贋作軌条 萬屋 「・・・・・・はあ」 普段と変わらぬ微笑をたたえる、若草色の和服を着こなす青年、軌条。常に温和な人柄で、およそ感情の変化が少ないともいえる彼が、珍しく溜め息を吐いた。それも感嘆などからくるものではなく、明らかに鬱の意味合い(ニュアンス)が濃い溜め息。 幸いにして平日の真昼。通常ならごった返し、芋洗いのようになるバスの中は貸切に近かった。仕方なく吐いたとはいえ、他人の気分を害せずにすんだのは僥倖であった。 流れてく街並みから、軌条は隣に座っている女性に視線をよこす。バスにゆられて眠気を誘われたのか、まぶたは閉ざされている。 伸ばされた黒髪は、一本たりとて重力に逆らわず腰元まで。スーツに羽織ったコートの上からでも、女性の体格は細く見える。何よりも目を惹かれるのは、彼女の美貌であった。 ただ単純に、美人だとか綺麗というわけではない。蟲惑的な、怪しげな色気を彼女は纏っている。いっそ毒々しいまでの色気ならばまだよい。 しかし彼女はどこか清々しくもあった。相反し、矛盾した雰囲気を彼女は兼ね備え、より一層と魅力を際立たせている。 異性だけでなく、同姓ですら見惚れてしまう美女。 世間一般からすれば、そのような美女を連れ立っている構図になり羨ましい限りだろう。だが当の軌条を暗雲とさせているのは、ひとえにこの女性であった。 事の起こりは、朝にまで遡る。 軌条という男にとって、朝という概念は薄い。何しろ、骨董店という客商売をしているくせに、自堕落な生活を送っているような人間だ。同居人にしても、人に無関心なところがあるので、わざわざ軌条を起こしに来ることもない。 今朝とて、窓硝子を壊しかねない勢いで叩く闖入者がいなければ、昼といわずに夜、明日まで寝ていた可能性すらあり得るのだ。 無理矢理に起こされた頃には、既に時遅く、窓硝子にはヒビが出来上がっていた。開けると犯人は窓枠に乗っかり、首を傾げてひと鳴きする。 白い鳩だ。足には脚環がおり、小さな筒が付けられている。 軌条が住まう落伍街は、成り立ちからして治安が悪いと評判である。かの帝都郵便局ですら、配達はしないと公言している程である。 なので、落伍街の住まう者と連絡を取ろうとすれば、手段はおのずと限られてくる。 「・・・・・・」 伝書鳩と睨みあうこと数秒。 諦めて軌条が筒の中身を受け取ると、鳩は羽切り音をたて飛び去っていった。 あの白い鳩の飼い主は、軌条もよく知っている。 しばらくは呼び出されることもなかったのだが、一度出来てしまった縁は中々に切れてはくれないものらしい。 筒の中には、細く丸められた紙が一枚。伝書鳩によって運ばれた紙には、簡潔な文だけがあった。 『自由を求める小鳥あり。来られたし』 日時も場所も指定せず、一方的な用件だけが手短に書かれている。 「全く、あの人は」 毎度の事とはいえ、たまには社交辞令に一筆取る気でもないのだろうか。一考だけしてみるが、答えはすぐに出た。 「絶対にないですね」 いや、あればそれはそれで不気味である。想像してみただけで鳥肌がたつ。下手な怪談話よりも余程怖い。 結局、現状が一番であると落ち着く。 「さて、と・・・・・・《自由》ですか」 苦手とはいえ、久方ぶりの再会である。用事もさりとてなく、無下に断るのも野暮というもの。 襖(ふすま)を開けると、向かいは同居人、椿の部屋だ。部屋の様子から察するに、まだ寝ているのであろう。こと眠りに関しては、椿は軌条といい勝負である。 真昼でも薄暗い店内は、朝では闇に包まれている。ランプを灯すと、淡く店内の様相を照らし出した。 雑多な品々が鎮座するいくつもの棚で、店は窮屈といわざるを得ない。大人一人が通れる程度の、必要最小限の通路。隅々まで道具で埋め尽くされた、埃くさい店内から軌条はいくつかの道具を見繕う。 埃を払われた品は、風呂敷に包まれる。包まれた道具はさほど大きくはなく、軌条の懐に収まるほどだ。 草履に履き替えながら、ふと店をどうするか思案する。閉めてもよいのだが、そういう時に限って稀の客が来るのだ。 椿に任せてもよいのだが、何も言わずに行けば間違いなく機嫌を損ねてしまう。かといって、寝起きの椿も機嫌が悪い。 「やれやれ・・・・・・いい土産でもあればいいのですが」 出かける前から、帰宅の際の言い訳を考えねばならないとは皮肉なものである。 帝都の街中に出るのだから、洋菓子のひとつでも土産にすればいいと楽観し、軌条は朝(あさ)靄(もや)の中に飛び込んでいった。 人ごみを避けバスを利用しなかったのが仇となり、目的地に着く頃には日は昇っていた。 帝都の中でも、人の賑わいで知られる銀座。多くの店が派手な蛍光色や装飾で人目を惹こうと躍起になるなかで、街の角でひっそりと佇んでいる店がある。 喫茶琥珀。 ドアを開けると共に、珈琲豆を挽いた香ばしい匂いがする。 店内はぼんやりとした照明に、店主の趣味であろうか、絵画や柱時計、古いランプが飾られている。 人も時間もせわしなく動く帝都の中で、この店だけが止まっているかのような錯覚すら覚える。 店内に人影は数える程しかいない。いや、これで丁度いいのだろう。 軌条の店も狭いが、この店も決して広いとはいえない。だが少なくもなく、多すぎもしない客は、店に心地良い空間を作り出す。 客商売ゆえ、満席で賑わすのは至難の業といえる。しかし、空間全部に風が行き渡るようにするのには、その上をいく。真に均整(バランス)というものは難しい。 珈琲や紅茶を沸かす機器の音が背曲(BGM)となっている、さして広くはない店内。目的の人物はいつもの指定席、奥にある窓際にいた。 机を挟んだ席に、軌条は座る。 「お久しぶりです。櫻姉さん」 珈琲を飲む眼前の女性に、軌条は頭を下げた。 女性は珈琲の余韻を楽しむかのように、時間を十二分にかけて言い放つ。 「遅い」 「時間を指定しない櫻姉さんに非があると思うのですが?」 間を置いたのは彼女なりの仕返しのつもりなのだろうか。軌条の至極真っ当な言い分に、女性はやれやれと肩をすくめてみせた。 「これだから坊やは困る。女性(レディ)の妾を待たせたことが既に悪い。坊やは罪悪を感じぬのか?」 洋装のくせに、やけに時代のかかった話し方をする女性。軌条を《坊や》扱いするこの女性には独特の雰囲気がある。話し方一つとっても、それは理解できる。 女性の名は《冬櫻》という。無論それは字(あざな)であって、本名は古い付き合いである軌条ですら知らない。《軌条》にしても、家業を継いだ際に踏襲したいわば字である。互いにとって、本名を知らないことなどは問題にすらならない。 「まあ坊やのしつけを間違えた妾(わらわ)の責任か・・・・・・」 後悔どころか、軽く微笑する。からかうのは彼女の挨拶のようなものである。 世話の焼ける弟を見るように、冬櫻の目は優しい。苦手といいつつも、軌条は冬櫻のことを嫌っているわけではない。でなければ銀座まで足を運ぶこともない。 「そろそろ昼餉(ひるげ)の頃合。どれ、好きな物を頼め」 手渡された品書き(メニュー)は、見慣れたものだ。 喫茶店と銘打っている割に、品書きの大半は珈琲や紅茶の類で埋まっている。元より店主の趣味が高じてできた店。まともな食事は、最後のページの隅に申し訳程度にあるだけだ。 軌条とて幾度となく脚を運んでいる店だ。迷う事もなく、仏頂面の店主に注文を済ます。 「で、櫻姉さん。ただ昔話をするために呼んだのではないでしょう?」 注文をした料理が来る時間。 本題に触れたのは軌条からだった。 古いなじみとはいえ、合う時は大抵が仕事が絡んで時だ。今回とて例外ではない。 話が早いと、冬櫻は一枚の写真を取り出した。 「まずはこれを見よ」 差し出された写真。映されているのは、椿と同年代の少女だった。中々に見目麗しき容姿をしている。 「名は《つつみ》。半年前に妾が引き取った」 続けて出される写真。今度のは、今見た物よりも比較的新しい。ごく最近に撮られたものだ。 二枚の写真。 その落差(ギャップ)に、軌条は尋ねずにはいられなかった。 「これが・・・・・・彼女の今なのですか?」 「そうだ」 つつみという少女。二枚目の写真を端的に言うなれば、その姿は異常だった。 両手、両足に枷がはめられ、身動きがとれないようにされている。めくれた裾からは、切り傷のような生々しい痕が残っている。 何よりも生気がない。この年頃の子となれば、溢れんばかりに生気を放っているのが普通だ。だが少女からは、生気が微塵も感じられない。 「人形だ」 虚ろな眼とあって、軌条には少女が、出来のいい人形とだぶって見えた。注文した料理が運ばれてきても、手をつけられないでいた。 「違うよ。大体その表現は坊やのとこのお嬢ちゃんに失礼だ」 文字通り、軽食というしかない量のサンドイッチを、冬櫻はつまみながら言う。 「元は立派な家柄だったそうだが、親が馬鹿をしでかしてね。一家離散。行く当てのない先に、つつみは《雅(みやび)》に流れついた。経緯はどうであれ、生きるために身を売らなければならなくなった」 語る冬櫻の目は、雅の店主としてのものだった。 「同情はする。だけど身売りが嫌で、精神を壊して現実から逃げたこの子は、唯一つの生きる術を放棄した。そんな人間を、雅はもう置いてはおけない」 「・・・・・・櫻姉さん」 「軽蔑したかの?でも妾にはこのような生き方しか知らぬ。同じ女を食い物にして小金を稼ぐ・・・・・・つつみを引き(買い)取ったのだって、慈善や慈悲からでなく、ただの商売ゆえに。用無しになればこうして処分の仕方を相談する。外道にして鬼畜、それが妾の本性」 吉原の遊郭に居を構える《雅》の女店主、冬櫻は淡々と、それでいて静かに自身を嘲った。 無言でしか軌条は応えられない。女身一つで店を持つまでに、冬櫻が歩んだ道は計り知れないものがある。人間の裏も表も見てきた彼女を、肯定も否定もしない。冬櫻という人間の人生を批評できるのは、彼女本人を置いて他にいない。 《平静》の世。年号が変わる程度で、誰もが幸せになれるはずもない。富める者もいれば、その逆もまた然り。いつの世も、変わる事のない事実。 「お上も、天の上の神様も、何一つしてくれやしない。人でなしの妾が、唯一つ人様に教えてやれること」 せっかく勧められた昼飯も、味がろくにわからない。珈琲の苦味だけが、軌条の口の中を満たしていた。苦味の正体が何なのか、分からぬほど軌条は冬櫻のいう《坊や》ではない。 「一つ、いいですか?」 「何だい?」 「そのつつみという子。櫻姉さんはどうしたいのです?」 冬櫻の答えは、即答であった。 「どうもこうもない。言っただろう。お上も神様も何もしてくれない。決めるのは自身、つつみにしかできないことさね。妾は現状から変化があればそれで満足」 「そうですか」 わかりきったことだ。冬櫻は己がそうして生きてきた。 今さら、他人に強制的な生き方を、自身と同じ生き方を押し付けたりはしないだろう。 手伝うことはある。だが、最終的な判断は本人に委ねる。軌条の知る冬櫻はそういう人間であった。 「で、どうなんだ?」 冬櫻の言う事は、手伝うか、手伝えないかということだろう。不思議な力を宿す《憑き物》とはいえ、けして万能とはいえない。彼女はそれを知っている。 「できないことは、ないです。ただつつみと言う子が、最終的にどう決断を下すのかは私にも知りかねますが」 「先のことなんて誰にもわからないさ。それこそ神様でもない限り・・・・・・坊やに求めるのは酷さ」 言いつつ、冬櫻は席を立った。柱時計に目をやりながら。 「行くとするか。遅くなると店に支障がでる」 返答を待たずに、冬櫻は会計を済ましてしまう。 早足で駆け寄り、軌条は聞き忘れていたことを問う。 冬櫻の用件は伝わったが、軌条としても聞いて置かなければならないことはある。 「櫻姉さん、今回の報酬の件ですが」 つり銭を受け取りつつ冬櫻は、軌条に怪訝な表情をする。 瞬間、軌条は己の迂闊さを呪った。 「坊や、ぼけるのにはまだ早いぞ。坊やの昼餉代、既にもう払ってしまった。つまり坊やにはもう妾に借りがある」 ようは報酬は昼餉の代金ということか。 「さっそく借りを返してもらおうか。妾は余り気は長くないのでな」 チェシャ猫のようににやける冬櫻。 こういった部分が、軌条が冬櫻を苦手とする起因なのだ。 「さ、詐欺ですよ」 「贋作士が何をほざいておる。ほれ、バスに間に合わなくなる、急がぬか」 反論も軽くあしらわれ、軌条はうな垂れるしかなかった。 ? ガタンッ、と石を踏んだのかバスが一際大きく跳ねる。 その振動で、軌条の意識は現在へと引き戻された。 横の女性、冬櫻は実に気持ち良さそうに寝ている。 「・・・・・・ふぅ」 本日何度目かの溜め息。 油断大敵というが、冬櫻によってただ働き同然にされたことは今回が初めてではない。 毎回のようにはめられてしまい、それでもまだ同じ轍を踏んでいる。学習能力のなさ云々よりも、もはや相性が悪いというべきだろう。 行きはよいよい、帰りはなんとやら。 行きのバス代は冬櫻が持つといっていたが、帰りは知らないとのこと。帰りのバス賃に椿への土産代を考慮すると、赤字になることに違いはない。 赤字になるために働く。こんな馬鹿げた行為をさせられて、溜め息がでないはずもない。 一応は恩人に当たる人間になるのだが、こうまでされると感謝の念も次第に薄れていくのが人情というもの。 いつかといわずに、次から縁を切るかなどと考えていると、バスは目的地を告げる。 「やれ、もう着いたか」 いつのまにやら目を覚ましていた冬櫻。普段仕事は夕刻からだから、昼は寝ている時間。やはり眠いのかまぶたを擦っている。 吉原。警察の地図に赤線で囲まれている地域。国が認めた、身売りを主とした遊郭が集う場所だ。 バスから降り、軌条は辺りを見回す。 世間とは隔絶された地域という点では、落伍街と同じであるが、こうして見ると違いはよくわかる。 昼ということで人通りは少ないが、街並みは華やかである。これが日が落ちると、提灯に火が灯りより華やかさを増すそうな。 前時代以上からあるというから寂れているかと思えば、実はその逆である。人を集めるには時代についていく必要がある。自然この遊郭も発展していき、先程の銀座には劣るものの、そこかしこに最新の技術が使われている。 同じ隔絶でも、落伍街とは正反対である。 バス停から歩く事数分。 立ち並ぶ老舗に負けず、日本の旅館を思わせる建物が《雅》である。規模や風格ならば、そこかしこの店以上にある。 店先で、箒で掃いていた少女が駆け寄ってくる。 「お帰りなさい。店長」 「ああ、ただいま」 少女は、うやうやしく頭を下げる。客を取るにはまだ早い年齢のため、店の下準備などが彼女の仕事なのだろう。 「店長、その方は?」 冬櫻が人を連れてくるのが珍しいのか、好奇心に満ちた眼差しをむけてくる。普段人を食ったような性格の軌条ゆえに、好奇の視線というものに多少の居心地の悪さを感じる。 そんな少女を、冬櫻は制止する。 「落ち着け。以前話しただろう。つつみの相談に乗ってくれそうな奴がいる、と」 「その方が・・・・・・お医者様か何かですか?」 不思議そうに見つめてくる少女。 その様が大層おかしかったのか、冬櫻は隠す事もなく笑う。 「はははは!そうか茜には坊やが医者に見えたか」 「櫻姉さん。笑いすぎです」 よもや医者に見間違えられるとは、当の軌条でさえ思いもしなかった。無意味と知りつつ冬櫻を咎め、それから茜という少女に向き直る。 「すいません。医者ではありませんが、出来る限りのことはするつもりですよ。あ、私は軌条といいます。よろしくお願いしますね、茜さん」 「は、はい。こちらこそ」 茜の目の高さまで腰を落とし、軌条は手を差し延べる。気性もあるのだろう。茜はおずおずと、軌条の手を握り返した。 二人の様子を眺め、冬櫻は一人で頷いている。 「坊や、さっそくで悪いがつつみを見てやってくれないか。茶も出せなくてすまないがな」 「いえ、元より仕事で来たのですから気にしないでください」 「助かる」 踵を返し、冬櫻は軌条たちから離れていく。 「妾は取ってくる物があるから、茜に案内をしてもらうといい。茜もいいね」 言うが早く、軌条と茜が返事をする間もなく冬櫻は雅にへと消えてしまっていた。 ぽつんと取り残された軌条と茜。顔を見合わせた両者には、苦笑いが浮かんでいた。 ? 雅の内部は大きく分けて二つに分かれている。店としての絢爛な表と、従業員が住まうための家としての裏。軌条が通されたのは、店の裏の方であった。 店とは別になっている練。この練全体が、雅の居住区といえる。いや、者によっては、巨大な檻に例えるかもしれない。 長い板張りの廊下。左右にある襖(ふすま)の先は、個人にあてがわれた自室なのだろう。誰かが日常的に焚いているのか、香が染み付いているので容易に推測できる。 案内を任された茜がとある扉の前で止まる。 この扉だけ、襖ではない。鉄製の重い扉で、閂(かんぬき)で締め切られているのもここだけだ。 「こちらです。あとこれをお使いになってください」 扉の横にある棚から渡されたのは草履だった。室内なのにこれ如何に、という軌条の疑問は、軋む扉が開かれたことで溶ける。 物置であろうか。扉を境として、先は板で舗装されてはいない。これではせっかくの上質な足袋(たび)も、土で汚れ、擦り切れてしまうというもの。草履が必要なわけである。 光を取り入れる窓が余り設置されていないせいで、部屋にはただ闇がある。遠くに光点が見えることから、部屋の規模が窺える。 棚から出て来るのは草履だけではなかった。茜が提灯を取り出していた。マッチが湿気ているのか、単に不器用なだけなのか。提灯に火が灯らない。 「どれ、貸してみてください」 見かねた軌条が手を出す。 するとどうだ。難なく火は付き、提灯はぼんやりと照らし出す。灯らなかった原因は、後者のほうであったか。 「どうぞ」 恥ずかしさからか名前の通りに顔を染め、「あー」とか「うー」などと言葉にならない呻きをあげながら提灯を受け取る。 そんな茜を微笑ましく思う一方で、軌条はいぶかしんでいた。冬櫻は確かに《つつみ》の元へ案内するように指示をしたはずだ。それがこのような部屋に、どうして繋がるというのか。 どう見ても人が住まうには適さない場所。ましてやつつみは精神を病んでいると聞く。なおさら、理が通らなくなる。 「この部屋は何なのですか?ただの部屋には見えませんが」 「・・・・・・ついてきてください」 まるでそうすれば答えがわかるとでも言いたげである。 茜の声の音程(トーン)が変化したことに、軌条は気付いていた。追求しなかったのは、そのためだ。 窓からの光源などあってないもの。部屋に踏み入れてから痛感する。提灯がなければ、そこらに転がっている物に躓いてしまうだろう。 店をやっていて、物が自然と集まってしまうのか。広い空間に置かれた物のせいで、部屋は迷路と化している。案内がなければ、迷う可能性も否定できない。 会話もなく、しばらく歩くと部屋の隅に行き着いた。そこでようやく、軌条はこの空間が何であるのかを理解した。 暗闇も、迷路染みた物の置き方も、全てはこのため。 「牢屋、ですか」 茜は応えない。ならばそれが答えということなのだ。 格子で脱出できぬようにされた部屋が、幾つも隅に並んでいる。人を閉じ込めておくための設備。物だけでなく、人すらも放置する。部屋の扉が表からしか開けられないのも、中からださないためならば納得がいく。 「つつみはここだ、坊や」 いつの間に来たのか、冬櫻が背後に立っていた。 彼女は一つの格子の前で、自身の持つ提灯をかかげる。 「・・・・・・ひどい」 座敷が敷かれただけで、何もない部屋。写真で見たよりも、痩せ細ったつつみがそこにいた。手足を拘束されているのは変わらず、傷だけが増えている。目は虚ろ。生きながらにして、死んでいるとはこのことだ。 「違います!店長はつつみ姉さんを思ったからこそ、牢屋(ここ)にいれたんです!」 思わず出た軌条の言葉であったが、それに噛み付いてくる者がいた。 茜である。第一印象通り大人しそうな子であったが、冬櫻が非難されたと思い声を張り上げる。 空間に茜の声が木霊した。それだけは認めないと、軌条を見る目は鋭い。 「茜、よい」 「いえ、店長。店長が誤解されたままなのは、私が耐えられません」 冬櫻の制止の声も聞かず、茜は続ける。事の顛末を。 「普通の部屋ですと、つつみ姉さんは死んでしまう。手の傷が見えますか・・・・・・あれは窓硝子を割った際にできたものです。その時は破片で喉を切ろうとしました。障子を壊した時、鋭く尖った木片で心臓を刺そうとしました。ただの部屋だとつつみ姉さんは死のうとする!店長はつつみ姉さんを護ろうとしたから・・・・・・」 軌条は改めて格子で閉ざされた部屋を見直す。小さな窓には内側から鉄格子が遮る。障子などとは比較にならない程、格子は堅牢に出来ている。ましてや何もない部屋のうえに、手足に枷ときている。ただ生かすだけなら、これ以上うってつけの場所もない。 「もうよい。妾には十分すぎる言葉だよ、茜」 なかば泣きながらの茜の頭を、冬櫻はひとなでする。 「こんな店だから客の柄も一筋縄でいかなくてね。もしもに備えて都合したのだが・・・・・・まさか雅(うち)の子に使うことになるなんてね。はは、皮肉にしてはよくできているじゃないか」 手に持つ鍵は、格子戸の物だろう。自虐的に乾いた声で笑い、冬櫻は軌条に鍵を手渡した。 後は任せた、という意思の現われか。冬櫻は半歩退く。 格子に備え付けられた、黒鉄(くろがね)の鍵。鈍重な見た目に反して、軽くひねる程度で封は解かれた。 四つん這いにならねば入れぬほど、戸は小さかった。一般の男性と比べ、線の細い軌条でもこの戸は狭く感じた。 戸を潜り抜け、軌条は一息つく。 眼前に横たわる少女、つつみは侵入者である軌条に対して、何の反応も示さない。 自身を傷つけた挙句、外界との接触を自ら絶ったつつみ。 彼女にとって、生きていることは苦痛でしかないのか。それを知る術はない。 つつみを見ていた軌条は、彼女の口元が微かに動いていることに気づく。 呼吸で動いているのではなく、言葉を発する時の動き方だ。蝋が燃える音で掻き消えてしまうほどの小さな声。だが確かにそれは声であり、言葉であり、文章であった。 彼女に、軌条は耳を傾ける。 かごめ かごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 鶴と亀が滑った 後ろの正面だあれ 「……《かごめかごめ》、ですか」 所々言葉が途切れたり、音程が外れたりはしたが、間違いなく童謡の《かごめかごめ》であった。 普段であれば気にも留めない歌であるが、つつみが歌うそれは悲しいという感情を彷彿とさせる。 「いつからだったか」 冬櫻が遠い目をする。当時を懐かしむように。 「つつみは《かごめかごめ》をよく歌うようになった。歌うのがうまい子でね、妾もつつみの歌は好きだったよ。だけどこの歌は悲しすぎる」 軌条も、冬櫻に同感であった。 かごめかごめという童謡にはいくつか解釈があるが、その中の一つに《遊女説》というものがある。意味を知る者ならば、彼女が求めているものは自然とわかる。 「坊や、頼まれてくれないか。妾には……どうしようもない」 冬櫻とて現状を好んでいるわけではない。彼女とて、つつみを自由にさせたいのだろう。 邪魔をするのは冬櫻の立場である。雅の店主として、ここら一片の遊郭を統括する者としては、個人の勝手でつつみを逃がすわけにはいかないのだ。 責務を放り出せば、雅の全員が路頭に迷うことになる。それ程、定められた《掟》は厳しい。権力(ちから)はあれど、それにも増して枷も多い。 軌条も冬櫻の事情を知らぬわけではない。冬櫻が人に頼みごとをするなど、よほど追い詰められた時だけだ。 断ることなど、できようはずもない。 懐から、包まれた《憑き物》を軌条は取り出す。 「つつみさん。これはあなたが決めることです。私たちは、あなたに一任します」 虚ろな眼差しは変わらず、軌条の声が届いているのかすらも怪しい。 「あなたを縛る枷は」 軌条は続ける。届いていようと、届いていないと関わらず。 「これでなくなる」 包まれていた《憑き物》が、外見をあらわにする。 錆付いてしまった南京錠。 軌条も冬櫻も知っている。これがただの南京錠ではないことを。紛れもない《憑き物》であることを。 「決断はあなたに任された」 念押しするように軌条は繰り返し、南京錠をそっとつつみの手の中に握らせた。 その際に握り返された気がしたのは、果たして軌条の勘違いだったのだろうか。 ? 現か、夢かわからぬ世界。 ある意味でそれは、つつみが内部に作り出した世界ともいえる。 外部から途絶されたつつみだけの世界。つつみしかいない世界。 そう、つつみ以外には存在しえない世界。 「何よ、これ」 つつみは困惑する。 突如現れたそれに。 それは、つつみを見てしゃべった。 「私はあなた。あなたは私。そんなのは見てわからない?」 無数の鎖に縛られたつつみが、当然のように言う。 つつみには理解しがたい光景だ。 つつみは自分だ。しかし目の前のもまたつつみなのだ。 「どういう……ことよ?」 「わからない?」 不思議そうに首を傾げたもう一人のつつみ。鎖がじゃらりと不快な金属音をたてる。 「あなたにはわかるはずよ。この鎖の意味が」 「意味?」 「ここはあなたの世界。なら知らないとは言わせない」 《あなたの世界》 その言葉に、つつみは直感めいたものを感じ取る。 もう一人が言うとおりならば、直感は正解である。 「……私を縛る……枷?」 「ご名答。その通りよ、私」 鎖を見た瞬間、脳裏に浮かんだのは《拘束》であった。鎖はつつみの中で、枷としてイメージされる。 もう一人のつつみは、尋ねる。 「どうしたい?あなたは今選択する自由がある。鎖は枷。ならば鎖を外していくぶん、あなたは自由になるわ」 夢、にしては現実味がありすぎる。おそらくこれは現実であり、もう一人のつつみが言うことも真実か。 神が与えた好機。今一度、自由になれるのなら。 「私は何をすればいいの?」 「簡単なこと。鎖を解いていけばいいのよ、それでね」 目線はつつみの手に注がれる。手を開けば、そこには一つの黄金の鍵が握られていた。 「さあ、どうするの?」 もう一人のつつみが挑戦的に笑う。 「決まっているじゃない。私ならわかるでしょう」 「ふふ、そうね。せっかくの好機ですもの。見逃す方がどうかしている」 「「わかっているじゃない」」 二人の声が重なる。 躊躇などというものは存在しない。求めていたものが手の届くところにある。止まる必要はない。 いくつもある南京錠の中から一つ手に取り、つつみは鍵を差し込み、解放する。もっとも大きく長い鎖の南京錠は簡単に外れる。 「っ!?」 鎖が音を立てて落ちた時、つつみは解放された。精神を壊さなければならないまでに追い詰められた、《雅》という存在から。枷は確かに外された。 笑う。 笑いあう。 つつみしかいない世界で、つつみの声が重なっている。 愉快とはこのこと。こんな簡単なことで、自由が手に入るのだ。笑わずにはいられない。 外す。 外す。 外していく。 己を縛るありとあらゆる枷を。 幾重にもあった鎖は、次々と解かれていく。 「ああ、自由自由自由。これで私は自由になれる!」 解いて解いて解き続け、鎖は最後の一本になる。 「最後の一本ね、私」 鎖が解けて、ほとんど自由になったもう一人のつつみが確認をとる。 「ええ、最後の一本よ。私」 つつみも自身にむかって微笑む。これで何も縛るものはない。そう思うととても晴れやかであった。 だからこそ。 もう一人のつつみの反応は予想外のものであった。 「これで終わりにしましょう。一つくらいの束縛があってもいいじゃない?」 「なんでっ!」 もう一人の自分だからこそ、喜んでくれると思っていた。 鎖が解けていくたびに、喜んでいるのだと思っていた。 だがここにきて、もう一人のつつみは裏切った。 「なんでよっ!私は嫌よ!誰にも束縛されたくない!何にも縛られたくないのっ!」 共感者を失い、つつみの声はヒステリックになる。 もう一人のつつみは、なだめるように言う。 「十分でしょう。これ以上自由を求めなくてもいいくらいに」 「駄目っ、駄目駄目駄目駄目駄目っ!」 「……私」 同一人物の意見が、真っ向から対立する。 つつみの縛られていた自身を見る目は、怨嗟で染まっていた。 諦めたのか、悲しげにもう一人のつつみは呟いた。 「わかったわ。好きにして」 「そうさせてもらうわ」 最後の南京錠は、すんなりとは開かなかった。力任せに捻り、つつみは鎖を取り払う。 「これで、これで私は自由。誰にも、何にも、私を拘束なんてできない!」 歓喜に打ち震えるつつみであったが、それも長くは続かない。鎖が地に落ちたと同時、つつみの世界は崩壊を始める。 何もかもが崩れ去り、つつみの意識は混濁としていく。 「……なんでっ、なんでなのよっ」 返ってくるはずもない問いに、答えが返ってくる。 「止めたわよね、私?」 もう一人の、自由となったはずのつつみ。自由になれたはずなのに、彼女は泣いていた。 「さようなら。……私」 それがつつみの聞いた最後の言葉であった。 ? 「最後まで……解いてしまったのですね」 茜は泣き崩れ、冬櫻は何も言わない。 冬櫻は座敷に座り、つつみを膝枕する格好でいる。背は軌条たちに背け、表情を伺い知ることはできない。 壁によりかかり、軌条はこれまでに一通りの説明を終えたところであった。最後の鍵は、《命》という枷だということも。 つつみは冷たくなっていた。もう鼓動も、息もしていない。 そのことが枷を最後まで解いたことを如実に示していた。 「馬鹿な子だよ。本当に……」 冬櫻は茜の頭をなでながら、慈しんでいる。 「枷があるから妾たちは生きているのに……手放しちゃいけない枷もあるんだよ」 自身を外道、畜生と嘲っていた冬櫻であるが、もし彼女が本当にそのような人間ならば誰も慕いはしないはずだ。 「坊や、すまないね。嫌な思いをさせてしまった」 「……謝らないでください。お願いですから」 軌条がいえるのはそれだけだった。 不意に、冬櫻が天井を見上げる。 「……茜」 茜は亡き声で答える。 「雨漏りしている。外は雨じゃないのか?」 窓からは、夕日が差し込んできている。 戸惑う茜に変わり、軌条が返答する。 「ええ、大雨です。雨漏りしても仕方がないほどの、大雨が降っています……」 「そうか」 冬櫻は歌う。 あの、《かごめかごめ》の歌を。 いつまでも、ずっと、歌う。 自身ができることを彼女はする。 ならば今できるのは、つつみを慈しみ、別れをつげることだけだ。 この日。 陽が完全に落ちるまで、雅からは《かごめかごめ》の歌が途絶えることはなかった。 了 |