贋作軌条 萬屋 白色の結晶が風に舞い、その身がゆっくりと大地に溶けていく。 手のひらを差し出せば、結晶は自然とその中に納まる。ただ結晶はいつまでもそこにあった。雪であるならば体温で溶けてしまうが、原型を崩すことなくそれはあり続けた。 ほんのうっすらと桃色に染まっている花びら。美しい花を咲かせる事で、この国の民にも慕われる植物《桜》のものだ。 曇り一つない満月の光を浴びて、ひらりひらりと舞う花を雪と錯覚してしまう。 桜花が儚く散っていく。 帝都中に植林された桜は、落伍街にも季節の足音を分け隔てなく知らせてくれる。 《春眠暁を覚えず》とはよく言ったもの。心地よい夜風に身を任せ、縁側の腰掛けた軌条は杯を片手に月を見上げる。その傍らには、まるで和人形が魂を吹き込まれたかのような愛らしい少女、椿が、軌条の膝を枕代わりとしている。両者ともに、相変わらずの和装である。 杯には清く濁りのない液体がそそがれ、ひとひらの桜花が浮かべられている。黒く沈んだ色合いをした杯が、水面に丸い月を映し出す。 静かな夜だ。だがけして悪い気はしない。 このような夜の過ごし方は、軌条、椿共々嫌いではない。 「風情があっていいと思いません?どうですあなたも?」 軌条が人のいい微笑を浮かべ、杯を示して問いかける。 その問いは椿にではなく、酒の水面に映し出された人物に向けられたものであった。 軌条古物商の端にある、裏庭へと続く路を遮る簡素なついたて。その影に隠れるようにして覗いていた人物を、軌条は目ざとく見つける。 観念したのか、それとも元々隠れる気などなかったのか、返答はすぐにあった。 「ごめんなさい。あなたの貴重な時間を邪魔してしまって」 謝罪の言葉と共に現れたのは、この場には不釣合いな者だった。西洋の純白のドレスに、帽子、手には日除けの傘らしき物をかけている。まるで絵に描いたような貴婦人そのものだ。その不自然さと桜花、月光によって、女性はある種の幻想的な雰囲気を持ち合わせて見えた。 「でも私(わたくし)も軌条様と同じですわ。こんなに綺麗な光景、私の母国でも見られるかどうかわかりませんから」 女性はうやうやしく一礼してみせる。 発音におかしなとこがあるが、些細なもので問題はない。聞き苦しくはないといえる日本語。礼の動作からしても、女性の教養の良さが目に見えてくる。 ふむ、と軌条はあごをさすり、女性に手招きをする。 「どうぞ、こちらに来ませんか。外の方がこの国に来るのは珍しい・・・・・・それに私を《軌条》だと知っている。ただの物見遊山なんかではないのでしょう?」 「そうですね。では、失礼させていただきます」 きぃ、と独特の音をさせてついたてをくぐり、女性は裏庭にへとやって来る。 軽く椿とは反対側の縁側を叩き、座るように軌条は促し、女性は素直に従った。 「かわいらしいお嬢さんですこと。娘さんかしら?」 帽子をとり、軌条越しに覗いた女性、いや、まだ幼さを残した少女と呼べる彼女に、軌条は苦笑する。 「初対面のあなたに言うのもなんですが、あなたも十分にかわいらしい。母国でもそう言われた事があるでしょう?」 「ふふ、そうですね」 光源が月明かりしかなかったことと、帽子のおかげで隠されていた少女の容姿。流れる金髪(ブロンド)に澄まされた碧眼。少女もまた椿とは違う趣での愛らしさを秘めていた。 二人して笑いをこぼす。 いくばくか、月と桜花を眺めた後、先に口を開いたのは少女の方であった。 「申し遅れました。私はアリス・シェナードという者です」 「シェナード。そういうことですか・・・・・・」 《シェナード》。その姓だけで、軌条には彼女の正体と目的に思い至るものがあった。 「シェナード伯爵に一人娘がいるということは知っていましたが、まさかあなたがそうだったとは。《アリス》と名づけるあたりはいかにも伯爵らしいですね」 手首を利かせ、軽く酒を喉に流し込む軌条。甘く、喉を焼くような味に舌鼓をうつ。 椿の髪を一撫でして、続ける。 「シェナード家の伯爵といえば、その手の物に関しては右に出る者はなしと言われたまでの収集家。伯爵の収集物は《本》でしたが、昨年逝去されて遺産は全て一人娘が継いだと聞き及んでいます。本来個人の収集物など、他人から見れば価値などないも同然。なのに、娘であるあなたはここに来た。そこから考えられる理由は二つ。一つは故人の夢であった、コレクションを完成させるため。もう一つは」 すぅと軌条の唇に、アリスの人差し指が当てられる。 「お察しのとおりですわ。亡き父がそうであったように、私もまた同じ《本》の収集家です」 アリスは、キャリアケースから一冊の本を取り出す。色は褪せ、淵は削れ、ページは変色し、ハードカバーに関わらず何度も読んだことを示す折り目跡。彼女はそれを大事そうに、わが子にするように優しくさする。 「お父様が築かれた収集物は底知れず、バベルの図書館を越えるという者もいます。しかしそのお父様も一介の人間に過ぎないのも事実。いまだ確保できないでいる《本》もあるのです。私はそれらの《本》を回収したいと願っています」 「それは亡きお父君のコレクションを完成させるために?」 軌条の少し意地悪な質問に、アリスは即答で応える。 「いえ、私のためです」 「正直ですねえ。そういった人は好きですよ」 一気に杯を傾け、中の酒を飲み干す。空の器には、漆黒しか見えるものはない。 「アリス嬢が欲しがる物は、確かに軌条古物商(うち)にありますよ。どこをどう伝って知ったのかは図りかねますが、その熱意は認めます。アレを探し出す事は、並大抵の事ではないですからね」 「ではもしかして」 表情に花が咲く。 軌条はアリスに同調するように、頷いてみせた。 「ええ、買うも買わぬもアリス嬢の采配に」 「あ、ありがとうございます。軌条様!」 感激からか握手を求めるアリスの手を、軌条は握り返さなかった。傾げているアリスを横に、軌条は座布団を椿の枕代わりに据え変えていた。 「・・・・・・う、ん」 寝心地が変化したことに反応して、椿が少々寝苦しそうにする。が、落ち着けばまたすこやかな寝息をたてだす。 見届けてから、軌条は裾で汗を拭う仕草をしてみせる。 「ふう、この子の寝起きは多少悪くてですねえ。起こさないように注意してください。私は例の《本》を持ってきますので、くれぐれも起こさぬように」 「わかりました。足元にお気をつけて」 握手は気付かなかったのだろうと納得し、アリスはランプを手に店内の奥へと消えていく軌条を見送る。 「お父様でさえ手にできなかった《本》・・・・・・一体どのような内容なのでしょうか。ああ、気になります」 まだ見ぬ《本》に思いを馳せるアリス。その存在自体は自身の父からも聞いてはいたが、内容は誰一人として知らぬという。歴史を塗り替えるような重大な遺跡を発見した、かつての偉人らもこのような心境であったのだろうか。 未知なる出会いに、アリスは胸を膨らませる。童心に返ったように、ただ純粋に。 「これが、その《本》です」 軌条の持ってきた《本》に、アリスは言葉がなかった。落胆や、驚愕ではない。威圧感だ。 声を発するどころか、呼吸すら憚れる。そんな威圧感を、《本》が持っていたのだ。 古びたハードカバーの本。題字は金で押してあるが、削れて跡が残るのみ。なによりも異様なのは、《本》に施されていた物だ。十字に、重厚ある金属の鎖が巻きつけられている。極め付けに南京錠である。 猛獣かなにかを解き放つまいとしているように、《本》は厳重に読めないようにされていた。 想像していた《本》との余りの違いに、呆然としていたアリスの手に軌条が南京錠の鍵を握らせる。 「どうぞ、これがあなたの求めていた《本》。奥の座敷が開いているので使ってください。読んでみたいのでしょう、この《本》が?」 「・・・・・・」 「春先とはいえ、風がまだ寒い。私はこの子を寝かすので自室に。何かあったら呼んでください」 眠っている椿を抱え、軌条は自室とやらに入っていった。 「は・・・・・・い」 自失していたアリスが、反応を示したのはだいぶ後の事であった。 ? 覚悟を決めて、鍵を差し込む。 右方向にへと力を加えると、その外見とは反比例して簡単に南京錠は外れてしまった。 鎖が耳障りともいえる音をたて、長年縛り付けていたであろう《本》をついに解放する。 「こ、れが。これが、あの」 興奮と恐怖と感嘆が入り混じった奇妙な感覚。 アリスは《本》を、その胸元に抱き寄せる。その様は恋焦がれた恋人への抱擁みたいにもとれた・・・・・・事実、アリスはこの長年捜し求めていた《本》に、いつのころからか特別な感情を抱いていた。 おかしな話であるが、これは《恋》だとアリスは認識している。変であるとは思わない。何故ならば本来の《恋》の対象である《人間の男》が、《本》に換わっただけなのだ。 満たされる。 枯渇し、渇望し、飢えていた。 それらが抱擁とともに、全て満たされていくのを感じる。 氷塊が水と化し、器の隅々にまで行き渡る。足の爪先から、髪の一本一本にまで。 「は、・・・・・・あ」 いつまで抱擁をしていたのだろうか。数分、数時間、否、たとえ数日数年であろうと、抱擁を続けていたい感覚に囚われる。囚われてしまう。 (ああ、なんて素晴らしい本なのでしょう) これまで出会ってきた何千、何万の本でも、ここまで惹かれたのは初めてのことだ。 表紙を眺めただけでこの衝撃。ならば表紙の先に待っているのは天国か。 (いえ、きっとそれ以上) 《天国》などと使い古された陳腐な言葉では、この《本》に失礼というものだ。だがそれ以上の賛美の言葉を彼女は知らない。此の世に存在するありとあらゆる言語をもってしても、おそらくは表現する術はないのだろう。 カバーの題字を、彼女は指でなぞる。《本》の《収集家》を自称するに見合う言語力を身につけている。理解できない言語は、未開の土地の部族語か、この星以外の生物の言語くらいのものか。 指の腹に触れ、一字、一字と注意深く読み取る。 「・・・・・・・・・・・・お・・・・・・る」 途切れ途切れの字が、彼女の中で文字となり文章となる。アリスは、熱い吐息をもらす。 「・・・・・・《友におくる》・・・・・・それがこの本の題名」 長らく、題名ですら不明とされていた、もはや伝説といってまでいいほどの《本》。 至福の時。 誰も知らぬ物を、自分だけが独占できるという贅沢。自分が大衆から、特別になる瞬間。 《本》の一字ずつが、彼女にえもいわれぬ快感をもたらしてくれる。 「拝見させて頂きます」 《本》に対する敬意を示す、彼女だけの儀式。 ハードカバーの表紙は、羽のように軽くもあり、鉄以上に重くもある。 期待、不安、が交差する。彼女の手は表紙にかけられたままで、美しい碧眼はまぶたに閉ざされている。 深呼吸を、一回、二回、三回・・・・・・。 そうして、アリス・シェナードは、本の表紙をおもむろにめくったのだった。 ? ―――歌だ。 懐かしく、心が癒される。 誰にでもある、童心に刻み付けられた歌。 「――――――♪」 歌詞どころか題名すら知らない歌であったが、私は自然とリズムを口ずさんでいた。 そんな私の手元では、軽快でゆったりとした歌とはまるで正反対の世界が繰り広げられている。 「―――♪」 ほら、また一つ。 ほんの少しの抵抗を見せただけで、その発達した筋肉の塊の足は、ぶつりと根元から千切れる。のた打ち回るそれを見て、私は無感情に歌う。 一匹のバッタ。 私はそれを飽きもせずに、ずっといたぶっている。触覚にはじまり、前足、後ろ足、羽・・・・・・むしりとるだけでは足りなく、次は眼に虫ピンを刺してみる。 「―――♪」 歌が終わり、私はそれを無感情に踏み潰した。 ? 命に価値を見出すことができない。 成長した私は、幼少期となんら変わらなかった。変わったとするならば、それは対象が変化したことくらいのものだ。 犬や猫はもう飽きた。いたぶることに満足する前に死ぬのでは興ざめしてしまうというもの。つまらない。 にもかかわらず私には止めることができない。私の理性という歯車はとうに磨り減ってしまっている。 「―――♪」 生きたまま羽をむしり続ける。その都度、濁った声でそれは悲鳴をあげる。黒い羽を、撒き散らす。 ああ、痛くて苦しいのね。 でもやめてあげないの。やめてあげられないの。だってあなたは黒くて不幸を呼ぶ烏じゃない。そんなあなたはいらない子。いっそいない方がいい子なのよ。だから私があなたを背負ってあげるのよ。 羽毛をむしり取った後、羽を引きちぎり、首を捻った。 「――――――♪」 歌が終わる。 両手を赤に染めて、私は肉塊(それ)を放り投げた。 ? なあ、友よ。別れて久しい友よ。 完全に磨り減って、歯がなくなってしまった歯車がどうなるか知っているかい? 「―――♪」 ごめんなさい、ごめんなさい。でもこれは本心からの言葉じゃない、偽りに満ちた偽善の言葉なんだ。 ただ満足したいだけなんだ。 椅子に縛り付けられた男を見下す。ただの椅子ではなく、両手、両足を拘束するように鉄輪が、銅にはベルトで身動きできないように固定されている。 私が作り出した、私を満足させるための椅子だ。 男に息はもうない。私が《父親》と呼んでいた男は、見るも無残な形で死に絶えた。両手両足の形はなく、腹からは臓物がはみ出し、眼窩から飛び出た神経の先はなく、片耳もない。床に転がるのは、かつて私が《家族》と呼んでいた者たちのなれの果て。 なあ、友よ。 今頃、君はなにをしているのだい? ? 止まらない。止まる事を知らない。 歯がなくなった歯車はただの車輪だ。ブレーキのない車輪は一方的に回転速度をあげるのみ。 飽きることなく、止まることなく、車輪は、車輪は、ただただずっと永遠に・・・・・・ 「そこらでいいでしょう、アリス嬢?ずいぶんと熱中していたようですがね」 ぽんっ、と手を叩く音。 催眠術にでもかかっていたように、アリスのうつろな目に光が戻る。 「・・・・・・軌条様?私は、私は一体なにを・・・・・・?」 アリスは自身の手と《本》を見比べる。《本》は軌条に取り上げられ、彼によって閉ざされている。 これまで見てきたもの。夢や幻にしては余りにも生々しすぎた。虫の身体を分解する感覚、烏の羽を引きちぎった時の断末魔、温かかった人の返り血。 「・・・・・・っ、これは」 骨の軋みで、アリスはようやく自身の状態を知ることができた。アリスの身体は、椿によって羽交い絞めに拘束されていた。 幼い外見の椿からは考えられない力だ。振りほどこうにも、アリス本人の力だけではどうしようもない。 「軌条様、何故このようなことを?」 月明かりに照らされた軌条は、微笑を浮かべたままだ。 「まだお気づきになられませんか。アリス嬢の手に握られている物のは何ですか?」 そう言われて突きつけられたのは、全身が映る姿見(かがみ)に映し出されたアリスの姿。 腕のその先、椿に締め付けられ白い肌がより白くなった手には、月光を反射する包丁が握られている。よく見れば、アリスを押さえつけている椿の着物にも、鋭い刃物で切られたかのような跡があった。 アリスの表情が凍りつき、力が抜け包丁が床に落ちる。そしてようやくアリスは椿から解放された。 包丁を拾い上げた椿は、台所へと消えていった。 「わ、私は、なにを・・・・・・一体・・・・・・」 理解できないと、アリスは自我を喪失しかけていた。 出会った当初と同じように、軌条は縁側に腰をかける。 「こちらへどうぞ。知りたくはないですか、この《本》について・・・・・・よろしければお話しますが?」 「・・・・・・お願いします・・・・・・」 よろめきながらも、アリスも縁側に腰を下ろす。ここへ来たときとは別人、とまではいかなくても、アリスからは生気と呼べるものが削れ憔悴しているのが見て取れる。 「ふむ、・・・・・・まあまずは一杯」 差し出されるのは一杯の湯飲み。春先とはいえまだ外の気温は寒い。湯気が立ち上るそれを、アリスは受け取る。 少し、苦めに淹れられた日本茶。それがアリスには、丁度よい加減であった。 「・・・・・・おいしい」 悪夢から覚めた安堵からか、口からでたのは素直な感想であった。 「ただの酔い覚ましのつもりだったのですが、月夜にお茶というのもなかなか・・・・・・・・・・・・アリス嬢にもお気に召されたようですし」 何気なくアリスは懐中時計を覗き込み、その眼を疑った。あれからまだ三十分もたってはいない。体感時間と現実の時間の流れ、この違いがさらに彼女を困惑に追い込む。 「・・・・・・軌条様」 意を決してアリスは軌条に問いかける。あの《本》は、一体なんなのか、と。 アリスにたいして、軌条は淡々と語る。 「昔、昔、とある国でのことです。二人の子供がいました。ただ、彼らには一つだけ人と決定的に違うところがあった。彼らにも理解できず、そして他人にも理解できないこと。《命の価値観》とでもいうのでしょうか・・・・・・彼らにはそれがどうしても理解できなかった。初めはただ無感情に、しかしやがて彼らは《破壊による快楽》を知ってしまった」 本を撫でる軌条の姿に、彼の言おうとしていることをアリスは悟り、続けていく。 「記憶の最初はバッタ。犬、猫、烏、魚、ありとあらゆる生き物を殺して、行き着いたのは《人間》だったわ」 「最初は家族。次に隣人。そしてさらに隣人にへと。彼の《殺意》は止まりませんでした。最後は捕まり、死刑台に。お気付きでしょうけど、この本はその《彼》の生涯について書かれた《本》なのです」 そう、家族を手にかけるまでの記憶は、確かにアリスの中に残っている。鮮明すぎるその映像は、まるで自身が、描かれている《彼》になっているかのようでもあった。 《本》という枠を通り越し、《彼》と一体化したような感覚。映像だけでなく、彼の思考、息吹、心臓の鼓動まで聞こえてきそうな・・・・・・軌条の言った結末である死刑まで読み終えてしまった時、自身は無事でいられたのだろうか。《彼》と共に、死んでしまった気がしてならない。 「お聞きしてよろしいでしょうか?聞き間違いでなければですが、初めに《お二人の子供》とおっしゃいましたか?」 ふとした疑問をアリスはぶつけた。少なくとも彼女の見た映像の中では、《彼》は一人だったはずだ。 「なにをいまさら。本当はもう知っているのでしょう?」 「やはり・・・・・・そうなのですか」 この《本》を書いたのは、間違いなく《もう一人の子供》だったのだ。いつ出会ったのかは知らないが、他人に理解されない思いを持つ者同士だ。もし知り合えたとしたらよき理解者であり、友といっても差し支えのない関係になったとしてもおかしくはない。 二人にとって、この世界で唯一、本当に心を許せるのは互いしかいなかったのではないか。アリスにとってそれは過言ではなく、確信めいたものだった。 「いつから道は別れたのでしょうね。二人共、そう、少年までは同じ存在だった。だけど一人は執筆という殺意の発散先を見つけ、一人は直接ぶつけるしか方法がなかった。《彼》が死刑になるとしって、筆者はこの他人に決して理解されないであろう《彼》に、最大の友情を示したかったそうだ」 消え行く人間の生涯を本として残す。分からなくもない話しである。 「だから筆者は自身の全てをかけて執筆にあたったそうだ。その出来は素晴らしく、文字の旋律はまるで映画(キネマ)を見るかのごとく映像として脳裏に浮かび、登場人物の息吹、鼓動までをも伝えるそうだ。これがこんな話でさえなければ、この筆者は世に残る偉人となったのだろうが・・・・・・」 軌条はあえて一旦言葉を区切った。 「―――出来たのは血に塗れた本だった。本を収集するアリス嬢ならば聞いたことはあるだろう。本による洗脳について」 「あります。ある一定の文体、文章は、人を催眠状態に陥れる。時としてそれは洗脳にもなりうる、と。ですが」 もちろんそんなのは都市伝説のような、真偽も定かではない話だ。仮にあったとしても、強い強制力を持たせることは不可能といってもいい。余りにも困難な洗脳は、自制心が働いてしまい失敗するといわれているからだ。 「だがこの《本》は特別です。出来の素晴らしさ、そして物語の構成上、読者を洗脳してしまえる困った代物だ。これまでの所持者は全員《本》に飲み込まれ、家族を、友人を、あるいは隣人を殺害し、最後に自害している」 色褪せた赤い表紙にできた染み。もしかしてこれは人の血の跡かもしれない。《本》の由来を聞いた今なら、表紙を血で染めたと言われても納得できてしまう。 嫌悪感に表情を歪めるアリスに、軌条は決断を迫った。わかりきった、意味などなさない決断を。 「さあアリス嬢。あなたのお望みの品は目の前にあります。お買い上げになりますか?」 微笑。だけどそれが悪魔か、物の怪の類にアリスは見えた。軌条という者に、底知れぬ何かを感じ背筋を震わす。 「け、結構です。私では持て余す代物ですから」 埃のような、鉄のような匂いを嗅ぎ、アリスはえずきながら拒絶した。あれほど愛おしかったはずの《本》を、親の敵でも見るかのような目で。 「やあれやれ、また売れ残りですか。ま、当然ですけどね」 呑気な口調で、軌条はじゃらじゃらと鎖で本を縛っていく。あれは本の封印なのだろう。 南京錠が閉められる。 次にあの本が開かれるのはいつになるのだろうか。アリスはどこかで、読まれることを拒否される本を哀れに思った。 「やはり、親子、ですか」 「はい?」 思いがけぬ単語に、アリスは間抜けな声をあげた。素がでてしまった彼女をくくく、と笑い、軌条は応える。 「実は一昨年ですか。伯爵もアリス嬢と同じ用件で来られているのですよ」 「お父様が、すでに来ていた?」 《収集家》として敬愛すらしていた父が、ここに来ていたことにアリスは疑念を抱いた。 「ならどうして《本》がここにあるのです?」 父の熱の入れようはすごかった。場所が分かっているのならば、まず手に入れてくる。収集するだけならば、できないはずなどないのに。 「なのに、どうして?」 「わかりませんか。なら伯爵が言った言葉をそのまま言いましょう。『《収集家》が、何故《収集》するのかわかるか。それが素晴らしいと知っているからさ。だからその《本》がいかに危険だとしても、手に入れればいつかはその鎖を解いてしまうに決まっている』。伯爵はそう言って、辞退なさりましたよ」 「・・・・・・」 収集するだけならばなんの問題でもないだろう。それこそ、博物館のようにガラスケースにでもいれておけばいい。 だがアリスは収集家であると同時に、《本》の一読者でもあるのだ。手に入れ、読んで、初めて満足する人種だ。そういった《本》の《収集家》にとっては、あの《本》は危険すぎる代物だ。 「お疲れ様です。もう一杯、お茶でもどうですか?」 軌条が急須(きゅうす)を差し出す。アリスは素直にもらうことにした。 「はあ、まさかあんな代物だなんて思いもしませんでしたわ」 「はは、お父君も同じことをぼやいていましたよ」 溜め息を吐くアリスに、軌条は伯爵が来たときの話をした。 アリスは外での父の様子を知り、時に驚愕し、時に笑った。 二人して縁側に腰掛けたまま、時間がゆっくりとすぎていく。湯飲みを手に、他愛のない話。満月と、桜花が肴の、ほんの少し贅沢な時の過ごし方だ。 満月が傾いた頃。 アリスは縁側から腰をあげた。 目当ての品を手に入れられなかったものの、その表情は嬉々としたものだ。 「面白かったですわ、軌条様」 「行くのですか?無駄骨で残念でしたが、気を落とさないでくださいよ」 「いえ、まったくの無駄骨ではありません。それに勝るとも劣らぬものを楽しませて頂きましたから」 縁側には数枚の硬貨。酔狂にしてはすぎた額である。 「お支払い頂く物はおあげしていませんが?」 「外国の習慣みたいなものです。素晴らしい夜と、桜、そしておいしいお茶のお礼です」 「まったく。あなたもですか。本当に父君と似た方だ。少しお待ちください」 店の奥にへと消えたかと思うと、店をひっくり返したのではないかという騒がしき音。次に出てきた軌条は、全身に埃をかぶった姿であった。 「粗末な物ですがこれをどうぞ。あなたのお父君には渡す事はできませんでしたが、これは日本にまで足を運んでくれたあなた方親子へのお礼ということで」 アリスの手のひらに被せるようにして渡された物。それは数枚の紙切れのように見えた。 「軌条様・・・・・・」 「いえいえ、私の店から出たからといってもそれはただの物です。変な力とかないのでご安心を。信用第一です、はい」 くすり、と笑うとアリスは一歩を踏み出した。 「ではごきげんよう。また縁があればどこかで・・・・・・」 軌条古物商から離れた街角。アリスはドレスから数枚の紙切れを取り出した。 深夜と呼べる時間帯。外はまだまだ暗い。だがそれは、白く淡く光っているように見えた。 桜花の押し花が施されたしおり。 亡き父親が、かつて話してくれた、異国の地で心奪われたと絶賛していた美しき花の名前。彼、軌条はそのことを知っていたのだろうか。帰国したら墓前に供えてあげよう。 意気揚々と、一人の少女が日本を飛び立っていった。 帝都に季節の足音がやってきた夜。そんな夜の事。 了 |