My Study
わたしの研究は、簡単に言うと、生徒と生徒、生徒と教師の関係(これを「教育関係」とわたしは呼んでいます)が人間的な結びつきをもつということがどういうことか、ということをめぐって考えるものです。生徒と生徒とか教師と生徒とかいう場合、大概は「役割関係」とか「権力関係」があるというのは、厳然たる事実でもあります。しかし、また教育がめざすべきは、そういう関係で満足してはならないという倫理的要請というものも考えられるべきでしょう。
生徒、教師、いずれもともに人間であるということに注目するならば、この人間であるという素朴で当たり前の事実を前提とした関係に基づくことは、教育の次元で考えられないでしょうか。教育、とくに学校教育に限定してみた場合、当然、その関係は、自然な人間同士の関係ではありません。それ以前に、同一年齢層、同一の学級規模などに基づき、編成された人為的な関係がすでにそこには存在します。人間が素のままに集まっているのではなく、すでに教師にとっては、数量的に把握された同一レヴェルの集団としての生徒群がいるという事実から学校教育が成立しているのです。
教育(学校教育)は、だがしかし、そういう人為的状態を抜けて、生徒たちをして「人間らしさ」(人間性)という理念的次元に至らしめるべく、努めることを期せられています。もちろん、現実はそう簡単ではないのですが、しかし「教育基本法」第一条で「人格の完成」が目指されるように、人間の理念をたからかに標榜することなく、教育の営為を営むことは、現実に拘束されたまま、その脱却の方位を自ら唾棄してしまうことにすらなりかねません。現実は現実として透徹した眼差しを向けつつ、未だ可能性としての人間に向けて思考することが、教育の使命だとも考えています。教育は、「である」ことを突き抜けて、「なる」ことの次元にまで至らねばならないのです。
いささか、一般論でお話しすぎてしまいましたので、ここでわたしの研究の中身について今一度詳しくご説明したいと思います。先に述べましたように、教育関係という領域のなかでの人間同士の倫理的関係について考えてみたいと思っているのです。当然、これは理念型のお話で、それが現実の学校教育のあり様だと言いません。しかし、現実の学校教育における人間関係が貧しければ貧しいほど、いかなる人間関係が望まれるのかについて言及しなければなりません。これが教育哲学を生業としている者に課せられた使命だとわたしは考え、この問題を引き受けようとしているのです。
この問題を考えるにあたって、わたしは、フランス人哲学者エマニュエル・レヴィナスの他者性と主体性の問題から、倫理的人間関係のありうべき姿を記述し、そこから教育の次元に活用していこうということが具体的な研究アプローチです。エマニュエル・レヴィナスは、ユダヤ系フランス人として、ドイツによるユダヤ人迫害の一犠牲者として生きた人物です。そのため、彼の思想には、名も忘れ去れたまま、死んでいった人たちへの徹底した責任を自らに課し、それを哲学という表現手段のなかで、記述していったのでした。彼は、ハイデガーの存在論に「暴力」という形容を与え、人間を数量的に把握し、すべてを「了解」という人間の認識次元で捉え尽くしてしまおうというやり方を批判しました。人間には汲みつくし得ない「何か」(これをレヴィナスは他者性という言葉で説明するのですが・・・)があることを自覚した上で、他者とともに生きていくということを他者に責任を負うことだ、と言明したのでした。実は、この辺りが極めて難解であるため、分かりやすく説明しようと今心がけていても、やはり説明しきれない何かが残されているような、深みをレヴィナスの哲学はもっています。
したがって、この思想をいわば教育学的に検討していこうというのがわたしのテーマです。教師と生徒がその役割関係を超えて、教師が生徒と出会い、その他者性(語り尽くせない何か)に触れるとき、ひとりだけで自存する自己を他者とともに生きる自己へと、教師も生徒もともに変容せしめられるということが、言葉だけではなくて、実際、日常的に起きている事でもあります(この日常的なことを論理で語ろうとするとき、何か難しいことのように聞こえてくるだけのことです)。
最近では、このレヴィナスの議論に加え、ジャック・デリダやポール・リクール、さらにはドイツで責任性に関する考察を深めたハンス・ヨナスらの思想を検討して、他者性と主体性の教育学的検討や教育における責任に関する基礎理論の構築を目標として、研究しています。

レヴィナス(1906-1995)
リトアニア生まれ
主著合田正人訳『存在のかなたへ』(講談社)
合田正人訳『全体性と無限』(国土社)