僕と陸上競技

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第一回
陸上競技と出会ったのは、小学校六年の時…
我が牧の原小学校には、陸上部などなく区民大会のために夏に結成されるにである。
その年のスポーツテストで50M 8.1秒を出して、学校一だったので選ばれて当然だった…(実は、幅跳び・ボール投げでもトップだった)
結果だけいうと区民大会100M6位でタイムは14.4秒だった。
…この時にはもちろん、こんな長い付き合いになるなんて思ってもいないのでした…(当たり前か〜)
小学校時代終わり

第二回
まぁ、小学校の時は中学では「野球かサッカーをやろう!」と、思っていたので…何故かというと、小六の時は…春〜夏は野球(センターでした)夏は水泳(50mクロール)秋〜冬はサッカー(キーパー)をやっていたんです。あっ!陸上も…。結果は…野球・サッカーは区民大会一回戦負け〜。しかも、完封…。練習試合でも勝率が二割以下…。「牧の原」を文字って…「負けの原」と言われたぐらいですから…。水泳もブービー賞!そう考えると、陸上は勝負ができたのかな〜?こんな感じでした。
でも、やっぱり野球をやるつもりだったんです。そんな折…陸上部の高橋先輩(高校の時には、新人大会で円盤で優勝!)に追いかけられる事件が発生…と、言ってもじゃれ合いみたいなものです。その時は逃げ切れず捕まりました…とは、言っても「陸上やらない?」と聞かれただけでした。事件はその次の日に発生!野球部の見学をしていた時、野球部のやつが僕の方にやって来て、言いがかりを付けてきたのに、反論したら殴られました!その瞬間、陸上部にいくことを決めたのです…。

第三回
陸上部に入ったんですが…、入る決め手になった理由に、近所に住んでいた水野先輩がいたのもあげておきます。水野先輩は、小学校の時から体操をやっていて、それはそれはうまかったです。よく、練習中にバク転などをみせてもらいました。
入部したのが他の一年に比べて遅かったんです。そんなこともあって、なかなか馴染めなかったですが…練習していくうちにポジションが決まっていきました。自分ではそんなに速いとは、おもわなかったんですが…陸上部ができて一年ということもあって、弱かったです。二年生に、100mと1500mの市チャンピオンがいましたがその他は遅く、最初の記録会で走ったタイム14.20秒で部活内五番目のタイムでした。

この中学校はレベル低い!

と、思いました。俺より遅かった先輩からはお前はパシリ専門だ!とか、いわれてました。僕より速かった先輩達と遅かった先輩達の間に隙間があったようなバラバラな部活だった。

第四回
隙間のあった部活でして、これがまた…。遅かったグループは結果的には、速かったグループと対立してやめてったんです。その間に、市総体などの大会もあってそこらは結構惜しいとこで次の大会への切符を逃してました。そんな順位とかにはあまりこだわってなかったので悔しいとかは、あまり感じなかったですね。ただ部活をやってるというような感じでした。
そんな私でしたが…夏ぐらいからタイムが伸びなくなってきました。まぁ、当たり前といえば当たり前。秋の新人戦ぐらいは、もう最悪でリレーを走っては足をひっぱていました。それから、市の駅伝大会に向けて結構まとまって練習をしました。1000m五本とか、3000m一本を普通にやっていましたが…みんなで競い合ってやって楽しかったですね。一本でいいからあの先輩に勝つ!と、言うように練習をやってました。でも、レベルは低かったですね。市大会は真ん中よりすこし上でした。そんな楽しさが芽生えたからか、今度は結果を出したいと思うようになっていきました。目標は県大会へそんな感じでしたが…もちろん落とし穴があったのです〜。

第五回
貧弱陸上部では、グランドのスペースはなく(大体の陸上部だったらそうかな〜?)校舎周りを走っていました。
校舎周りはもちろん…コンクリート!そこを走っていた訳です。コンクリートは硬い!そりゃもちろんそうですが…地面からの反発がもろに脚に来る訳で…。

成長期の脚には悪い!

もちろん、成長し終わっても、コンクリートの上で走るのは足にきますよ。
そういう訳で…一ヶ月ぐらいで脚を痛めました。痛めたところは両足の内側の脛の骨の下ぐらい…わかんですよね、こんな書き方では。
具体的にはシンスプリントと言います。新人病とか、言われるもので…具体的な解決法は、休む・練習を抑えるだと思います。今も思うのですが、このときにしっかり対処するべきでした。というのは、もともと蟹股で、足の接地が外側からだったので足への負担になっていたし(今は結構直しましたが…)、痛いなら休むべきでした。痛みは尋常ではなく(今にして思えば疲労骨折していたと思われる)、部活引退までこの痛みはありました。
と、いうことで元々才能もないのに練習は痛みの我慢大会!それでは、結果はでません。と、言うことで

余裕で市大会落ち!

当時の市のトップと一秒差がありました。こうして、満足することなく二年生が終わりました。
次回は、高校入学までを語りましょうか。 更新日;2002年08月26日

第六回
さすがに自称負けず嫌いの私は…。もう二年の夏ぐらいから
痛みを無くし、高校でがんばって結果を出したいと思い始め…
勉強に励みました。わが中学は愛知県ドベと言われるほどレベルが低く…
内申点40台で模試では偏差値50以下と言われるほど(実際にそうかも…)低く…
最低、公立トップ5(旭丘・明和・菊里・向陽・千種)には入りたいと思っていたので
猛勉強!ではなく……やっぱやる気は起きませんでした…

当時の担任の橋口先生がお前は

千種(ちぐさ)がいい!

と、言われ…。

よっしゃ〜、やるで〜

となったのは、
新聞に載っていた。国体の選手紹介の総監督の欄に

@@@@(千種)

とあったので…

俺は この先生に教えてもらうために高校に行く!

と心に決め…

高校でのリベンジを誓ったのです…

もう、これで中学終わっていい?。

三年についてやっぱしゃべるよ。ではまた  更新日;2002年11月03日



第七回
中学三年の話になりますか……その前に、中2の冬あたりからのお話です。
そんな訳で、千種(ちぐさ)高校を目指すことになりました。
しかし、当時は

千種(ちくさ)

と思っていました。実際に、高校入学して始めて

「ちぐさ」じゃん!!

ってな、こともありました………。
だから、

世間一般の人々を非難することはできないのです。

そんな訳で(どういう訳??)、「ちくさ」高校に入るべく、高2の冬から一日3時間ほどの猛勉強開始
ちなみに「ちくさ」に入るのにそんなに勉強しまくっている奴はほとんどいません。
あの高校は元々できのいい人間明和高校に入学できなかった
人の集まる高校なのです………

 と、言うことで、冬は一人で遅くまで練習猛勉強でした。
一人で練習ですが、大体のメニューはインターバル練習が多かったですもちろんコンクリートの上で………
実は、このときのダメージが今でも(現在2003年11月)後遺症として残っており一週間に二回ほど苦しんでいます。
そんな訳で、怪我の歴史もこの頃から、開始………長いね……まぁ、自業自得……何も考えずにやっていた証拠です

 シーズン開始ですが、三年シーズンに入ってもショートスプリントではまったく結果がでません
言い訳なのですが……

練習はコンクリートの上

これって、最高に硬いのですよ。で、実際に走るのはゴムのトラック………
勝手が違うと言うか………つまりは瑞穂の方が走りにくい環境だった訳です……

で400mに転向……

毎朝、近所の公園の周囲200mを練習場として5時から走ってました……

当時の私が今の自分を見たら笑うでしょうね
何で朝練もできんのだ!!!って

 では、結果は??? 更新日;2003年11月06日