ!
次にバスが止まったのは国境っぽいところ。そこでは、強制的に降ろされててバッグの中身をチェックされた。待っている時の寒いこと!ベオより断然寒かった。中身チェックではMDが不審がられ、その後、ノート類のところで「◎▼×□」と何か言われたので辞書を片手に説明しようとしたが無視され、おとがめもなかった。せっかくパンパンに詰めた荷物を大して調べないくせにチャックを開けられたため、改めてしまい込むのが大変だった。
うちらが最後に車内に戻ると、話と違い、パスポートを返してくれた。しかし、スタンプは増えていなかった。そうしたら橋を渡ってボスニア側でまたひとりの兵士が入ってきて、外国人のものだけ持っていってスタンプを押して返した。なぜ、うちらだけなのか。他の人は出国時に押してもらっているのか??給油休憩を1回挟み、起きたら到着している雰囲気だった。計7時間くらいかな。
バスを降りると寒っ!室内に移動。風がないだけまだましな程度。トイレに行ったが、ユーロしか持っていないことに気付く。少しのユーロしかないといって財布を見せると、入って言いよみたいな仕草をされた。こっちの人は優しいな。
7:30まで待ってもコソボ組は来なかったので、先に行くことに。外に出たら、何と軽く雪が降ってきた。それは寒いわけだ。そこで、待つ化育か再検討したが、行くことで決定。FD側に向かうバス停はあっさり見つかり、バスもちょうど来たので乗ってしまった。ユーロで強引に…。
バスではずっと外を見ていた。曇り空のせいか、ものすごく雰囲気が暗く、そして重く感じた。遠くには墓と思われる一面白いところ、すぐそこの建物は銃弾の跡や破壊されたままのものが多く残っていた。ベオではほとんど見られない「激戦地」だったサラエボを思い起こさせた。途中にひとつだけ、明らかにきれいすぎて浮いているモスクっぽい建物があったが、あれは何だったのだろう。
どこで降りればいいのかわからなかったので、人がたくさん降りたところでふたりしてとりあえず降りてみた。
降りてからはバシュチャルシャを探すまでが大変だった。重い荷物を肩で背負いながら、行ったり来たり…。工事中だった第一次世界大戦発祥の事件が起こった橋で一休みしたりして、ようやく見つけた。10:00過ぎまで待ってもコソボ組は来なかったので、ふたりで宿泊先に移動。部屋が空いているかを聞くと、ボスがすでに予約を取っておいてくれたとのこと。気遣ってくれている人だ。
部屋に行き、荷物を置き、相談の結果、置き手紙をしてうちらはフリーに。18:00まで別行動をとることにした。
まず、『地球の歩き方』に載っていたカフェへ。特有の飲み物とケーキ。各1MK。安い。ボザ(?)は味を形容するのが難しい。乳製品をフレッシュジュースにした感じか。とにかく、味はいけてた。ケーキは少し脂っこかったかな。サラエボの人たちはベオのパンのようにケーキをぱくぱく食べていた。男性も同じように…。ボザは意外にも冷たく、外は寒かったので温かいものを飲みたくなった。そこで、カファ(sa クリーム)を追加注文。
昨日の日記をまず書いた。思い出しながら書いたら、また泣けてきた(マジ)。書き終えてからは、今日のこれからの予定を考えた。結局、まずはオリンピックスタジアムの方にあるお墓に行くことにした。
歩いて坂を上っていく。途中にも墓があった。テニス場(スケートリンク?)の上から墓を眺め、祈りを捧げた。紛争でこれだけ多くの人が殺し合っていたのかと思うと信じられなかった。ちょっと上の方まで気まぐれ足を運び、丘に上ると、そこから一面の墓がまた見えた。遠くの丘、一面が墓。白い十字架。あれが紛争の時のものかはわからない。けれど、バックにある雄大な自然と墓は妙にマッチしていた。神妙な気持ちになった。
来た道を戻るのはつまらなかったので、丘の頂から景色を見ようとした。頂には難民キャンプのような家に人が住んでいた。ロマ人っぽかった。話しかけられたが、何言ってるかわからないし、こっちのことも聞いてくれなくて話せなかった。
景色を堪能した後、丘を下る。丘の上のマンションもそうだったが、下りる時の家々も銃痕の跡が生々しく残っていた。ある家には「peace」という落書きがされていた。どういう意味だろうか。
下りてからはツインタワー、病院、共和国議会などを見て、「スナイパー通り」へ。そこから南東の丘の方へと向かい、坂を上っていく。丘の上の家々の中には、UNHCRのビニールが窓に掛かっている家がいまだに多く見受けられた。壊されたままの家も存在した。多くの家には銃痕があった。
上からの景色もまた、格別だった。風の音しか聞こえなかった。静かだった。ふと思った。紛争の時はどうだったのだろうかと。もっと静かだったのか、みんなが息を潜めるように。銃声が鳴り響いていたのか、それともその音しか聞こえなかったのか…。

左:窓にはUNHCRのビニール 右:銃痕だらけのビルと新しいビル
奥の黄色いのはHoliday Inn Hotel。
センターに戻って、カフェを探し、またケーキとかファを頼む。そして、残りの2時間くらいをどうしようか悩んでいた。そうしたら、どこからか名前を呼ばれた気がした。何と、コソボ班のふたりが、入り口に立っていた。ちょこっと経過などを聞いて、ふたりは別の店に行くと別れた。
今度は南西のサッカー場の方へ。時間的に少し厳しかったが張り切ってみた。多くのマンションに銃痕があり、その程度も酷かった。サッカー場は、普通だった。残り30分くらいになり、悩んだ末、走って宿泊先に戻った。メッチャ疲れた。何でトラムに乗らなかったのだろうか…。
帰り着いて、飯へ。コソボメンバー以外にふたり、偶然出会ったらしい日本人がふたりもいっしょに。
メンバーおすすめ(と聞いてきた)のレストランに行く。雰囲気も味も値段もグッドだった。ボスニアの伝統料理(キャベツなやつとパン)が特にお気に入りに。
食べ終わってホテルに戻ってから、コソボにいった人たちから話を聞く機会が持てた。アルバニア人サイドの話を聞けた。ベオで聞いてきた話とはほぼ正反対のことを聞いた。
「セルビア人は残虐だ」
「向こう(セルビア側)が仕掛けてきたことだ」
NATOの介入に対しても賛成の意見が多く、今回のイラクに対するアメリカの行動も支持のデモが起きていたらしい。
第三者としての介入はとても難しい。ズラトコが言っていたように、その国の歴史を踏みにじらない介入というのは難しい。かといって、殺し合いを見て見ぬふりはできないだろう…。
終わった後、少しだけコソボメンバーのひとりの部屋で話をした。その時、俺は「アルバニアのことセルビアの子を遊ばせることができたら良いのにね」と言った。それに対して「親が遊ばせるかな。殺し合った同士、傷つけ合い嫌い合っている今、それは必要なことだけど、それが果たして良いのかどうか」と返答を受けた。
日本ですら、50年以上も経ったいまだに、侵略した中国や韓国との傷は癒えていない。コソボはまだ5年足らず。時間が必要なのかも。サラエボも10年くらい。1泊のみでは何もわからないが、表面上は平穏だった。国連の部隊はいるものの。でも、まだ中身は違うのかもしれない。経過した時間が短すぎるから。
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