「暴力による平和」

 平和を創るための暴力は許されるのか。僕はこれまで一方的に許されないと考えていました。
 しかし、数日前に受けた講義である先生が言ったことで考えさせられました。それについて、これから書いていきます。

 その先生は講義の最後にこう言っていました。

日本ではアフガニスタンでのアメリカの空爆によって、一般市民にも犠牲者が出たということのみがクローズアップされている。
しかし、他方では、タリバン政権からの解放により、活気を取り戻し、女性も市民権を一応は得て、不当な処刑もなくなった。いまだに軍閥同士の争いは続いていると言うが、それでも以前に比べれば良くなったと言える。
これは紛れもなく暴力によって生み出された。平和を生み出すのにある程度の暴力の使用は仕方がない。

 それでは、平和になるという前提のようなものがあれば「暴力」を行使していいのでしょうか。
 イラクに対してアメリカは本音はともかく建前としてこう言っています。

 イラクはテロリストを助け、大量破壊兵器を所有する悪の枢軸(axis of evil)だ。そして、テロ根絶のため、また、フセインによる独裁からイラク国民を解放するためにイラク攻撃をいとわない。

 イラクへの攻撃が実施されて、フセイン政権が倒れた場合、そこに新たな秩序を創るのはアフガニスタンよりも難しいという意見があります。民族的にも宗教的にも多様で、さらに、反米意識が根強くあるからです。

 現在(2002年11月20日時点)、イラクは国連による大量破壊兵器の査察を受け入れています。
 この結果は主に3通りに分けられます。

  1. 査察はスムーズに進み、大量破壊兵器が出てこなかった。
  2. 査察はスムーズに行われた結果、大量破壊兵器が出てきてしまった。
  3. 査察は妨げられた。

 a の結果、大量破壊兵器を持っているから攻撃するのだという口実はなくなります。しかし、フセイン政権は存続します。ゆえに、テロ根絶のためと称して軍事行動を行おうとするでしょう。
 b でもc でも、イラクは嘘をついていたことになります。その結果、やっぱりフセインは信用できなかったということになりそんな危険な政権は倒さねばと攻撃されるでしょう。
 このように、僕は残念ながら攻撃は行われてしまうと思います

 では、ここで新たに問います。
 平和になるという前提のようなものがあれば「暴力」を行使していいのか
 僕はやはり「NO」と言いたいです。

 その根拠は責任の所在にあります
 もしアメリカ・イギリス中心の軍で攻撃が行われた場合、アフガニスタンの例を見ても負けるとは思えません。そこで、軍事行動の結果、フセイン政権は倒されるでしょう。
 となると、その後に何らかの体制が必要となります。アフガニスタンではタリバン政権を倒し、国際社会の関心の高さと援助によって、一応の体制作りに成功しました。しかし、イラクでも100%成功する保証はどこにもありません
 もし新たな体制作りに失敗したら、イラクでは内戦が勃発し、宗教がらみであの地域の混乱を招くでしょう。多くの一般市民は否応なく巻き込まれます
 では、その責任は誰が取るのでしょうか

 現在の世界では何につけても国家です。建前は主権在民ですが、国家の力は大きなものです。日朝間の拉致問題にしても最後はやはり国家に頼らざるを得ません。
 人の命は何物にも代え難い物です。それが害された場合、赤の他人がその責任を取ることは至難です。新体制作りに失敗した場合。それによって生み出される被害者の人たちに対する責任はアメリカなどには取ることはできません。逆にアメリカなどに対する憎悪を深めることになるでしょう。
 しかし、自分の所属する国家のせい(体制変革のための運動とか)ならば、それは唯一許せる度合いが広がる場合だと思います。

 責任の所在がつかめない以上は暴力を使うべきでないし、そういった場合は多国間による外交的圧力によって状況を打破するのがベターです。

 平和的なことのみで平和を創ることは理想なのでしょうか。

*主に核(Atomic)、生物(Biological)、化学(Chemical)兵器のこと。それぞれの頭文字を取って、「ABC兵器」とも呼ばれる。

'02.11.20


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