2002年7月 留学に向けて



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2002.07.25 homepage設置

留学に向けてホームページを作ることにする。

大学の交換留学プログラムで行くので、帰国時に留学状況の報告義務があるからだ。
本来は実物の日記帖に書くのがベストなのだろうが、ノートに書くのは面倒なので、ホームページにのせることにする。
当面は出発前の準備状況からはじめよう。
さらに三日坊主におわらないよう神様にも祈ろう。

留学なんかちっとも触れてない。

ま、いっか。
2002年07月26日 01時46分21秒



2002.07.26 奨学金手続き

今日は(財)日本国際教育協会が給付する短期留学奨学金の誓約書と入学許可書のコピーを大学の国際教育センターに提出する。

あとは駐日中国大使館でビザをとればいいんだけど、必要書類があと一つ足りない。健康診断書だ。
既に原本を華東師範大学へ送ってしまったので、それを証明する書類が必要なのだが、向こうの大学からちっとも送ってこない!!!

ま、そのうちなんとかなるだろう。

正式な講義が本日をもって終了。夏休み突入。
今年の夏は留学の準備でおわりそうだなあ。
2002年07月27日 22時24分48秒


2002.07.27 てんぷら

昼飯時に2001年3月の華東師範大学短期留学以来の友人M(♂)の家に行く。
てんぷらを食う為だ。

7月末から青島に住む中国人の友人宅を訪問するので、その際、日本料理としててんぷらを作るつもりらしい。今日はたった二人の試食会だ。

もちろん、二人とも今までてんぷらなど作ったことも無いので、適当な代物だったが、割合うまくできた。タネは鳥のささみ、ナス、ピーマン、イカがうまかった。えびは値段の割に味はいまいちだった。

きっと中国で作ったら喜んでくれるだろう。

2002年07月28日 01時06分33秒


2002.07.28 中国人の歴史観

劉傑著『中国人の歴史観』(文春新書 077 1999年)を100ページほど読む。

本書では、現象の分析に終始して現在から将来を予測する傾向が強い日本の現代中国研究への批判と、「侵略され、奪われた」中国近代史という視点から捉えた現代中国の外交思想と外交手法が検討されている。

著者の意見は中国の思考パターンと行動は、自国を「弱国」ととらえる歴史観に左右されている、というものだ。
中国を「社会主義の国だ、共産主義イデオロギーの国だ」とか「中華思想の国だ」というように捉える見方とは一線を画している。

この本を読むのは何度目かだけど、全部読んだらもうちょっと具体的にしっかりした書評を書こう。

今日は留学前にもうちょっと中国のことを勉強しようと思った日曜日だった。
2002年07月29日 02時06分39秒


2002.07.29 清仏戦争期の日本外交

今日は中国語のテスト。あまり芳しくはなかったが、先生と留学生活について少し話す。
宿舎について、一人部屋と二人部屋のどちらがいいか質問する。すると、最初は二人部屋でもそのうち一人部屋に移るケースが多いと聞き、はじめから一人部屋にしようと思う。

その後図書館でちょっと勉強。今日は、劉傑「清仏戦争期日本の外交政策−天津領事原敬を通しての一考察」『日本歴史』1987年4月 第467号を検討。

日本(原敬)と、清朝代表李鴻章、フランスの三カ国を軸に清仏戦争期の日本外交を描いている。
アクターとしては、清仏戦争終結によって、清が東方に意識を向けることを懸念する山県有朋、井上外務卿ら外交政策決定者と、日仏連合説を李鴻章に否定しつつ、仏との接触も絶やさなかった榎本武揚、原敬ら現場外交官と、日仏接近を懸念する李鴻章、日仏連合による清朝の挟み撃ちを図る仏側外交官らを設定している。
これらアクターに加え、日本からの銅輸出をめぐる清仏の駆け引き、北京政変での李鴻章の位置の変化、李−フールニエ協定、石炭輸出をめぐる清仏の駆け引きなどでの日本の対応が描かれている。
著者は結論として、清仏戦争は「日本にとって危機を意識する過程であり、危機の打開策を探索した過程で」あり、「日仏連合説を適宜に応用することによって、清仏両国を牽制し、「文明化」の実現に不可欠な安定した国際環境の創造過程でもあった」としていた。

清仏戦争期の日本外交なぞ全然知らなかったから面白く読めた。さらに、論文てこう書くのかあ、と目からうろこだった。
ただ、いまいち東次郎と福州組の位置付けが不明瞭だったのと、中国側の政策決定過程があまり描かれていなかったのがちょっと不満に思えた。ただこの不満は本論とずれてしまっているかな。
感想としては良い論文を読んだなあといった印象。

なんだかこのままじゃ留学情報より書評のほうが多くなりそう。
ま、いっか。

2002年07月30日 00時42分40秒


2002.07.30 飲み会

本日は大学院ゼミと学部ゼミの飲み会。

大学院ゼミの飲み会(食事会?)では明治通り沿いにある「四川料理 成都」というお店へ行く。
ここは料理がおいしい!その上安い!十品5人分で5千円。ビールは一杯240円!!
ただ、先生が食べた餃子の中にガラスの破片が入っていてびっくり。当然苦情。でもそのあとも他のお客さんに餃子を出し続けていた。
恐るべし「四川料理 成都」
しかも飲み物の代金はタダになり、割引券ももらったが、料理の代金はしっかりとられた。
恐るべし「四川料理 成都」

ここで話した内容は早稲田アジア研究会の発足についてと、戦前を題材にした論文の書き方について。熱い議論だった。内容はめんどいので割愛。

学部ゼミ飲み会は二次会から参加。
おなかいっぱいだったのでウーロン茶を頼んだら、四年生に「酒を飲まんとはけしからん」と言われ、『梅割焼酎りんごサワーウーロンハイ』にされる。すさまじい味のため飲めませんでした。
2002年07月31日 03時43分31秒


2002.07.31 留学手続きと顧維鈞

今日は研究科に留学届を提出する。
用意したものは留学届、入学許可書。特に問題も無く手続きは終了。しばらくしたら留学認可書類が送られてくるらしい。
ただ、交換留学の場合、学費は納めなきゃならんらしい。
なんでだろ?早稲田で授業受けてるわけじゃないんだけどなあ。
損した気分。

それから中央図書館で顧維鈞の回顧録をコピーする。
顧維鈞は1910年代から1960年代まで活躍した中国(中華民国・戦後は台湾側)の外交官で行政官で大政治家。
コロンビア大学で24歳の時に法学博士号をとり、袁世凱の秘書をやることから公人として出発。以後ワシントン領事館公使、パリ講和会議全権代表、ワシントン会議全権代表、国際連盟中国代表、中華民国外交部総長(外務大臣)、国務院総理代行(総理大臣)、財政部総長(財務大臣)などを歴任。リットン調査団にも中国代表として参加。その後、駐フランス大使、駐イギリス大使、駐アメリカ大使として中国の親欧米派外交官として活躍。国際連合にも中国代表として参加。最後は国際司法裁判所の裁判官を務めた。
この人を研究するのが自分のテーマ。
この人が残した回顧録がマイクロフィルムになって早稲田にあるのです。
ただ、全部で1万1千頁もあるので、まずは序文と目次だけ50頁ほどコピーする。

留学までにどれほど読めるかなあ。

そうそう、顧維鈞は上海生まれで、彼が生まれた上海市嘉定県には彼の記念館もあるのです。留学した時はきっとそこにも行くでしょう。
2002年08月02日 01時53分32秒


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